まるで水の中にいるかのようだった。
月に照らされて湿った空気が、しっとりと肌にまとわりつく。辺りを満たす重厚な静寂が、耳の中にまで入り込んで耳鳴りのように響く。夜の闇に沈む集落跡は黒々とした色を一層濃くし、ゆらゆらとわずかに揺らいでいるようにも見える。
クラウスは、何かに引き寄せられるかのように、集落の方へと歩き出していた。一歩一歩土を踏む重い足も、自分のものではないかのような感覚に捕われる。
水を打ったような静寂の中、少しずつ集落が近付いてくる。身体中から血の気が失せるような感覚を覚えながら、青年の両足は非情にも動きを止めなかった。
いつしか、村の入り口に立っていた。望まずとも両目が、蒼い月の光を透かして、廃虚となった故郷を見渡していた。
それは、全てが崩れ去った一年前そのままの姿を留めていた。山と重なった瓦礫、崩れた坑道跡、半分ほど壊れた民家、大きく傾いだ家屋……。まるで、一年前その時に紛れ込んだかのような錯覚さえ覚える。
いや、本当にあれは過ぎ去ったことなのだろうか。あの街での空虚な日々が偽りで、未だ見果てぬ悪夢の中に囚われているのが現実ではなかろうか。
歪んだ時間に放り込まれたような感覚に襲われて、軽い目眩を覚えながらも、クラウスは再び歩を進めていた。時折、踏みしだかれた瓦礫の破片が、じゃり、と嫌な音をたてる。息を潜めた建物の陰から、今にも何かが飛び出して来そうにも思える。冷たい汗が、勝手に首筋を流れる。
一際重厚な民家の前に立って、青年は足を止めていた。少し傾いた分厚い木の扉には、ごつごつとした馬蹄型の金具。
ここにはかつて、この村の長が住んでいた。優しくも厳格で、幼い頃、悪戯をしてはよく叱られた。そう思い出して、ずきりと胸が痛んだ。途端に激しく脈打ち始めた胸元を押さえ、重い首をゆっくりと回す。
数件先の家が月明かりに浮ぶ。苦い悪心のような、鈍い塊が喉に込み上げてくる。絶望とも諦念ともつかないそれを抱え、足を引きずるようにしてその家の前に立つ。
半壊した自分の生家を前にして、言葉は何も出てこなかった。胸が詰まるような息苦しさに、覚えず頭を掻きむしった。それでも足りず、持ち合わせていた革袋の中を、発作的に漁る。小屋を出る前に、手当たり次第に何かをひっ詰めたことだけは朧げに覚えていた。
手には、何か硬いものが触れた。取り出してみれば、それは1組ののみと鎚だった。クラウスは、しばし呆然とそれを眺めていた。冴えた月光を照らして、のみの刃先が、鈍く光る。
惑うように宙を彷徨った視線が、むき出しになった門柱替わりの石にぶつかった。クラウスは、何かに命じられたかのようにふらふらと石へと歩み寄り、そこにのみの刃先をあてがっていた。思いがけず、鎚を持つ右手に力が宿り、のみの頭めがけて降り下ろす。
張り詰めた水面に波紋が広がって行くように。石の鳴く高い高い音が、銀色の月を揺らす。それは、渇いた、空洞のような彼の身体の隅々にまで響き渡った。冷たいような、熱いような、えもいわれぬ軽い痺れが、全身を駆け抜けて行く。
熱にうかれたように一つ息を吐いて、もう一度鎚を降り下ろす。再び響く、悲鳴にも泣き声にも似た音が、青年の身体を震わせる。砕けた石の破片が顔をかすめて飛んでくるのを、どこか夢のような心地で見ていた。
そのまま憑かれたように、何度も何度も鎚を下ろす。涸れ井戸に水が涌き出すかのように、この家に住んでいた頃の記憶が鎚音に呼ばれて蘇ってくる。両親の姿や声、幼かった自分、いつも片付かなかった部屋……。
いつしかすっかり滑らかに削られた石の表面を見下ろして、再び息をつく。少しばかり思案して――いや、半ば無意識に、だったかもしれない――彼は、再びのみの刃先を石に当てていた。今度は力を加減して鎚を下ろす。かつん、とやや遠慮がちな音が響いた。削れた石に、文字を刻んでいく。かつてここに住んでいた、両親の名前を。
2つ並んだそれを見下ろして、クラウスは肩で大きく息をついた。けだるさの中で、身体中が熱を帯びたように熱い。皮膚の下で、ざわざわと血が疼く。衝き動かされるように、次の民家へと足を進めていた。一部残っていた石壁に、再び鎚音を響かせる。
石を切り出し、面を取り、ここにいた人の名前を、確かにここに在った証を、刻んでいく。月が静かに西の空へと滑って行く間、鎚音は一時も休まることはなかった。
どれほどの時が経ったのだろうか。青年は荒い息をしながら、足元の石段をぼんやりと眺めていた。そこには最後に彫った幼馴染みの名前が、無言で彼を見返していた。
青年は、わずかに口を開いた。が、乾き切った唇は何の言葉も紡いではくれなかった。痺れて火照った身体が、今さらながらだるさを訴えてくる。それに抗うだけの力もなく、クラウスは崩れるように、自ら彫った墓標の隣に座り込んだ。
そのはずみで天を仰げば、すっかり白んだ空が目に入る。折から、東の空に朝日が昇るところだった。そのまま周囲を見渡せば、辺りはすっかり様変わりしていた。
そこここに丈の長い草が生え、家々の壁も、木肌が白く乾燥してところどころひび割れていた。今クラウスが座っている石段も、表面が風化して荒れ、ざらついていた。乾いた陽光の下にさらされた村落の姿は、確かに一通り巡った季節の跡をその身に刻んでいた。まるで、一晩で一年もの月日が流れたかのように。
木々を揺らす涼やかな早朝の風が、クラウスの顔をからかうように撫でていく。胸がつまるような、驚愕とも諦めともつかない感慨に、青年は深い溜息をついた。ふと俯いた目に、黄色い小さな花が留まる。ぽつりと忘れられたように緩くつぼんだ遅咲きの花が、太陽を迎えるように、ゆっくりゆっくりとほころび始める。
視線が貼り付いてしまったかのように、目を離すこともできずにただ見つめるクラウスの前で、無数の柔らかで細い花弁が開いて、可憐な花を形作っていく。
――まるで……。
霞みがかかったような頭の中で、クラウスはぼんやりと考えた。
あの無邪気だった少年の、幼い笑顔のようだ……。そう思った途端、黄色い色が滲み、輪郭がぼやけて見えなくなった。
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