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 グレイグの手を借りて、エルンストはどうにかかめの外へと這い出た。むしろ、ひっぱり出してもらった、という方が正確かもしれない。ふらつく頭を抱えながら、なんとか立ち上がる。横では、同じように何とかかめから出てきたエマが、床の上にへたりと座り込んだ。
「なんだか……。頭がくらくらする……。」
 頭の芯に、じんと響くような痛みを覚えてエルンストが呟けば、青白い顔をして俯いているエマも、小さく頷いた。
「そうですね。醗酵中の薬草と一緒に入れちゃいましたから……。息苦しかったでしょうね。ごめんなさいね。衛兵が思ったよりも鈍かったと言いますか、用心深かったと言いますか……。」
 グレイグはこともなげに言いながら、棚の奥の方をごそごそと探った。目当てのものが見つかったらしい。包みを手に少年たちを振り向いた青年は、ぎょっとしたような彼等の視線を認めて苦笑を漏らした。
「心配いりません。あの男が開けなければ、あなたたちが息詰まってしまう前に、頃合を見計らって僕が蓋を開けてましたから……。まあ、できれば自分で蓋を開けるような真似はしたくなかったのは、正直なところですけれどね。」
 ひょうひょうと言いおくと、青年は不意に笑みを消した。真顔になって2人の顔を見つめる。
「さて、あまりぐずぐずもしていられません。この裏に運河の支流が流れています。そこで顔と体を洗って、これに着替えて下さい。くしも用意してありますので、王子、エマの髪を結ってあげて下さい。もちろん、あなたも忘れずに髪をとかして下さいね。言っておきますが、恥ずかしがっているような時間はありませんからね。急いで下さい。」
 口早にそう言うと、先程奥からひっぱり出した包みをエルンストに押し付けた。
「グレイグ……。」
 突然のことにエルンストが戸惑いの色を隠せないでいると、グレイグは追い討ちをかけるように、短くきっぱりと言い切った。
「早急に帝都を、いいえ、この国を出ます。」
「え……。」
 ぽかりと口をあけた少年に、青年は真顔のままで説明を加える。
「王子、事態は間違いなく、あなたが思っているよりずっと深刻です。そして、僕が思っていたよりも、かなり早く動いているかもしれません。」
「グレイグ、でも……。」
 エマが哀願するような目で青年を見上げた。無理もない。今帝都を出てしまえば、二度とルッツの行方はわからないかもしれない。この青年は、ルッツを見捨てて行くと言っているのだ。
 が、青年はエマに視線の高さを合わせると、静かに諭した。
「エマ、あなたが何を言いたいのか、だいたいわかります。確かに、今回の騒ぎの原因は、あなたや王子に直接関係のあることじゃないかもしれません。またこのようなことが起こるかどうかもわかりません。でも、さっきの衛兵は口を滑らせて『子ども2人』と言いました。間違いなくあなたと王子を追ってきたのです。あなたにもわかるでしょう? もう帝都も、この国も、王子やあなたにとって、安全ではないのです。辛いでしょうが、今は何が一番大事か、聞き分けて下さい。」
「……。」
 少女は、唇を噛んで俯くと、小さく頷いた。栗色の髪がわずかに揺れる。そのままくるりと身を翻し、エマは促すようにエルンストの袖を引いた。前髪の合間からのぞいた榛(はしばみ)色の瞳が潤んでいるように見えて、少年は慌ててエマに従い、裏口へと歩を進めた。
 そんな2人の後ろ姿を見送って、グレイグは小さく溜息をつき、首を振った。

