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 気付けば、籠の重みで右手の指先が痺れていた。肘の内側にくっきりと跡がついているのを見つけて、マリアは苦笑しながら教会の扉を押した。
「ただいま戻りました。」
 木のドアを閉めると、籠を左手に持ち替える。じんわりと、右手にくすぐったい温もりが戻ってくる。
「おかえり、マリア。遅かったね。」
 神父が優しげな笑顔で出迎える。ずっと親代わりをしてくれたこの人の好い神父が、マリアは大好きだった。けれど、今日は何故か、白いものがちらほらと混じり始めたその髪へと視線が向いてしまう。
「はい。クラウスさんのところに寄ってましたから……。あ、あとこれ、グッゲンビュールさんとこで頂きました。」
「……そうかい。」
 答えた神父の口調は、どこか寂しそうにも聞こえた。マリアは、その響きに気付かない振りをして、籠を側に置くと、いつものように聖母子像の前に跪いて祈りの言葉を口にする。
 みどり子を抱いた聖母が、柔らかな慈愛の笑みを浮かべて少女を見下ろす。幼い頃から見上げて来たこの聖母子像は、何故か木でできている。そのせいか、柔らかさも優しさも格別で、石の像よりよほど聖母らしいと常々マリアは思っていた。ひょっとすればそれは、マリアを生んですぐに亡くなった母親がこの聖母像によく似ていたと、幼い頃から聞かされてきたせいかもしれない。
 ただ、やはり木でできている分、傷みは激しい。ところどころ染みができていたり、遠目にもわかる程のひびが入っていたりする。
 そういえば、マリアと同じように彼の作品に惚れた神父が、以前聖母子像の製作なり修繕なりを頼んだことがあったが、彼は結局首を縦には振ってくれなかったらしい。自分には荷が重すぎると彼は言い通したと、神父が残念そうにぼやくのを、複雑な気持ちで聞いたことを思い出す。
 いつも通りの祈りを終えて、マリアは立ち上がった。置いておいた籠をとり、奥の部屋へと入ると、手際よくその中身を仕分けする。
「……神父さま。」
 背中に注がれる視線に向かって、静かに声をかける。自分の顔が笑みの形になっていることを確認して、マリアはゆっくりと振り返った。
「あたしのお父さんとお母さんの話、聞かせてくれますか?」
「マリア……。」
 根が正直者の神父は、戸惑いの色を隠しきれずに曖昧な表情を浮かべた。それは、グッゲンビュール夫妻から養女の話を既に聞いていることを告白しているに等しかった。
「何度もごめんなさい。でも、あたしは、お父さんの顔もお母さんの顔も知りませんから……。だから、せめてどんな人だったかは知っておきたいんです。だって……、お母さんは、あたしを生まなきゃまだ生きていたかもしれない、お父さんだって、お母さんが生きてたら死ななくて済んだかもしれない。なのに、あたしは二人のことを、何も覚えてないだなんて……。」
 マリアは、俯いて小さく息を吐いた。再び顔をあげると、思いきったように続ける。
「あたしよりもずっとここを必要としている子がいることも……、いつまでもここにいるわけにはいかないっていうのも、わかっているんです。あたしも、グッゲンビュールさんも奥さんも大好きです。一緒に暮らしたいって言って下さるのも、すごく嬉しいんです。でも……、もしもあたしが、他の人を『お父さん』『お母さん』と呼んじゃったら……。そしたら、お父さんとお母さんはどうなっちゃうんだろうって……。」
「マリア。」
 再び俯いた少女の震える肩に、神父は大きな手をそっと置いた。
「優しい子だね、お前は。……ここには、いくらでも、好きなだけいてもいいんだよ。お前が気にする必要は何もないんだ。何にも遠慮をすることはない。」
 優しく、諭すように語る神父の声は、沁み入るように低くて、耳に心地よい。
