back top next

3、父と子と

 気が狂いそうな泣き声だった。女が空気を切り裂くような金切り声で泣き叫ぶのを、幼子はただ、部屋の済みにうずくまり、きゅっと目を閉じて恐怖に震えながら聞いていた。
 悲鳴が途切れると、幼子はおそるおそる視線を持ち上げて、女の顔を伺う。濃い灰色の髪は乱れて顔に貼り付き、腫れた目を縁取る濃いアイラインは涙で流れて褐色の肌にまだらの染みを作っていた。そこには、エメラルドグリーンの瞳を輝かせていたあの美しい面影など、見る影もなかった。
「ああセレシア、私の可愛いセレシア、可哀想に、こんなに小さいのに……。」
 何度も何度も繰り返される母の嘆きに、幼子は再び強く目を閉じて耳を塞いだ。それでも、その甲高い声はいともたやすく幼子の小さな手を突き抜けて、耳の中へと飛び込んで来る。
 その声にこじあけられるようにしてまぶたを持ち上げれば、母の胸にひしと抱きかかえられている同胞の顔が目に入った。まぶたが閉じられているのは、眠っているからではない。つい近頃までは一緒に笑いあっていたはずのその顔の、なんと無気味なことか。青ざめて生気を失った、自分とよく似た幼い顔。
 違う、あれは自分の顔。
 そう、お前は死んだのだ、死んだのはお前だと、頭のどこかで声がする。必死に振り払おうとしても離れないその声が引き起こしたのか、がちがちと奥歯の鳴る音が、異様に大きく、そして妙に遠くから響く。
「……セレス。」
 不意に、女の金切り声が止んだ。その虚ろな瞳が自分に向けられたことを悟って、幼子は震え上がった。ゆらり、と幽鬼のように女が立ち上がり、ふらふらと幼子の方へと歩み寄る。
「見て、セレシアが……、あなたの妹が、死んでしまったの……。きっと……、兄さんを助ける代わりに呼ばれたのね……。可哀想に……。」
 がちがちと、再び奥歯が激しくなる。震える膝には力が入らず、幼子はただ呆然と母親を見上げるしかなかった。命を失った自分と同じ顔からは、必死に目を背けて。
「だから、お願い……。あなたは必ず皇位を継いで……。この子の死を、無駄にしないで……。」
 抑揚のない声とともに、細い指が幼子の頬へと伸びる。大好きだった母親の、優しい手。なのに、それが嘘であったかのように、恐ろしいものに思えた。
 ――やめて、やめて、やめて、やめてー!
 頭の中でぐるぐると回る悲鳴は声にはならず、幼子はただただ、恐怖におののき、小さな目を見開いた。

「……!」
 がばり、とセレスは跳ね起きた。身体中、じっとりと冷たい汗に濡れ、皮膚のすぐ下に先程の悪夢の余韻が残っている。
 肩で大きく息をしながら、膝のあたりに投げ出された自分の指先をじっと見据える。荒い息が少しずつ鎮まり、朝の光に悪夢の余韻が徐々に溶けて抜けて行く。
 あの恐怖が夢であったことを悟ると、今度は言い様のない苛立ちと怒りがふつふつと湧いてきて、セレスは乱暴に枕をひっつかんだ。床に叩き付けようと、思いきり振りかぶれば、それは女の悲鳴にも似た音をたてて、他愛もなく裂けた。ふわり、と白い羽毛が塊になって吐き出され、セレスを嘲笑うかのように、部屋の中に舞い散った。
 一瞬、ぽかんと口を開けてそれを見ていたセレスは、我に返ると、顔を真っ赤にして腕を振り回した。が、宙に舞う無数の羽根は、ふわりふわりとそれをかわすかのように浮び上がり、それがますますセレスを苛立たせた。
「……!」
 声にならない叫び声をあげ、乱暴に布団をはね除けて床の上に立つ。と、不意に扉の叩かれる音に気付き、セレスは動きを止めた。
「殿下。」
 ノックの後に呼び声が聞こえてくるあたり、どうやら少し前から扉は叩かれていたらしい。先程まで頭に血が上っていたおかげで、訪問者にも気付かなかったのだ。
「入れ。」
 細い身体に素早くガウンをまとい、セレスは短くそう告げた。訪問者が誰かなど、確認する必要もない。この部屋に来る人間は、まず1人しかいない。
「失礼致します。」
 野太い、それでも丁寧な声の後にゆっくりと扉が開かれ、ジークムントの大柄な身体が姿を現した。セレスがカッセーレの血を引いているのに加え、子どもの頃から、特にセレシアを亡くしてからは、しばしばかんしゃくを起こしたので、侍女たちは近寄りたがらず、何かとこの男がセレスの世話を見るのがすっかり習慣となっている。
 入ってきたジークムントは、部屋に舞う羽根を一瞬目で追ったものの、表情を変えることもなくセレスへと向き直った。
「殿下。」
「ジーク!」
 彼が口を開こうとするのを遮るかのように、セレスは声をあげた。ジークムントの右目に眼帯が巻かれているのに気付いたのだ。
「怪我、したのか? あの男にやられたのか? その目……、もう、見えない……のか?」
 矢継ぎ早に尋ねながら、おそるおそる眼帯に触れる少年の手を、ジークムントはそっと手を添えてはがした。
「ご心配は無用です。刃を交えれば当然起こりうることです。大したことではありません。」
 静かに、諭すように言うと、ほんのわずかながらの笑みを浮かべる。
「でも、お前が傷付くことなどなかったのに!」
「いいえ、殿下。これが私の役目です。……それよりも。」
 強い口調でオリーブグリーンの瞳に怒りにも恨みにも似た炎を灯した少年を、ジークムントはそっと諌めて話を変えた。
「そろそろお時間です。ご支度なさいませ。」
「……何をだ?」
 話をはぐらかされたことに若干の不満を滲ませながらも、セレスは訝しげに聞き返した。
「お父上の葬儀をせねばなりません。」
 ジークムントは至って真面目な顔をしたままで、短く答えた。

back top next

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送