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 ぱちぱちとあちこちで弾ける炎が、嘲り笑っているようにも聞こえる。時折、伸びた炎が顔の近くをかすめる。耳もとで、ちりちりと髪の毛が縮れ上がる音がする。
 ルッツは走りながら、口の中で自分でもわからぬ言葉をひっきりなしに呟いていた。そうでもしなければ、頭の中までしびれるような熱気に、気がおかしくなってしまいそうだった。
 時に、燃え上がって倒れてくる柱をくぐり、時に、何か柔らかいものを踏み付けて、ただエルンストたちの隠れている路地を目指して走り続ける。
 不意に、炎の切れ目が見えた。涼しい風が吹き込んでくる。目指していた路地が見えて、ルッツは安堵の息を漏らした。気をぬけば身体中の力が抜けそうになる。
「おい、まだいたぞ!」
 突然耳に飛び込んで来た声に、ルッツは冷水を浴びせられたように立ちすくんだ。ばたばたとした足音と、甲冑のたてる煩い金属音がその後を追うように近付いて来る。
「ちっ……。」
 ルッツは強く舌打ちをすると、ぎりぎりと奥歯を噛み締めた。
 スラムの中に衛兵がいなかったのは当たり前だ。火をかけてしまえば中に残る愚か者はいない。あとは出入り口を固めるのが普通だろう。
 瞬く間に集まってきた数人の衛兵の姿を認め、ルッツは素早く周囲を見渡した。とっさに飛び込める横道も見当たらない。心臓が急にどくどくと激しく脈打ち始める。
 睨むような視線をゆっくりと正面に戻して、あやうくルッツは叫びそうになった。
 迫りくる衛兵の向こう、心配そうな顔をしたエルンストが、隠れていた路地を出てこちらを見ているのと目が合ったのだ。幸いにして、ルッツに気をとられている衛兵は、背後の少年に気付いていない。
 ――バカヤロウ、出てくるな!
 のどまでせりあがった台詞を、ルッツはかろうじて呑み込んだ。そうしてすぐに考え直す。これはかえって好都合だ、と。
 ルッツは咄嗟に足元に転がっていた石を拾うと、正面の衛兵の顔面めがけて投げ付けた。不意をつかれた衛兵が足をとめ、手で顔を覆う隙に、今度は小屋から持ち出した木箱を、思いきり投げる。
 衛兵の頭を越え、それは具合よくエルンストの足元に転がった。少年が反射的に木箱を拾うのを見届けると、ルッツはそのままくるりと踵を返した。
「ぐずぐずするな! さっさと逃げろ! わかってるな、エマ!」
 わざと見当違いの方向をむいてそう叫ぶと、自分もそちらへ向けて走り出す。
「追え! 1人も逃がすなとの閣下のご命令だ!」
 弾かれたように、衛兵たちもその後を追う。ルッツはちらりと振り向いてその姿を確認すると、走る速度をあげた。
 ごう、と傍らで炎が無気味な咆哮をあげた。

「ルッツ……。」
 ほとんど何の気なく足元に転がった木箱を拾い上げたエルンストだったが、走り去るルッツの背中を見て青ざめた。彼が走って行った先にあるのは、燃え上がるスラム。運良く走り抜けられたとしても、その奥にはリオルの象徴でもある、分厚い城壁がそびえたっている。普段は冷たい北風を防いでくれる城壁だが、今は絶望的な地獄の壁にも思えた。
「ルッツ!」
 いくら何でも、彼をおとりにして逃げるようなことはできない。叫んで追い掛けようとするエルンストの腕を、エマがつかんで引き止めた。
「ダメ……。ダメだよ、エル。」
「エマ……。」
 少女のか細い腕にこめられた、思いがけない強い力にエルンストは戸惑いの色を浮かべた。エマは俯いたままで、さらに強い力でエルンストを引っ張った。路地の奥へ、ルッツが走って行った方向とは別方向へと。
「でも……。」
「いいからっ!」
 なおも言いすがったエルンストの言葉は、エマの悲鳴にも泣き声にも近い短い叫びに遮られた。
「誰かいるのか?」
 まだ衛兵が残っていたのか。不意に振ってきた声に、2人は一瞬身を硬くした。不吉な足音が近付いてくる。
「いいから……、こっちに……。早く……。」
 エマは力なく掠れた声で繰り返し、弱々しくエルンストの腕を引っ張った。
「……ごめんね、エマ。」
 ようやく彼女の心境に思いいたり、エルンストはおとなしくエマに従った。背を向けたままの少女は、かすかに泣き笑いを漏らしたようだった。