「けどね、もし、お前が養女に行くことが、お父さんとお母さんを裏切ることじゃないかと心配しているのなら、それは違うよ。何度も言うようだけど、お前を授かった時、お母さんはとても喜んでいたよ。お父さんだって、生まれたマリアを見てどれほど喜んだことか……。お母さんが亡くなってからも、お前が笑う度に、本当に嬉しそうな顔をしていたよ。だから、あの2人は、お前が幸せに笑っていることを一番望んでいると、私は思っているよ。」
「でも……。」
 マリアは言い淀んだ。神父は、そんな少女をわずかに目を細めて見つめ、変わらぬ口調でさらに言い募る。
「お前が、2人のことを覚えてないのなら、私が何度でも聞かせてあげる。覚えていなくても、思いを寄せることはできる。2人のために祈ることもできる、たとえばお前に大切な人や、子どもができた時に、語り継ぐことだってできる。……それに第一、たとえ養女に行ったとしても、本当の両親のことを心の中から追い出す必要もないはずだよ。あの人たちがそんなことを気にする人じゃないというのはわかるだろう?」
「……はい。」
 マリアが曖昧に頷くと、神父はかすかな苦笑いを浮かべた。
「なんだかんだと長々と言ってしまったけれど、結局はマリアの気持ちのままに、正直に決めればいいんだよ。他のことを気にする必要なんか全くない。お母さんとお父さんのために、養子に行きたくないなら、それはそれで立派な決断だと思うよ。勿論、その逆も。」
「そう、ですね……。よく考えます。ごめんなさい、ありがとうございました。」
 軽く胸に手をあてて、マリアは神父に礼を言った。未だ胸の中には、雲のように色々な思いが渦巻いて、定まらない。けれど、どことなく暖かい気分にはなった。最後は自分で決めなければいけない、これだけははっきりと自覚して、ほんの少しだけ微笑む。
「くれぐれも、思い詰めないようにね。私でよければいくらでも相談に乗るから。」
 柔和な微笑みを残して、神父は礼拝堂へと去って行った。その後ろ姿を見送って、マリアは再び籠へと目を落とす。
 中に残っているのは、クラウスのところで預かってきた包みだけだった。そういえば、慌ただしかったのでまだ中身を見ていない。確か夫妻の注文は、透かし彫りの状差しのはずだった。
 マリアは、楽しみを思い出してくすりと笑った。神父にある程度話して、ほんの少しだけではあるが、気は楽になった。そうなると、悩むのは少し先延ばしにして、持ち前の好奇心が顔を出す。明日、グッゲンビュール夫妻のところへ持って行くまで待ち切れず、マリアはそっと包みを解いた。
「あ……。」
 思わず、マリアは茫然と声を漏らしていた。
「すごい……。」
 それは、2人の幼い子どもを象った彫像だった。台座に座り込んで軽く首を傾げているのは、幼い少女。その傍らで、軽く両手を広げた年嵩の少年が、少女の顔を覗き込むかのように少しかがんでいる。まるで何かを語りかけているかのように。
 柔らかそうな手足に、衣服の細かいひだ。今にも動きそうな愛らしい2人に感嘆の溜息をもらしてから、マリアは初めてそれが製作途中であることに気が付いた。
 ここまで細かく作り込まれているのに、2人にはまだ顔が刻まれていない。
 少しがっかりしながらそれを元の包みに戻そうとして、はっと我に返る。
 どう見てもこれは、グッゲンビュ−ル夫妻の注文の品ではない。あの時、どさくさにまぎれて間違えた品を持って帰ってきてしまったのだ。
「もう、やだ、あたしったら……。」
 それも、製作途中の品なのだ。誰からの注文かはわからないが、彼はとても困っているかもしれない。窓の外はすっかり闇に沈んでいる。彼ももう休んでいるかもしれない。けれども、気付いたからにはすぐに返しに行くべきだろう。
 マリアは再び籠を手にとると、教会の外へと走り出していた。

 
 月明かりが夜の街を仄かに照らし出していた。ひんやりと沈んだ空気の中、蒼い光を浴びて、見慣れたはずの街がどこか違った趣きを見せる。
