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 いつになく、足取りが重かった。初夏の良い陽気だというのに、マリアは俯いて石畳を見つめたまま、のろのろと街はずれに向かって歩いていた。
 あの青年に会ったら、謝ればいいのか。それとも礼を言えばいいのだろうか。
 昨夜は後味の悪いままに小屋を去ってしまった。とりあえずもう一度彼に会おうと思って足を運んでいるものの、実際に何と言って切り出せば良いのか考えあぐねて、重い溜息をつく。
 考えてみれば皮肉な話でもある。昨夜、彼に向かって叫んだことで、養女に行く決心がついたのだから。
 あの時の言葉は間違いなく本心だった。それが、神父が自分に対して言った言葉と重なることに気付いたのは、教会に帰り着いてから。そうして初めて、やっとその言葉を自分で受け入れる気になった。
 死んだ人を大切に思い続けることと、それに縛られて歩みを止めることとは違う。そのことの本当の意味を、やっと直接感じ取れたのかもしれない。
 いや、もしかしたらそれだけではないかもしれない。あの時の彼の顔――冷たく霞む河の向こう岸を見つめるような、死と虚無にとりつかれたような顔――を見た時、痛烈に思い知らされたのだ。自分には、そこまで行くことはできないと。どんなに想っても、想ったつもりになっていても、自分には死者の世界を見つめることはできない。ならば、こちら側で、生者の世界で生きていくことしかできないと。
 けれど。
 自分はそれでよくても、彼はどうなのだろう。心配に思う気持ちがある反面、今頃顔を出したところで、迷惑なだけかもしれないという気もしていた。その迷いが、マリアの足をひどく鈍らせていた。
 しかし、どんなに遅く歩いていても、足を動かしている限り、いつかは目的地に辿り着く。マリアは足をとめると、再び大きな溜息をついた。石のように重い頭を、ようやくのことで持ち上げる。
「あ……。」
 いつものように小屋を見上げて、マリアは思わず声を漏らしていた。
 いつもなら、煙突から出ているはずの黒い煙が、今日は出ていない。ぽつんと青空の中に突き立つ煤けた煙突が、どこか寂しそうにも滑稽にも見えた。
 じわり、と胸騒ぎにも似た冷たい違和感が胸に涌いて、ゆっくりと染み渡っていく。胸元で、硬く片方の拳を握りしめ、マリアは小屋の扉を叩いた。ぎゅっと唇を噛んで返事を待つ。
 しかし、それに返ってくる声はなかった。どんなに耳を澄ましてみても、しん、と冷たい静寂だけが張り詰めるのみ。降り注ぐ陽光はうららかなのに、それに似つかわしくない程に、酷薄な静謐が辺りを満たしていた。
 しばし思案してから、マリアはそっと扉を押した。きぃ、と小さく泣くように軋んで、扉はあっけなく内へと開いた。
「こんにちは……。」
 ほとんど独り言のように小声で言うと、ぽっかりと空いた入り口にそろりと顔だけを入れて、中の様子を伺う。正面に見える棚から大きな作業台へ、さらにむき出しの地面へ、そして火の入っていない炉へとそっと視線を動かす。
 やはりあの青年の姿は見えなかった。彼が仕事場を空けることなど、今までならまずなかったというのに。
 どこか不吉な予感がきゅっと胸を締める。その一方でマリアは、そこはかとない安堵をも、確かに胸の片隅に感じていた。
 少女は、そっと小屋の中に足を踏み入れた。白い陽射しが隠れ、どこかひやりとした空気がマリアを包む。
 窓から帯状に差し込む白い陽光が、静かな小屋の中に薄明るい光を投げていた。床の上に無造作に転がる、抜け殻のような工具や材料。主人のいない作業場はすっかり静まり返り、まるで時間が止まったかのようだった。
 マリアは溜息をつきながら、大きな作業台の周りをゆっくりと歩いた。
 彼は、どこへ行ったのだろうか。もう戻ってこないのだろうか。
 そんなことを思いながら、手持ち無沙汰に作業台や、奥に置かれた棚に手を触れる。ふとその指先が、棚の抽き出しの、小さな把手に絡む。
 心のどこかでいけないとという思いはあった。しかし、思いがけずあっさりとその手を引いていた。ごく軽い手ごたえを残して、抽き出しは静かに口を開ける。