「よく似合いますね、2人とも。」
 言われた通りに着替えを済ませた2人を見て、グレイグは目を細めた。彼が2人に渡したのは、落ち着いた色合いの質の良いローブで、この地方では医師や学者が正装として好んで身につけるものだった。
 もともと金髪碧眼で貴族的な顔だちのエルンストには確かによく似合っているし、落ち着いた栗色の髪をしっかりと結い上げたエマは思慮深そうに見える。
「……ああ、僕が変なのはわかっていますから、何も言わないで下さいね。」
 自分の顔に注がれたままの2人の視線に気付いたのか、グレイグは軽く唇を尖らせた。
 彼もまた、学者の正装をし、普段はろくに手入れをしない髪をきれいになでつけていた。普段は前髪に隠れている額と瞳があらわになると、いつもの童顔がさらに幼く見えて、確かにどことなくちくはぐな印象を受ける。
 ただ、時折笑みを消して浮かべる眼光はあらわになった分、さらに冴えて鋭く、その横顔は理知的にも見える。
「僕だって必要がなければこんな恥ずかしい格好はしませんよ……。あ、王子、かたちだけでいいので、そこの荷物を持って下さい。あと、フードは被っておいて下さい。あなたの金髪は目立ちますからね。」
 憮然とした顔でぼやいた後、青年は早口で指示をしながら、素早く店内を見回した。手抜かりがないか、見直しているのだろう。
「準備はできましたね。じゃあ行きましょう。時間がありません、急いで下さい。」
「行くって……どこへ?」
 エルンストは戸惑いがちに尋ねた。帝都を出るのは良いとして、先程の衛兵は城門を封鎖すると言ったのだ。ただ城門に向ったところで、外に出られるとも思えない。
「東地区の、アルトナー大将軍の邸宅です。」
 何でもないことのように青年が口にした名前に、エルンストもエマもぽかんと口を開けて立ち尽くした。
 リオルには将軍と呼ばれる職が3つある。主に傭兵や平民階級出身の兵士たちの部隊を率い、戦には率先して前に出る第三将軍、主に衛兵を掌握して、国内の治安の維持や、政策の実行を円滑に進める役割を担う第二将軍、そして、少数精鋭の近衛隊を率い、政治面でも皇帝の右腕として働く第一将軍である。
 中でも第一将軍は、残りの2人の将軍の上に位置し、その職務の重大さと、影響力の大きさから「大将軍」と称されるのが普通になっている。
 アルトナーといえば、その大将軍の家系であり、リオル帝家、エスラント王家の両方と親戚関係を持つ、この国では帝家に次ぐ名門の家柄である。エルンストやエマにとっては、雲の上にも等しい存在であった。
「詳しい話は歩きながらしますので、とりあえず今は、足を動かして下さい。何度も言いますが、時間がありません。」
 軽く苦笑したグレイグに背中を押され、棒を呑み込んだようだった2人は、ようやく足を進めた。
「今日、アルトナ−将軍のご息女、アイリスさまがエスラント国王のお見舞いに出られますので、それに同行を願い出ます。」
 2人が歩き始めるのを確認して、グレイグは小声で説明を始めた。
「もともと、エスラント国王の慰問は、騎士国リオルの皇女の仕事です。ですが、セレス皇太子の双子の妹、セレシア皇女が7つの時に病気で亡くなられてから、現帝ゲルハルト陛下にはご息女がおられません。ですので、陛下の姪御にあたるアイリスさまが代行されているのです。もっとも、セレシア皇女がご存命であったとしても、アイリスさまの方が適任とされたでしょうけれどね……。」
 含むように言いおいて、グレイグはふと視線を宙へと逃がした。白い石畳に跳ねた初夏の陽光が眩しい。中央広場の噴水が、清らかな水を吹き上げ、眩しい光の粒と戯れる。ゆったりとした面持ちの人々が、あるいは噴水に手を伸ばし、あるいは木陰で休息をとっていた。それはまるで、北地区の惨状が嘘であるかのように、うららかな光景だった。
 今までだったら近寄ることさえ考えられない、貴族階級の邸宅が立ち並ぶ東地区に、3人の姿は難なく溶け込んでいた。はたから見れば、弟子を連れて歩く学者か医師のように見えるのだろう。
「とにかく、この役目の間、アイリスさまは皇女代理ということになります。衛兵隊長や将軍の命令よりは、皇女の公務の方が優先されます。ですので今、帝都から出られるのは彼女だけです。たまたま今日、ローザさんから聞いていたのですが、運がよかったと言うべきですかね……。そうでなければ死体のふりをして出なければいけませんから。」
 少しでも2人を和ませようとしたのか、グレイグはくすりと笑った。けれど、エルンストもエマも押し黙ったままで、特にエマの方は青ざめた顔をして、固く唇を結んでいた。
 エルンストもエルンストで、今何が起こっているのか全くわからず、何も実感のようなものは湧いてこなかった。いつの間にかどんどん話が大きくなって、自分の手の届かないところへと離れていくのを、どうしようもなく見ている、というのが正確なところかもしれない。
 こういう時、ルッツならどうするだろう。ふとそう考えて、もうあの頼もしい兄のような少年が自分の側にいてくれないのだ、ということだけが、痛みと重さを伴って、少年の胸に響く。
「さて、着きましたかね……。2人とも、気持ちはわかりますが、今だけで結構です、もう少しだけ明るい顔をして下さい。」
 グレイグの声に、エルンストは顔をあげた。薔薇のつるが絡み付いた華やかな門の奥には、柔らかい芝生が広がっている。そして、そのずっと向こうに、城のように大きな邸宅が見える。その、見慣れたバラックとはあまりにかけ離れた壮麗な眺めに戸惑い、傍らの青年へと視線を移せば、邸宅の門を見据える彼の顔からも、笑みが消えていた。
「どうやら、間に合ったようです。」
 独り言のように呟いた青年の言葉に、再び門の向こうを見遣れば、ちょうど甲冑を身につけた3つの人影が歩いてくるところだった。動きやすくするためだろう、3人とも甲冑とはいっても、胸当てや肩当て等、必要最低限の防具しか身につけていないのが遠目にもわかる。
 それでも、3人とも金髪であったし、身にまとう雰囲気からも高貴な身分にある人間だとすぐに知れる。気付かないうちに、エルンストの背中に冷たい汗が流れ、拳は強く握りしめられていた。
 
     

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