 黒々と立ち上がる木々、息を潜めたように佇む家々。わずかに覚えた戸惑いに、一瞬躊躇うかのように左右を見回してからマリアは歩き始めた。ぼやりと月光を跳ね返し、おぼろに光る足元の石畳をしっかりと見つめながら、町外れへと足を進める。
 いつもよりも長く思える道を歩くマリアの耳に、ぽろんぽろんと澄んだ音が響く。ぴんと張詰めた弦を弾くような音にも似た、それでいてもう少し硬質な色を湛えた不思議な音。
 マリアは思わず立ち止まって、顔を上げた。ほのかに光る窓が向こうの方に見える。いつの間にか、あの青年の作業小屋が目に見えるところまで来ていたようだ。
 気紛れなミューズの掌から零れ落ちてきたかのようなその音は、確かに聞こえてくる。どうやら思い過ごしではなかったようだ。むしろ、次第にその輪郭ははっきりとして、どこか懐かしい旋律を形作っていく。
 どこかで聞いたことはあっただろうか。考えを巡らせてみても思い出せない。けれど、その調べはどこか心の奥にじわりと響いて、なんともいえない不思議な安堵と、掻き立てられるような郷愁とを引き起こす。ほっとするようでいてどこか落ち着かない、不思議な気分に捕らわれたまま、マリアは小屋の扉を押していた。
「あっ……。」
 不意に赤いランプの光が眼に入り、マリアは思わず気まずい声を漏らして肩をすくめた。不思議な調べに気を取られて、つい、ノックもせずに入ってしまったことに気付いたのだ。
「えっ……。」
 青年は作業台の上にランプを置いて、そのそばで何やら細かい作業をしていたが、よっぽどそれに没頭していたらしい。慌ててあげたその顔には、まさに「驚愕」と形容するに相応しい表情が張り付いていた。普段は滅多に表情を崩さない青年のあまりの驚き様に、逆にマリアの方が驚いてしまう。
 それでも、マリアの視線はすぐに、青年の手許に吸い寄せられた。さっきから聞こえていた音は、どうやらこの小さな円筒形の金属から出ていたらしいと気付いて。
「……どうしたの、こんな遅くに。」
 しばらくあっけにとられた顔をしていた青年が、やっと気を取り直したという風情で口を開いた。マリアの視線が自分の手許に釘付けになっていることを察してか、ほんの少しの苦笑を漏らす。
「あ、そうだ……。さっき、間違えて持って行っちゃったんです、これ。ごめんなさい。」
 マリアの取り出した品を見て、今度こそ青年は凍り付かんばかりの表情を浮かべて絶句した。
「ご……ごめんなさい。あ、あの、やっぱり注文、間に合わなかったんですか? ごめんなさい、あたし、謝りに行きます。」
 その反応に、マリアの方もみるみるうちに顔面蒼白になった。慌ててあらんかぎりの謝罪の言葉を繰り返し、ひたすら頭を下げる。
「あ、いや、そうじゃない……。そうじゃ、ないんだ……。」
 あまりのマリアの慌て様に、青年は少しだけ表情を緩めた。未だその顔色は幾分青ざめてはいたけれど。
「これは、注文されて作っているものじゃないんだ。ただ、俺が作っただけなんだけど……。まさか見られるとは思わなくて……。」
 ひどく歯切れの悪い口調でそう言うと、青年は像を手に取った。しばらく思案顔でそれを眺めていたが、先程までいじっていた金属の部品を、台座の裏の空洞にはめ込む。裏に空いた穴にゼンマイを差し込んで、確かめるようにそれを巻く。固まった空気の中で、きりりきりりと鳴る音が鮮やかにも厳かにも響く。
 青年がそっと手を離せば、先程の音色が再び旋律を刻み始める。柔らかな白木の像に包まれたせいか、その音はさらに優しげだ。
「すごい……。勝手に曲が鳴ってる……。」
「長さの違う金属板を、筒につけた突起が順番に弾くように細工してあるだけだよ。」
 マリアが感心すると、青年は苦笑してこともなげにそう言った。あたかも、何も特別なことはしていないとでも言うかのように。