「あ……。」
 そこには、あの顔のない兄妹が静かに座っていた。その柔らかな白木の像を、マリアはそっと抱き上げた。昨夜はただ無気味に見えた造作のない顔が、今はどこか哀しそうにも見えた。
 ほんのわずかではあるが、なぜか安堵にも似た奇妙な確信がわきあがる。彼がこれを置いてどこかに行ってしまうはずはないと、根拠もなくそう思えた。
 マリアは小さく溜息をついて、台座の裏のねじを巻いた。きりり、きりりと小気味よい音が、静まり返った小屋に響く。
 そっと棚の上においてやれば、2人の子どもは優しげな子守唄を奏で始める。
 今はもういないであろう子どものための子守唄は、きっとかつて在った時間を探して彷徨う青年のためのものでもあるのだろう。そして今は、まるで顔を知らない両親に思いを寄せるマリアにもそっと寄り添うように、澄んだ音が零れてくる。
 マリアは丸木の椅子に腰を下ろすと、頬杖をつき、そっと瞳を閉じて2人の調べに耳を傾けた。


 足の下で、踏み折った小枝が乾いた音を立てた。思いのほか響いたその音に、クラウスは苦々しく眉を寄せた。ついで溜息をつく。
 こんな些細な物音までもが、いちいち気に障る。器に満たされた水の水面のように、一度波立った気持ちは、なかなか鎮まらない。ともすれば溢れてしまいそうな程に。
 あの老人が帰った後も、掻き立てられるような焦燥感はむしろ強まる一方だった。気付けば、居ても立ってもいられないほどの苛立ちに急き立てられるようにして、ほんの少しばかりの荷物をひっつかみ、あの小屋を飛び出していた。そして、いつしかこんな山の中に立っている。
 クラウスは苛立たしげに伸ばしっぱなしの前髪をかきあげた。すっかり日は沈み、月の光も立ち並んだ木々に遮られて届かない。黒々とした景色の中に沈んでいて尚、彼は自分がどこにいるのかを把握していた。というよりもむしろ、初めから導かれるようにしてここを目指していたのかもしれない。
 もう一度諦めるように溜息をついて、青年はもう一歩足を踏み出した。不意に木立が途切れ、冴えた月光が差し込む。闇に慣れた目にはややまばゆい程のその光に、掌をかざして天を見上げる。
 あの夜からちょうど1年くらいになるはずだ。ここを去ったあの夜も、今と同じように、真円の月が冲天にかかっていた。
 ゆっくりと、視線を下ろしていく。濡れたような銀色の月の光の中に、集落の跡が黒々と浮かび上がっていた。

 
 まるで水の中にいるかのようだった。
 月に照らされて湿った空気が、しっとりと肌にまとわりつく。辺りを満たす重厚な静寂が、耳の中にまで入り込んで耳鳴りのように響く。夜の闇に沈む集落跡は黒々とした色を一層濃くし、ゆらゆらとわずかに揺らいでいるようにも見える。
 クラウスは、何かに引き寄せられるかのように、集落の方へと歩き出していた。一歩一歩土を踏む重い足も、自分のものではないかのような感覚に捕われる。
 水を打ったような静寂の中、少しずつ集落が近付いてくる。身体中から血の気が失せるような感覚を覚えながら、青年の両足は非情にも動きを止めなかった。
 いつしか、村の入り口に立っていた。望まずとも両目が、蒼い月の光を透かして、廃虚となった故郷を見渡していた。
 それは、全てが崩れ去った一年前そのままの姿を留めていた。山と重なった瓦礫、崩れた坑道跡、半分ほど壊れた民家、大きく傾いだ家屋……。まるで、一年前その時に紛れ込んだかのような錯覚さえ覚える。
 いや、本当にあれは過ぎ去ったことなのだろうか。あの街での空虚な日々が偽りで、未だ見果てぬ悪夢の中に囚われているのが現実ではなかろうか。
 歪んだ時間に放り込まれたような感覚に襲われて、軽い目眩を覚えながらも、クラウスは再び歩を進めていた。時折、踏みしだかれた瓦礫の破片が、じゃり、と嫌な音をたてる。息を潜めた建物の陰から、今にも何かが飛び出して来そうにも思える。冷たい汗が、勝手に首筋を流れる。
 一際重厚な民家の前に立って、青年は足を止めていた。少し傾いた分厚い木の扉には、ごつごつとした馬蹄型の金具。
