どれほどの時間が経ったのだろう。ほんの刹那か、それとも数刻の時が経ったのか。
休みなく襲い来る衝撃に耐え切れずに目を閉じると、たちまちのうちに世界は遠ざかって行く。頭の中は痺れて、意識があるかないかさえも定かではなく。自分が何をすべきだったかも忘れかけて。ぼんやりとした靄の中で、全身をたゆたう虚脱感に任せようかとしたその時。不意に今までとは違う、鋭い衝撃が手首から脳天へと突き抜ける。
「つ……。」
アイリスは思わずうめき声を漏らして、目を細く開いた。半ばうつろな瞳に、滲んだ赤い線が映る。と、それは急速に焦点を結んだ。魔剣を握った小さな白い手の甲に、真新しい一筋の傷が口を開けて、鮮血がじんわりと滲み出てる。少女はそれを見て、わずかに顔をしかめた。鋭い痛みの感覚は、少女の意識を確かにいくばくか呼び戻した。
アイリスは何とか意識を立て直すと、状況の把握に努める。2本の魔剣が生み出した力場は、徐々に均衡が崩れかけてきていた。がっちりと噛み合っていた魔力は歪み、うねり、揺らいで、耐え切れずに溢れた分が押し出される。それが刃のように、矢のように、方向を問わず飛び出して、あるいは少女の皮膚を引き裂き、あるいは山積した瓦礫を砕く。
――今のうちに。この均衡が完全に崩れてしまわないうちに、何とかしなければ。
アイリスは、苦々しげに奥歯を強く噛み締めて眉を寄せた。が、ふと、特に自分の顔のあたりが比較的楽なのに気付く。そして、相棒の精霊がささやかながら力場に干渉して、自分の負担を和らげていてくれていることにも。
「……ありがとう、ステラ。大丈夫、何とかなるよ。」
ほんのかすかの微笑みを浮かべて、自分にも言い聞かせるように小さく呟く。胸元に小さな温もりを感じ、身体の中心に、しっかりと芯が通ったような感覚も覚える。
はっきりとした視界の中、改めて手許に目を落とせば、漆黒の竜の形をした呪われた魔剣。何代にも渡って、一族の血を啜ってきた、忌わしき紅い瞳。
復讐者の剣とも異名をとる、魔剣Blood Pain。
おそらく砕くのは無理だろう。竜の持つ禍々しさと己の力量を顧みて、少女はそう結論づけた。苦い思いに、きつく唇を噛む。それでも、壊せないならせめて封印を施すくらいは。その身を縛め、牙を封じるくらいはしなければ。……けれどもどうやって。どうすればいい?
剣を握った手許に視線を据えたままで、アイリスは呪文を組むために思考を巡らせる。手の甲に走った傷からは血の雫が滲み出て、白い皮膚の上を転がり、漆黒の刀身へと伝っていく。意図するでもなくその流れを目で追っていると、ふと何かざわめきのようなものが伝わってくるのに気付く。
それはあたかも少女の血に応えるように、歪んだ幅広の刃の中でざわざわと波立つ。血の香に溺れる竜の歓喜とは、明らかに違うざわめき。形にならないながらも少女に訴えかけ、語りかけるかのような。しばし瞳を閉じてそれに耳を傾け、少女は深い深い溜息をついた。
それは、嘆きであり、憂いであり、恨みであり、決意であり、思慕であり、嫉妬であり、無念であり……。永年にわたって魔剣に貪られた命の、様々な想い。その血と共に染み付いた時間の重さに、思いの多さに、アイリスは静かに瞳を伏せ、思いを巡らせた。凪いだ水面のように、頭が静かに静かに冴えていく。雲のように漠としていた思考が、一本の糸を紡ぎはじめる。
少女は一つ息を吐き、おもむろに重々しく口を開いた。
「我、汝に復讐を。」
低い声で縛めの言葉を紡ぎながら、片方の手を刃先の方へと滑らせる。
「我が同胞の痛みを汝に還さん。」
そうして、自らの血で刃に封印を刻む。竜の体内に残る一族の血に働きかけ、その思いを引き出すようにして呪縛の鎖を編み上げていく。
「我が血を以て汝を縛し、我が名を以て汝を封ず。」
黒い竜が、激しくのたうち、暴れ始める。その反動をまともに受けて、少女の皮膚には新たな傷が口を開け、小さな身体は弾き飛ばされそうになる。
「……我が血を覚えよ、……魔剣Blood Pain……。」
歪むかと思われる程にきつく顔をしかめ、アイリスは搾り出すように詠唱を続けた。魔剣はいっそう激しく身を捩らせ、苦痛とも威嚇ともつかない咆哮をあげる。
「我が名はっ……アイリス。」
ほとんど叫ぶように呪文を紡ぎ終えると、途端に強い光が辺りを真っ白に染めた。全てを溶かすようなその光に、周りの音も吸い込まれ、思わず目を閉じた少女の身体も呑み込まれていく。
まぶたの裏が白く焼け、激しい耳鳴りが、嵐のような暴風が、少女の身体を突き抜けて行く。自分の存在ごと吹き飛ばされそうな錯覚に震えても、次の瞬間にはその感覚自体がちぎれて飛んでいく。強いめまいに抗えず、力なく両膝を地面につく。いつしか自分が解放されていたことにも気付かずに。
粗い風が頬をなぶるように吹いていくのを感じて、アイリスはおそるおそる目を開けた。いまだ光の粒が明滅する視界は、すぐには像を結ばない。それでも、その瞳に映ったのはあまりに見慣れない、赤茶けた大地だった。
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