 けれど、マリアにしてみれば、勝手に曲を奏でるからくり細工など見たことも聞いたこともない。充分に驚くに値するものだと思うのだが、これ以上言っても彼を困惑させるだけだろうと悟って、話を変えることにした。
「これ……、子守唄、ですか?」
 やはり、聞き覚えはないのにどこか懐かしい。それが調べではなく響きにあるように感じたマリアは、おずおずと尋ねてみた。
「ああ、俺の故郷で唄われてた……。『月の瞳』という歌でね。毎晩毎晩、赤ん坊を抱いて月の下でこの歌を唄っていた女の人もいたよ。」
 青年は、静かな視線を2人の像に落としたまま、独り言のように呟いた。
「……『月の瞳』? どんな詞なんですか?」
 彼の言葉に出て来た「故郷」という言葉もマリアの耳を惹いたけれど、それ以上にやはり歌の名前の方も気になった。
「詞かい? ……どんなのだったかな……。確か、忘れられた魂も、埋もれてしまった心も……月の光に照らされて、輝き始める……というようなのだった……かな。」
 青年は、記憶の中を探るかのように軽く目を瞑り、抑揚のない口調で淡々と続けた。
「ちゃんとした詞はあまり覚えていないけど、昼間、太陽の元では見えなくて忘れられているものでも、月の瞳はきちんと拾ってくれる。行き場を失くした思いも、還るべき場所を見つける……、だから、安心して眠りなさい、そんな内容の詞だったよ、確か。」
「そうですか……。なんだか、まるで、死んじゃった人のための唄みたいですね……。」
 しんみりと呟いたマリアの言葉に青年は一瞬表情を硬くしたが、少女はそれに気付くことなく言葉を続けた。
「でも、昼間は見えないものが……、それで忘れられてるものが、輝きを取り戻す……。たとえ見えなくても、ちゃんとそこにある……。」
 強烈な感銘を受けたわけではない。なのに、なぜかその詞はすんなりと胸の中に染み込んでくる。ともすればするりとすりぬけてしまいそうな感慨を確かめるように、マリアは一言一言言葉を紡ぐ。
 おぼろげな余韻を残した胸にそっと手を当て、はたとマリアは我に返った。こんな遅くに青年の作業小屋にまで押し掛けてきておいて、すっかり自分の世界に入ってしまっていたのだ。
 見れば青年は、冷たいほどの無表情で、木彫りの像を撫でている。それは一瞬、背筋がぞくりとするかと思うくらいに。
「ごめんなさい、ご迷惑をおかけして……。それ、見ちゃいけなかったんですね……。」
 マリアがうなだれると、青年は再び軽く目を瞑った。虚ろなようでもあり、多くの思いを湛えているようでもあるその表情。マリアにはもはや、そこから彼の心を伺うこともできなかった。
「別に、そんなことはないよ……。確かに驚いたし……、元々、人に見せるために作ったものじゃなかったから……。ただ……、俺が遺したかった……だけだから。」
「遺す……?」
 訥々と語る青年の口から漏れた不穏な言葉に、今度こそマリアは背筋が寒くなるのを感じていた。
 

「遺すって……!」
 ほとんど無意識に、マリアは再び青年の言葉を繰り返していた。背筋にまとわりつく不吉な予感を振り払うかのように強めた口調は、彼に同時にごまかしや言い繕いを許さないだけの強い響きを含んでいた。
「……俺が生まれた村は呪われていた……。滅ぶことが運命付けられた村だった……。本当なら俺は、ここにいるはずなんかなかったから……。」
 その気迫に押されたのだろうか。少女の言葉を受け、青年はしばし沈黙した後に、ついにぼそりと口を開いた。その視線は手許の像に落としたままで、あたかも独語のように。その言葉の内容に反して、顔は変わらずの無表情で、それでもいつものやんわりと人をかわすような笑顔はすっかり陰を潜めていた。ちろちろと細かく揺れるランプの灯が、青年の横顔にきまぐれな影を落とす。