 ここにはかつて、この村の長が住んでいた。優しくも厳格で、幼い頃、悪戯をしてはよく叱られた。そう思い出して、ずきりと胸が痛んだ。途端に激しく脈打ち始めた胸元を押さえ、重い首をゆっくりと回す。
 数件先の家が月明かりに浮ぶ。苦い悪心のような、鈍い塊が喉に込み上げてくる。絶望とも諦念ともつかないそれを抱え、足を引きずるようにしてその家の前に立つ。
 半壊した自分の生家を前にして、言葉は何も出てこなかった。胸が詰まるような息苦しさに、覚えず頭を掻きむしった。それでも足りず、持ち合わせていた革袋の中を、発作的に漁る。小屋を出る前に、手当たり次第に何かをひっ詰めたことだけは朧げに覚えていた。
 手には、何か硬いものが触れた。取り出してみれば、それは1組ののみと鎚だった。クラウスは、しばし呆然とそれを眺めていた。冴えた月光を照らして、のみの刃先が、鈍く光る。
 惑うように宙を彷徨った視線が、むき出しになった門柱替わりの石にぶつかった。クラウスは、何かに命じられたかのようにふらふらと石へと歩み寄り、そこにのみの刃先をあてがっていた。思いがけず、鎚を持つ右手に力が宿り、のみの頭めがけて降り下ろす。
 張り詰めた水面に波紋が広がって行くように。石の鳴く高い高い音が、銀色の月を揺らす。それは、渇いた、空洞のような彼の身体の隅々にまで響き渡った。冷たいような、熱いような、えもいわれぬ軽い痺れが、全身を駆け抜けて行く。
 熱にうかれたように一つ息を吐いて、もう一度鎚を降り下ろす。再び響く、悲鳴にも泣き声にも似た音が、青年の身体を震わせる。砕けた石の破片が顔をかすめて飛んでくるのを、どこか夢のような心地で見ていた。
 そのまま憑かれたように、何度も何度も鎚を下ろす。涸れ井戸に水が涌き出すかのように、この家に住んでいた頃の記憶が鎚音に呼ばれて蘇ってくる。両親の姿や声、幼かった自分、いつも片付かなかった部屋……。
 いつしかすっかり滑らかに削られた石の表面を見下ろして、再び息をつく。少しばかり思案して――いや、半ば無意識に、だったかもしれない――彼は、再びのみの刃先を石に当てていた。今度は力を加減して鎚を下ろす。かつん、とやや遠慮がちな音が響いた。削れた石に、文字を刻んでいく。かつてここに住んでいた、両親の名前を。
 2つ並んだそれを見下ろして、クラウスは肩で大きく息をついた。けだるさの中で、身体中が熱を帯びたように熱い。皮膚の下で、ざわざわと血が疼く。衝き動かされるように、次の民家へと足を進めていた。一部残っていた石壁に、再び鎚音を響かせる。
 石を切り出し、面を取り、ここにいた人の名前を、確かにここに在った証を、刻んでいく。月が静かに西の空へと滑って行く間、鎚音は一時も休まることはなかった。

 どれほどの時が経ったのだろうか。青年は荒い息をしながら、足元の石段をぼんやりと眺めていた。そこには最後に彫った幼馴染みの名前が、無言で彼を見返していた。
 青年は、わずかに口を開いた。が、乾き切った唇は何の言葉も紡いではくれなかった。痺れて火照った身体が、今さらながらだるさを訴えてくる。それに抗うだけの力もなく、クラウスは崩れるように、自ら彫った墓標の隣に座り込んだ。
 そのはずみで天を仰げば、すっかり白んだ空が目に入る。折から、東の空に朝日が昇るところだった。そのまま周囲を見渡せば、辺りはすっかり様変わりしていた。
 そこここに丈の長い草が生え、家々の壁も、木肌が白く乾燥してところどころひび割れていた。今クラウスが座っている石段も、表面が風化して荒れ、ざらついていた。乾いた陽光の下にさらされた村落の姿は、確かに一通り巡った季節の跡をその身に刻んでいた。まるで、一晩で一年もの月日が流れたかのように。
 木々を揺らす涼やかな早朝の風が、クラウスの顔をからかうように撫でていく。胸がつまるような、驚愕とも諦めともつかない感慨に、青年は深い溜息をついた。ふと俯いた目に、黄色い小さな花が留まる。ぽつりと忘れられたように緩くつぼんだ遅咲きの花が、太陽を迎えるように、ゆっくりゆっくりとほころび始める。
 視線が貼り付いてしまったかのように、目を離すこともできずにただ見つめるクラウスの前で、無数の柔らかで細い花弁が開いて、可憐な花を形作っていく。