 帝都リオルの西地区。表通りから見れば整然とした居住区も、2本も奥に入れば雑然とした路地が行き来する。帝都が目に見えて豊かになった近年、流入してくる人が急激に増え、区画整理も行き届かないうちに次々に民家が建てられた結果であるが、今の2人にとって、この見通しの悪さはこの上なくありがたかった。
 より細く、より曲がりくねった路地を選び、エマは音をたてないように走る。エルンストは、少女に手を引かれるままに、その後を追った。
 エマがどこかを目指しているらしいことには、何となく気付いていたが、それを改める気にはなれなかった。それほどまでに、彼女の後ろ姿はか細く、弱々しく見えた。うかつに触れれば崩れ落ちてしまうのではないかと思えるくらいに。
 後ろを振り返る気にもなれなかった。振り返ればそこに、衛兵の振りかざした血塗れの刃があるように思われて、少年の背筋は凍り付いたままだった。
 前を確認することも、後ろを伺うこともできず、今はただ、何の見通しもないままに少女の背を追うしかできない。自分の手を握る、じんわりと湿った冷たい手の、奥からかすかに滲むわずかな温もりだけが、今のエルンストを支えていた。
 エルンストは、自分の無力さをいやというほどに感じて、強く強く唇を噛んだ。
「グレイグ!」
 不意にエマのあげた声に顔をあげれば、いつしかそこは西区の南端、あの歴史学者にして錬金術師の青年の小さな店が目の前にあった。
「スラムの方から煙が上がったのが見えたので、心配していたのです……。入って下さい、早く。」
 誰かを待つかのように店先に立っていた青年は、2人の姿を認めると、扉を開けて素早く手招きをした。
「2人……ですか?」
 ルッツの姿が見えないことに気付いたのだろう、この青年にしては珍しく訝しげな表情をあらわにする。
「来ません。兄さんは、来ません。」
「そうですか……。良く頑張りましたね、エマ。」
 両の瞳を潤ませて、叫ぶように言い切った少女を、青年は優しく抱き寄せた。軽くその背をなでてやってから、店の奥へと2人を促す。
「で……、何があったのですか?」
 いつも浮かべている笑みを消し、いくぶん険しい表情を浮かべて、青年は短く尋ねた。その声も、普段の彼の様子とは違って、硬い。
 エルンストが要領を得ないながらもかいつまんで説明すると、ますます青年の顔が厳しいものへと変わる。
「ルッツはわざわざスラムの中へ戻ったのですか?」
「うん……。これを取りに……。」
 エルンストがためらいがちに、ルッツの投げた小箱を取り出すと、青年の顔色が変わった。驚きの中に一瞬歓喜に近い色がほんの少しだけ混じる。が、すぐにそれが悔恨に変わり、痛ましげに目を閉じた。
「何てことを……。こんなものに命をかけろなどと、誰が教えましたか……。」
 聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で呟き、軽く首を左右に振る。
「それで……、スラムに火をつけていたのは衛兵とみて間違いないのですね。」
 エルンストたちが口を開くより早く、すぐに表情をいつものそれに戻し、グレイグは質問を重ねた。
「『1人も逃がすなとの閣下のご命令だ』って叫んでたから……。」
 疑問を差し挟む余地もなく、少年はおずおずとグレイグの問いに答えた。
「『閣下』ということは、将軍から命令が出ていることになりますね。」
 苦々しげに呟くと、青年はあごに手をあてて考え込むようなそぶりをした。
「衛兵を統括するのは第2将軍ですから、命令を下したのはリヒタ−将軍と考えるのが自然ですね。まあ、将軍から命令が出ているということは、皇宮から出ている可能性が高いのですが……。」
 独り言のような呟きを続けた青年は、不意にはたりと言葉を切った。宙をにらみ、押し黙る。
「外が、騒がしいですね……。」
 彼の言葉に、エルンストとエマも耳をそばだてた。ざわつくような喧噪の中に、がちゃがちゃという金属音を聞き取って、2人の顔に緊張が走った。
 

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