「俺が兄のように慕っていた男は、それでも自分の故郷を愛していて……、あんなに歪んだ因習に囚われた村だったというのに……。まるで自分の魂を削るようにして……、その村を……。その村に咲いていた花を、飛んでいた鳥を、その命ごと移したかのように、木に刻んだよ。弟のように思っていた男は、自分の妹のためだけに……繊細で可憐な……、自分の全てを注ぎ込んだ、見事な銀細工を作った。どちらも、とても俺ではかなわない……。そうして、2人とも、俺の目の前で……。俺だけが、生き残った。自分の弱さのせいで……。俺は何もできなかったんだ。そこに……いたのに。」
「……。」
 青年が充分に言葉を選んで、彼の村に起こったできごとへの言及を避けているのは、マリアにもわかった。けれど、彼の言葉の裏には、何か彼女の想像も及ばない、口を出すのも許されない程の凄惨な気配がほの見える。
 彼の瞳は、冷たく煙る河の向こう岸を見つめているようであり、それがなおさら少女の背筋を寒くする。あたかも自分とこの青年の間に、どこまでも深くて冷たい、越えられない溝があるようにも感じて、マリアはただ固唾を飲んで聞いていた。
「だから……、俺も、遺したいと思ったんだ。過酷な運命が待っていると知っていて、娘のために母親が唄った子守唄を、そしてあの仲の良かった2人の兄妹の姿を……。これなら遺せると思ったんだ……。でも……。」
 冷淡なまでの抑揚のない口調で話していた青年が、ふと言葉を切った。じっと自分の手許へと落とされたその視線につられて、マリアも青年の手を見つめる。
 節くれだって分厚い、大きな職人の手。ところどころ黒く変色した火ぶくれの痕、切り傷や擦り傷の痕、そして何度もつぶれたであろうマメの痕。仕事のために酷使したのが一目でわかる。美しい作品を生み出すために何度も傷付いた手、今まではそう思っていたけれど、もしそれが逆だったとしたら。
 ふと思い当たったそんな考えに、マリアはぞっとした。ずっとずっと彼が、自らを傷つけるために、石を削り、銀を溶かし、木を彫っていたのだとしたら。
 少女は、おそるおそる視線を青年の横顔へと移した。彼の顔もまた、毎日のように受けているであろう炉の炎の照り返しが染み付いて、茶色く焼けている。
 そう思い付いてしまえば、あまりの痛ましさにマリアは思わず唇を噛んだ。そして、彼の作品にはしゃいでいた自分を愚かしく感じて、強く悔いる。そんなマリアの様子にも気付かずに、青年は恐ろしいまでの無表情で次の言葉を口にしていた。
「思い……出せないんだ。2人とも、確かに笑っていたはずなのに、全然……。どんな顔をしていたのか、どうやって笑っていたのか、全然、思い出せないんだ……。」
「……!」
 先日彼が言っていた、「自分の作品に魂は込もっていない」と言った本当の意味を初めて理解して、マリアは声にならない悲鳴をあげていた。
 神父が、彼が聖母子像の製作を引き受けてくれなかったとぼやいていたのを思い出す。そういえば青年が作っているものは、いつも月や星、雪華、そして幾何学模様。一度も、彼は生き物を模した作品は作らなかった。否、作れなかったのだろう。この子どもたちの像に顔がないように。
 途端に、あんなに優しげに見えていた子どもたちの像が、恐ろしいくらいに冷たく見えた。何もない顔にぽっかりと黒い穴が空いて、それがどんどん広がり、全てを呑み込む底なしの、凍えそうに暗い淵へと渦巻いていくように思えて、マリアは思わず我が身をかき抱いた。
「どうして……、どうしてですか!」
 ぎゅっと目を閉じて、覚えず大声を張り上げる。この死にとりつかれたような青年に、背筋が凍るような寒さにも似た恐怖を感じて、叫ばずにはいられなかった。一度唇を割った言葉は、止めることもできずに溢れ出る。
「だって……、あなたはまだ、生きているのに……。亡くなった人に思いを寄せることも、伝えたいことを語ることもできるのに……! 哀しい時には泣くことだって……。泣きながらでも、歩いたり、道を決めることも、まだ、できるのに……。どうして!」