 ――まるで……。
 霞みがかかったような頭の中で、クラウスはぼんやりと考えた。
 あの無邪気だった少年の、幼い笑顔のようだ……。そう思った途端、黄色い色が滲み、輪郭がぼやけて見えなくなった。


 マリアは、明るい陽射しの降り注ぐ石畳の道を歩いていた。街はずれまで来ると、いつものように足を止めて、小屋を見上げる。
 今日も、煤けた煙突は煙を吐かずにぽつんと虚空に突き立っている。それを見て、マリアは小さく溜息をついた。
 今日こそは戻ってくるだろうかとばかりに訪ねているうちに、主人のいなくなったこの小屋に足を運ぶのが、すっかりマリアの日課になっていた。少女は諦めたようにわずかに微笑んで、再び足を進めた。小屋へと数歩近付いて、はたりと再び足を止める。
 小屋の扉がほんの少し開いていた。昨日、立ち去る時に間違いなくきちんと閉めたのに。
 戸惑い立ちすくんだ少女をからかうように、折から吹いた風にあおられて扉がぎぃ、と小さな音をたてる。
 ようやく意を決して、マリアは足を踏み出した。そろそろと扉に手をかけゆっくりと開ける。大袈裟なまでにそれが軋んで、少女は思わず首を竦めた。
 そっと肩を下ろし、扉の隙間からゆっくりと小屋の中に視線を巡らせる。ふとその目が床に転がる足を認めて、マリアは思わず息を呑んだ。音を立てないようにしていたのも忘れて、勢い良く扉を押し開け、中に飛び込む。
 床に伏しているのがこの小屋の主人であることをすぐに見てとり、マリアは一瞬立ちすくんだ。
「ク、クラウスさん、大丈夫ですか?」
 少女が我に返った時には、青年の肩をつかんで激しく揺さぶっていた。死んだようにぐったりしていた青年は、何度目かの呼び掛けで、やっとうっすらと目を開く。
「……。」
 焦点の合わないままに、ぼんやりとした瞳をマリアに向けて、青年はほんのわずか唇を動かしたようだった。
「……え?」
 思わず聞き返したマリアだったが、その声のせいでか、青年の瞳は急速にまとまった光を取り戻した。まだ少しぼんやりとしてはいるようだが、マリアの顔はそれと認めたようだった。少し意外そうな表情を浮かべて、彼はやや掠れた声をあげた。
「あ……、君か。」
「はい……。」
 彼と話をするためにこの小屋に通っていたはずなのに。思いもしなかった状況に、マリアはどう切り出せばいいのかわからなかった。呆然としたままに返事をすると、青年は聞いているのかいないのか、ゆっくりと上体を起こした。背中が痛むのだろう、顔をしかめてから、小屋の中に視線を巡らし、改めてマリアへと目を向ける。
「……俺、寝てた?」
「……。」
 彼のどこか間の抜けた質問に、マリアはただこくりと頷ずくしかなかった。
「そ、か……。」
 少女の困惑もお構いなしに、クラウスは曖昧にそう呟くと、俯いたまま小さく息を吐いた。そんな彼に戸惑いを隠しきれず、マリアは瞬きをしながらも、じっと青年を見つめ返す。
 なぜか、そこはかとない違和感を彼に覚えずにはいられなかった。何が違うというのかはわからないが、極端な話、この青年に初めて逢ったかのような錯覚さえ覚えて、思わず彼の姿を食い入るようにじっと見詰めてしまう。
 どこで何をしていたのか、全身砂や埃にまみれて、ところどころ引っ掻いたり擦ったような傷さえある。顔色だってずいぶんと悪い。それも気にはなったが、違和感の正体だとは思えなかった。
「ん? ……あ、失礼……。」
 まといつくようなマリアの視線にやや訝しげな顔をした青年も、自分の頬に触れ、そしてその手を見て、やっと薄汚れた自分の姿に気付いたらしい。疲れを残した顔に、きまり悪そうな笑みを浮かべた。
「……どこに、行ってたんですか?」
 思いのほか愛嬌のある、その仕種にも表情にも以前とは違う印象を受ける。聞くべきではないかもしれないと思いながらも、マリアは尋ねずにはいられなかった。
「ちょっと……。仕事を……、というところかな。」
 彼はふと視線を宙に遊ばせ、曖昧に答えた。その顔に、懐かしむようなやんわりとした笑みが浮ぶ。大人びているようで、ほんの少し子どもっぽさを残した笑み。間違いなく、彼がこの街に来てから一度も見せたことのない表情だった。
