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3、スラム炎上

 あと一つ角を曲がればスラムの入り口が見える。
 勢い良く走ってきた少年たちは、その角をまがり、立ちすくむように足をとめた。空へと昇る幾筋もの黒煙と、ところどころに見える炎の赤を前にして、誰1人言葉も出ない。
 次の瞬間、エルンストは弾かれたように走り出した。が、ルッツがすかさずその腕をつかんで止める。
「火、消さなきゃ!」
 兄貴分の少年の腕を振り払おうと暴れながら、エルンストは叫んだ。顔だけは煙をあげるスラムを見詰めたまま。スラムには小さい子も、病気の老人も住んでいるのだ。つい一月前に生まれたばかりの赤ん坊だっている。今ならまだ間に合うかもしれない。
「待て、それどころじゃない。」
「それどころって!」
「いいからこっちだ。」
 エルンストの抗議を力づくでねじ伏せ、ルッツは強引に彼を傍らの路地に引きずり込み、身を伏せさせる。エマもおずおずとそれに従った。
「どうしてっ。」
 再び声をあげようとした少年の口を、ルッツは慌てて塞いだ。未だ非難の色を濃く浮かべる青い瞳に小さく溜息をつくと、そっと路地の入り口の方へとあごをしゃくる。
 エルンストは口を塞がれたまま、促されたとおりに視線だけを動かした。
「衛兵だ。」
 ルッツは用心深くエルンストの口から手を離し、その耳もとに低く囁く。
 確かに彼の言葉通り、先ほどまで少年達のいた通りを、抜き身の剣を提げた衛兵たちが何か大声で叫びながら通りすぎる。その白刃が濡れたような鈍い赤に光る。
「なんで……。」
 さすがに異様な雰囲気を察して、エルンストは乾いた声で呟いた。どう見ても火を消しに来たようには思えない殺気だった衛兵の姿に、市場の男の話を思い出す。
「知るかよ……。」
 ルッツは苦りきった声でうめくように答えた。何か思案しているのだろうか。睨むように通りを見つめるその横顔はどんどん険しくなっていく。
「2人とも、ここで待っててくれ。いや、見つかりそうなら迷わずすぐに逃げろ。そうでなければここから出るな。」
 茶色の瞳は通りを睨んだままで、ルッツはおもむろに口を開いた。
「兄さん?」
「ちょっと……、行って来る。いいか、くれぐれも音をたてるな。俺のことはいいから、見つかりそうになったらすぐ逃げろ。」
「ルッツ……、何を?」
「わかったな。」
 すがるような視線を送る2人を強引に押し切ると、ルッツは傍らの民家にするりとよじ登った。そのまま屋根にあがると、身軽に通りを飛び越えて屋根伝いにスラムの中へと走って行く。
 吹き上げて来る熱気に顔をしかめながら、ルッツは今にも崩れ落ちそうなバラックの上を走った。時折、炎の赤い舌が伸びて、ちろりと少年の足を舐める。
 脇目もふらず、ルッツはただ前だけを睨んで走った。衛兵のことがちらりと頭をかすめたが、考えている余裕はなかった。普通の人間にとっては、自分の視界より上はほぼ完全に死角になる。それを頼みに、気付かれないことを祈るよりほかはない。
 3人で身を寄せあって暮らしている小さな小屋を認めて、ルッツは地面へと飛び下りた。猫のように膝を使い、音もたてずに着地する。
 素早く周囲を見回して衛兵の姿がないことを確認すると、開けっ放しの小屋の中へと飛び込んだ。途端、わずかならがもひんやりとした空気に包まれ、今までいた外の熱さに改めて気付く。
 幸いにも小屋の中には、まだあまり火が回っていなかった。が、誰かが家捜ししたのだろう。あまりもののない小屋の中にちんまりと置いてあった小間物入れがたたき壊されているのを見て、ルッツは顔をしかめた。大した品ではないが、これは亡くなった母親の持ち物で、今はエマが大切にしているものなのだ。
 毒づいてやりたい気持ちをなんとか抑え、もう一度周囲に人目がないことを確認してから、ルッツは地面に敷いたゴザをめくりあげた。
 あらわになったむき出しの地面を、乱暴にかかとで蹴りつける。3回目にして、拳くらいの大きさの土くれがぼろりとこぼれ落ちる。その穴に今度は両手をつっこみ、中から木の小箱のようなものを掘り出して、さっと周りの土を払う。手の中のものを確認するかのようにくるりと回して、少年はこの時ばかりはわずかばかりの安堵の表情を浮かべた。
 それを強く握りしめ、ルッツは小屋の外へと飛び出した。途端、炎のうなる音が大きくなったように思えて、その場に立ち尽くす。
 あちこちで半壊したバラックから何本もの火柱があがり、黒い煙を吹出している。地面には、瓦礫やかつては生活用品であったと思しきものが乱雑に散らばる。
 見慣れたはずの街並が、あたかも幻であるかのように赤く照らされ、熱気に歪んでゆらゆらと揺れる。
 何となく見回した視線が、地面に転がった白っぽいものを捕らえる。すぐには像を結ばなかったそれが、地面に投げ出された人の腕だと気付いた途端、血臭が鼻につき、胃の中にねじ込まれるような吐き気を覚える。
「つっ……。」
 精一杯に顔をしかめ、口元を押さえて、ルッツは何とかそれを抑え込んだ。
「これが……、スラム狩り……。」
 にわかには自分の目が信じられずに、呆然と呟く。
 雑多なバラックが寄せ集まったスラム街は、決して美しくなどなかった。それでもここには確かに人が住んでいて、毎日、笑ったり、泣いたり、怒ったり、喧嘩したりしていた。決して洗練されてはいなかったが、いつも人の息吹と匂いがあった。それが今、悪夢のように燃え上がり、ただ死の気配のみをさらしている。
 今まで、こんなことは一度もなかった。昔はあったという噂は聞いていたものの、実際にこれを目の当たりにしてしまえば、怒りも恐怖も何も感じられず、ただ呆然とするより他はなかった。
 不意に、地鳴りのような、腹の底に響く衝撃に襲われて、ルッツは慌てて振り向いた。数件向こうのバラックが、黒い煙と炎を吐き出して崩れ落ちるところだった。大量に吹き出した火の粉が、ぱっと散り、赤く輝きながら鮮やかに舞い落ちる。
 一瞬それに見とれ、すぐにルッツは我に返った。
 ――逃げなければ。
 逃げなければ、今度は自分がその辺りに転がることになる。そう考えるとぞっとした。首筋に冷たい汗が流れる。
 にわかに震え始めた足を叩きながら、周囲を見渡す。油でもまいてあったのか、火の回りが早い。ずいぶんと大きく膨らんだ炎が、バラックに絡み付いていた。もう屋根に登って逃げるのは無理だろう。どのバラックも、いつ焼け落ちてもおかしくはない。
「くそっ。」
 ルッツは忌々しげに舌打ちを一つすると、地面を蹴って走り始めた。
   
 

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