 マリアは無我夢中で言い切って、大きく肩で息をした。自分の言葉は、果たして彼に届いているのだろうか。叫んだ端から全て深淵へと呑み込まれて消えて行くかのような虚しさに、どうしようもない疲れが涌いてくる。
 ぐったりと力を抜いて、大きく息をつけば、頭に昇っていた熱もさっと引いていく。
「ごめんなさい……。生意気言って……。そんなつもりじゃなかったんです。……おやすみなさい。」
 それだけ言うと、マリアはぺこりと頭を下げた。青年が、唇を開きかけるのに構うことなく、そのまま踵を返して外に出る。
 空では、煌々と照る半月が哀しいほどに冴えていた。

「参った、な……。」
 じりじりとするような静寂の支配する小屋の中で、クラウスは独り、ぼそりと呟いた。
 あの元気のよい少女が投げていった言葉のせいだろうか。あたかも皮膚の下に無数の細かい氷の棘が入り込んでちりちりと灼けつくかのような焦燥を覚える。その熱いとも冷たいともつかない感覚に苛まれて、結局、一晩中一睡もできなかった。
 もっとも、眠れないというだけなら、それは今に始まったことではない。生まれ故郷の村を出てこの小屋に住むようになってから、ずっと夜は椅子に座ったままで、いくらか微睡む程度だった。それでも、それが今のような、いてもたってもいられないような苛立ちを引き起こすことはなかった。
 さすがに閉口して、伸ばしっぱなしの前髪をかきあげ、小さく呟いてみたわけだが、一向にその感覚が収まる気配はない。
 とっくに役目を失った手許のランプは消え、窓からは白い光が差し込んで来ている。まだ、やらなければならない仕事はあったはずだ。なのに、ひどく身体が重くて、何も手につかない。
 手許には、あの顔のない子どもの像。そこに視線を落とせば、胸の奥の方から重苦しい塊がせりあがってきて、クラウスは静かに眉を寄せた。
 脳裏に張り付いた、凄惨としか呼びようのない、幼馴染みの最期の微笑み。そして、その妹の、憂いを帯びた決意の顔。彼等の幸せそうな無邪気な笑みを思い出そうとすればするほどに、鮮やかに浮ぶのは、それとは程遠い悲壮な2人の顔。それはまるで凍り付き、張り付いたかのように、動くことも揺らぐこともなく、強くクラウスの胸を噛んだ。
 自分には、宿命に殉じる覚悟も、それに抗う強さも、それを負う資格も、持ち得なかった。それゆえに、遺されたのだ。つきつけられる自分の弱さが、悔恨という言葉で表すには生温い痛みにも似た感覚を呼び起こす。
 その重さに耐えかねて、ついと視線を逸らす。所在なさげに床に転がっている工具が目に入ると、何ともいえない苦味が込み上げて来た。クラウスがいかんともしがたい思いに額を押さえて長い溜息をついた時、不意に小屋の扉が叩かれた。
「……はい?」
 聞き違いか、と思いつつもぼんやりとした返事を返し、像をしまいこむ。ゆっくりと重い身体を持ち上げると、のろのろと小屋の扉を開けた。その途端、差し込んで来た針のように鋭い陽光に瞳を射られ、青年は反射的に手をかざした。
「やあ、クラウス君。」
 小柄な客人は気を悪くする風もなく、さもおかしそうに朗らかに笑った。やっと外の光に慣れてきたクラウスの目に、恩人でもある老人の姿が像を結ぶ。
「グッゲンビュールさん……。」
「徹夜かい? 熱心なのは結構だが、あんまり根をつめすぎるのもよくないよ。」
 クラウスが唖然とした顔をするのにも構うことなく、気さくな珍客はにこやかにそう言うと、自分の目の下を指で示した。くまができている、と言いたいらしい。
「はぁ……。」
 つられて自分の顔に手をやりながら、クラウスは老人を小屋の中へと招き入れた。指先には、やや硬めのざらりとした感触が伝わってくる。老人の言う通り、かなりやつれた顔をしているのかもしれない。
「根をつめすぎるなと言った端から何なんだけどね。」