「……。」
 完全にあっけにとられ、マリアはあんぐりと口をあけた。その一方で、明確な答えが返ってこなかったことに、どこかしら安堵も感じていた。
「さて、と……。」
 伸びっぱなしの前髪をかきあげて、青年はおもむろに立ち上がった。その弾みで革袋が床に転がり落ち、他愛なく中身を吐き出した。重たく投げ出された工具の間を縫って、何か軽い塊がマリアの足元まで転がってくる。彼女はそれを反射的に拾い上げていた。
「あ……。」
 やれやれといった面持ちで工具を拾い上げていたクラウスが、マリアの呟きを聞き止めて顔を上げた。少女の手許を認めて、ぎょっとした表情を浮かべる。
「これ……。たんぽぽですか?」
 マリアの方は青年の動揺に気付かず、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「い、いや、それは試作品だから……。」
 いっそわかりやすい程の青年の狼狽ぶりに、マリアは軽く首を傾げた。そして、再び手許の木彫りの花へと視線を落とす。
 確かに青年の言葉の通り、今まで彼の作ってきたものに比べれば、ずいぶんと彫りの粗さが目立つ。それでも、半ばほころんだ小さな花は今にも開きそうで、その可憐な力強さがマリアの目を捕らえて離さなかった。それが、太陽を迎えて咲く花だからかもしれない。
「試作品……。じゃあ、これは誰かに届けなきゃいけないものじゃないんですね?」
「う、うん……。まあ……。それは……。」
「じゃあ、これ、あたしがもらってもいいですか?」
 しどろもどろに言い訳がましく言葉を探すクラウスを尻目に、マリアは自分でも驚く程大胆な言葉を口にしていた。
「え?」
「……ダメ、ですか?」
 思わず目を丸くしたクラウスを、マリアは上目遣いで見上げた。それを見て、ますますクラウスの方は慌てた顔になる。
「そうじゃなくて……、今度、ちゃんとしたのを作るから……。」
「でもあたし、もらえるならこれがいいんです。」
 なんとか言い繕おうとする青年の言葉を、マリアはきっぱりと遮った。途端、青年は困惑をありありと顔に浮かべた。
「でもそれじゃあ、グッゲンビュールさんが……。」
「え? お父さんが?」
 彼の口から出た思い掛けない名前に、マリアは目を瞬かせた。青年は自らの失言に頭をかき、しばし考え込んだ後に、観念したかのように言葉を続けた。
「その……、君の新しい御両親からの依頼だったんだ。君に、最高の贈り物をしたいってね。」
「え……。お父さんとお母さんがそんなことを……。」
 一瞬、のどがつまったような気がして、マリアは胸を押さえた。ともすれば泣き顔になりそうな顔を、何とか笑みの形に留める。
「じゃあ……、やっぱり、これを下さい。お父さんだってわかってくれます。」
「そ、そうかい?」
 完全に少女に押し負けた青年は、言い争うのを諦めたようだった。それでも割り切れないところはあるらしい。ぶつぶつと小声で何やら呟いている。
「それはそうと、クラウスさん、出かけている間、ちゃんと食事しました? 顔色悪いですよ。」
 じんわりと潤んできそうな瞳を悟られるのが気恥ずかしくて、マリアは唐突に話題を変えた。探るように青年の瞳を覗き込む。
「あ……。それは……。」
「じゃあ、何か食べるもの持ってきますね。……これ、ありがとうございました。」
 再び言い淀んだ青年を置き去りに、マリアはにこりと笑うと小屋の扉に手をかけた。
 たんぽぽってその辺にも咲いてたんだな……。
 空気に溶けるような、小さな呟きが幻のようにマリアの耳に届く。少女はそっと視線を手許に落とした。陽の届かない、冷たく霞んだ河の向こうでは咲かない花。ほんの少しの笑みを口元に浮かべて、そのまま扉を押すと、さっと眩しい陽光が差し込んでくる。
 マリアは掌をかざして空を見上げた。抜けるような青空に、白い下弦の月がうっすらと浮んでいる。
 今日も、よい陽気だった。

    

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