月明かりが夜の街を仄かに照らし出していた。ひんやりと沈んだ空気の中、蒼い光を浴びて、見慣れたはずの街がどこか違った趣きを見せる。
黒々と立ち上がる木々、息を潜めたように佇む家々。わずかに覚えた戸惑いに、一瞬躊躇うかのように左右を見回してからマリアは歩き始めた。ぼやりと月光を跳ね返し、おぼろに光る足元の石畳をしっかりと見つめながら、町外れへと足を進める。
いつもよりも長く思える道を歩くマリアの耳に、ぽろんぽろんと澄んだ音が響く。ぴんと張詰めた弦を弾くような音にも似た、それでいてもう少し硬質な色を湛えた不思議な音。
マリアは思わず立ち止まって、顔を上げた。ほのかに光る窓が向こうの方に見える。いつの間にか、あの青年の作業小屋が目に見えるところまで来ていたようだ。
気紛れなミューズの掌から零れ落ちてきたかのようなその音は、確かに聞こえてくる。どうやら思い過ごしではなかったようだ。むしろ、次第にその輪郭ははっきりとして、どこか懐かしい旋律を形作っていく。
どこかで聞いたことはあっただろうか。考えを巡らせてみても思い出せない。けれど、その調べはどこか心の奥にじわりと響いて、なんともいえない不思議な安堵と、掻き立てられるような郷愁とを引き起こす。ほっとするようでいてどこか落ち着かない、不思議な気分に捕らわれたまま、マリアは小屋の扉を押していた。
「あっ……。」
不意に赤いランプの光が眼に入り、マリアは思わず気まずい声を漏らして肩をすくめた。不思議な調べに気を取られて、つい、ノックもせずに入ってしまったことに気付いたのだ。
「えっ……。」
青年は作業台の上にランプを置いて、そのそばで何やら細かい作業をしていたが、よっぽどそれに没頭していたらしい。慌ててあげたその顔には、まさに「驚愕」と形容するに相応しい表情が張り付いていた。普段は滅多に表情を崩さない青年のあまりの驚き様に、逆にマリアの方が驚いてしまう。
それでも、マリアの視線はすぐに、青年の手許に吸い寄せられた。さっきから聞こえていた音は、どうやらこの小さな円筒形の金属から出ていたらしいと気付いて。
「……どうしたの、こんな遅くに。」
しばらくあっけにとられた顔をしていた青年が、やっと気を取り直したという風情で口を開いた。マリアの視線が自分の手許に釘付けになっていることを察してか、ほんの少しの苦笑を漏らす。
「あ、そうだ……。さっき、間違えて持って行っちゃったんです、これ。ごめんなさい。」
マリアの取り出した品を見て、今度こそ青年は凍り付かんばかりの表情を浮かべて絶句した。
「ご……ごめんなさい。あ、あの、やっぱり注文、間に合わなかったんですか? ごめんなさい、あたし、謝りに行きます。」
その反応に、マリアの方もみるみるうちに顔面蒼白になった。慌ててあらんかぎりの謝罪の言葉を繰り返し、ひたすら頭を下げる。
「あ、いや、そうじゃない……。そうじゃ、ないんだ……。」
あまりのマリアの慌て様に、青年は少しだけ表情を緩めた。未だその顔色は幾分青ざめてはいたけれど。
「これは、注文されて作っているものじゃないんだ。ただ、俺が作っただけなんだけど……。まさか見られるとは思わなくて……。」
ひどく歯切れの悪い口調でそう言うと、青年は像を手に取った。しばらく思案顔でそれを眺めていたが、先程までいじっていた金属の部品を、台座の裏の空洞にはめ込む。裏に空いた穴にゼンマイを差し込んで、確かめるようにそれを巻く。固まった空気の中で、きりりきりりと鳴る音が鮮やかにも厳かにも響く。
青年がそっと手を離せば、先程の音色が再び旋律を刻み始める。柔らかな白木の像に包まれたせいか、その音はさらに優しげだ。
「すごい……。勝手に曲が鳴ってる……。」
「長さの違う金属板を、筒につけた突起が順番に弾くように細工してあるだけだよ。」
マリアが感心すると、青年は苦笑してこともなげにそう言った。あたかも、何も特別なことはしていないとでも言うかのように。
けれど、マリアにしてみれば、勝手に曲を奏でるからくり細工など見たことも聞いたこともない。充分に驚くに値するものだと思うのだが、これ以上言っても彼を困惑させるだけだろうと悟って、話を変えることにした。
「これ……、子守唄、ですか?」
やはり、聞き覚えはないのにどこか懐かしい。それが調べではなく響きにあるように感じたマリアは、おずおずと尋ねてみた。
「ああ、俺の故郷で唄われてた……。『月の瞳』という歌でね。毎晩毎晩、赤ん坊を抱いて月の下でこの歌を唄っていた女の人もいたよ。」
青年は、静かな視線を2人の像に落としたまま、独り言のように呟いた。
「……『月の瞳』? どんな詞なんですか?」
彼の言葉に出て来た「故郷」という言葉もマリアの耳を惹いたけれど、それ以上にやはり歌の名前の方も気になった。
「詞かい? ……どんなのだったかな……。確か、忘れられた魂も、埋もれてしまった心も……月の光に照らされて、輝き始める……というようなのだった……かな。」
青年は、記憶の中を探るかのように軽く目を瞑り、抑揚のない口調で淡々と続けた。
「ちゃんとした詞はあまり覚えていないけど、昼間、太陽の元では見えなくて忘れられているものでも、月の瞳はきちんと拾ってくれる。行き場を失くした思いも、還るべき場所を見つける……、だから、安心して眠りなさい、そんな内容の詞だったよ、確か。」
「そうですか……。なんだか、まるで、死んじゃった人のための唄みたいですね……。」
しんみりと呟いたマリアの言葉に青年は一瞬表情を硬くしたが、少女はそれに気付くことなく言葉を続けた。
「でも、昼間は見えないものが……、それで忘れられてるものが、輝きを取り戻す……。たとえ見えなくても、ちゃんとそこにある……。」
強烈な感銘を受けたわけではない。なのに、なぜかその詞はすんなりと胸の中に染み込んでくる。ともすればするりとすりぬけてしまいそうな感慨を確かめるように、マリアは一言一言言葉を紡ぐ。
おぼろげな余韻を残した胸にそっと手を当て、はたとマリアは我に返った。こんな遅くに青年の作業小屋にまで押し掛けてきておいて、すっかり自分の世界に入ってしまっていたのだ。
見れば青年は、冷たいほどの無表情で、木彫りの像を撫でている。それは一瞬、背筋がぞくりとするかと思うくらいに。
「ごめんなさい、ご迷惑をおかけして……。それ、見ちゃいけなかったんですね……。」
マリアがうなだれると、青年は再び軽く目を瞑った。虚ろなようでもあり、多くの思いを湛えているようでもあるその表情。マリアにはもはや、そこから彼の心を伺うこともできなかった。
「別に、そんなことはないよ……。確かに驚いたし……、元々、人に見せるために作ったものじゃなかったから……。ただ……、俺が遺したかった……だけだから。」
「遺す……?」
訥々と語る青年の口から漏れた不穏な言葉に、今度こそマリアは背筋が寒くなるのを感じていた。
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