 丸木づくりの椅子に腰掛けて、物珍しそうに小屋の中を見渡しながら、老人はそう切り出した。言葉の最後の方は、どこか宙へと溶けていくようで、きょろきょろと見回す目の方に注意がいっているのは明らかだ。子どものように旺盛な好奇心が、いつまでたってもこの老人を闊達とさせているのだろう。
 クラウスが曖昧な苦笑を浮かべながら向かいの椅子に座ると、老人はようやく視線をクラウスへとまっすぐに向けた。
「君に頼みたい仕事があるんだよ。」
「はぁ……。」
 仕事の依頼でわざわざグッゲンビュ−ル氏本人が来るのは珍しい。普段なら、マリアが伝えにくるはずなのに。訝しげな顔をした青年に、老人は破顔してみせた。たいていいつも機嫌の良い人ではあるが、今日はことの他上機嫌らしい。
「実はマリアがね、うちに養女に来てくれることになったんだ。いや、それで嬉しくて嬉しくて仕方なくてね……。いや、それはともかく、とにかくその記念と今までのお礼に、マリアに贈り物をしたくてね……。それで、君に作って欲しいんだよ。あの子の一番好きな花を象って……そうだねぇ、髪飾りか何かがいいかもしれないな。その辺りは君に任せるよ。」
 老人は、柄にもなく照れて俯いたり、満面の笑みを浮かべて顔を上げたりしながら、手ぶりを交えて嬉しそうに続けた。
「花……ですか。」
 その老人の姿に、そして何より注文の内容に、クラウスは胸にずきりと重さを感じて瞳を伏せた。
「お……僕には、無理です……。誰か、他の職人に……。」
「クラウス君。」
 苦い口調で青年が言い淀むのを、老人はきっぱりと遮った。その顔から笑顔が消え、真顔になって正面からクラウスの顔を見つめる。
「私は、私の知る中で、君が最高の職人だと思っているよ。腕だけじゃない、人や物を見る目もそうだ。君はいつも、持つ者にふさわしい作品を作ってくる。私はあの子に最高の贈り物をしたいんだ。そして、それを創りだせるのは君だけだと思っている。君が贈り主の気持ちを汲み取れる職人だとも。」
「しかし……。」
「つまりだね。」
 重い口で言い縋ろうとしたクラウスに、老人は今度は柔らかな調子で言葉を継いだ。
「いつまでも君がこのままなのは、あまりにも惜しいんだ……。老婆心だとは思うけれど……。君がこの街に来る前に、何を失ったかは知らないし、何があったか、聞き出すつもりもない。けどね。」
 老人は、一旦言葉を切ると、宙へと視線を逃がした。一つ小さく息を吐く。
「今の君を見ていると、昔の自分を思い出すよ。……私たちは、昔、3才になる息子を事故で亡くしてね……。何故かな、その時の私を……、その時に抱えていた痛みを、思い出すんだよ……。」
 遠くを見つめるような目で独り言のように呟くと、老人はごまかすように、再び笑みを顔に浮かべた。
「とにかく、頼んだよ。急ぎはしない。贈り物をする口実なんて、これからいくらでもあるだろうからね。内容くらい聞いておいてくれてもいいだろう?」
「……わかりました。その花というのは?」
 いまだ、いくらかの苦渋の表情を残したままで、クラウスは尋ねた。完全にこの老人に押し負けて、聞かないわけにはいかなかったのだ。
「何だと思う? たんぽぽだよ、あの子らしいだろう? かわいらしい。いや、本当にいい子だよ、あの子は。」
 顔一杯ににたりとした笑みを浮かべ、機嫌よくうんうんと独り頷きながら、老人は立ち上がった。クラウスに短い言葉を残し、小屋の扉に手をかける。そのまま半分ほど押し開けて、老人は不意に半分だけ振り向いた。
「ただ一つだけ言えるのは……、自分を責めているばかりじゃ……、何も変わらないし、何も動かない……。私から言ってあげられるのは、これぐらいしかないんだがね……。」
「……。」
 それだけ言うと、老人の小柄な身体は、白い外の光の中へと溶けていった。
 身体中から力が抜けるようなだるさを急に感じて、クラウスは再び椅子に座り込むと、頭を抱えた。 

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