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4、Chain of Blood

 積み上がった瓦礫の上に君臨するかのように突き立って、漆黒の邪竜は天を仰いでいた。爛々と不吉に輝く血の色の瞳が、闇を透かしてこちらを見据える。それは、馥郁(ふくいく)とした血の香の予感に酔いしれながら、術なく自ら近寄ってくる獲物を舌舐めずりして待っているようにも見えた。
 少女は一度足を止め、眉を寄せて胸元を押さえた。動悸が速くなる。呼吸が浅くなる。闇色の中に妖しく輝く紅い瞳は、収まったはずの忌わしい記憶を揺さぶり起こす。優し気な沈んだ声も、苦しげで哀しそうな青年の顔も、冷たい石の感触も。罵声、仄明かりに煌めいた刃、そしてあの、貪欲にぬらぬらと輝いていた、紅い紅い瞳……。

『あいりす、いーこ、なの。』
 ぐるぐると廻り始めた音や光景の中から、不意に幼かった自分の声が浮かび上がる。それを皮切りに、次々と当時の状況が蘇る。
 そこは、ぼんやりとした青白い光の満たされた、薄暗い空間だった。それまでずっと「住んで」いた場所と大差はないはずなのに、決定的に違う言い知れない何かに、幼子の胸は震えた。他にすがるものもなく、その日初めて顔を見たばかりの青年の顔を、上目遣いで見上げる。
 同じように自分を見返す青年の顔が、堅くて険しかったから。笑ってもらおうと思って、幼いなりに必死で考えて。少し引き攣ったような曖昧な笑みを浮かべ、おずおずとそう口にした。急に知らない場所に連れてこられた戸惑いも、自分が乗せられている石の台座の冷たさも、そのままに呑み込んで。兄はいつもにこにこ笑いながらこう言ってくれたし、自分が繰り返して言ったなら、もっと嬉しそうに笑ってくれたから。
『……そうだね。君は、良い子だよ。とっても、ね……。』
 笑みの形を作ろうとして何度も何度も苦しそうに口元を歪め、哀しそうな瞳で自分を見つめて、永い永い間の後に青年はこう言った。
『おい、こいつちっとも抜けやがらねぇぜ。』
 突然張り詰めた空気に、苛立たしげな男の声が割り込んでくる。その声に視線を巡らせると、男の脇には血に濡れたように爛々と輝く深紅の瞳。それと目が合った瞬間、わけもわからぬままに、胸の奥が凍り付いた。まるで身体が石にでも変わってしまったかのようで。瞬きの仕方を忘れ、呑み込んだ息も吐き出せなくなる。
『じゃあ……。まだその時じゃないのかもしれません……。やはり……時期を待った方がいいのかも……。』
『何を今さら!』
 伏し目がちに呟く青年の声も、途端に激昂した男の声も、ただ頭の上を行き交うだけ。男がぎらりと光る刃を手に、足音も荒く近付いてくるのも、確かに見ていた。そして、男からかばうように、青年が自分を抱き上げてくれたことも。けれども、それはあたかも他人事を眺めているかのようで。ただ、頬に押し付けられた、彼の胸のぬくもりだけはぼんやりと感じていたけれど。
『どういうつもりなんだ! この期に及んで!』
 怒り心頭、といった面持ちで顔を真っ赤に染めた男の怒鳴り声は、もう頭には届いていなかった。

 アイリスは、小さく頭を振り、再び顔を上げた。幼い日にそれほどまでに圧倒された漆黒の魔剣に、今、一歩ずつ近付いて行く。
『ごめんね……。』
『ごめん、ね……。』
『ごめんなさいね……。』
 その言葉と、あまりにも哀し気な笑みだけを残して、あの青年も、兄と呼んでいた人も、母であった人も、皆いなくなってしまった。耳に残る囁き声も、目に焼き付いた痛い程の笑みも、あまりに重すぎて。振り切ることなどできようはずもない。一歩進むごとに、その重み故に自分の足跡と共に地面は崩れ去って行くような感覚さえ覚えるのに。
 もう、逃げ道も、引き返すべき途もない。ならば選択肢はただ一つ。腹を括って、ただ魅入られたかのように、一歩ずつ前に進むしかない。

 そうして、気付けばいつしか魔剣は目の前へと迫っていた。つい先程、否、100年の永きにわたって、幾多の村びとの血を、命を、啜って来た忌むべき竜。その姿に、吐き気にも似た嫌悪感と、吸い寄せられそうな魅力を同時に感じて、アイリスはわずかに眉を寄せた。紅い瞳が、威嚇するかのようにぎろりと少女を睨む。胸から喉へと込み上げてくる忌わしい記憶と、それにまつわる原初的な恐怖を、アイリスは辛うじて呑み込んだ。びりびりと張り詰めた空気が震える。少しでも動いたなら弾けてしまいそうな程に。少女の右手には、自ずと力が入って、じっとりと汗ばむ。その小さな拳の中で、母と兄の遺してくれた短剣が、わずかにきしむ。
 身じろぎ一つせずにじっと魔剣を見つめていた少女は、思いきったように左手を伸ばす。竜の目元に近いウロコに、指先が触れる。ざらりとしたその感触に一瞬顔をしかめたものの、手を止めることなくしっかりと握り、力を込める。どくん、と歓喜にも似た鼓動がその手に伝わってくる。と、ほぼ同時に、数本の触手が勢い良く少女の手首めがけて伸びてくる。
「……っ。」
 すかさずアイリスは、右手の短剣を竜の口元に突き立てた。
「きゃ……う……。」
 途端、悲鳴さえ満足にあげられない程に、凄まじい衝撃波が全身を襲う。
 あらゆるものを呑み込む海の怪物の名を持つ短剣は、漆黒の竜に蓄えられた魔力を容赦なく吸い上げる。少女の腕に潜り込もうとしてた竜の触手は、その直前で目標を変え、力を奪い返すべく短剣を締め上げる。激しく絡み合い、せめぎあう、2本の魔剣。その争いが生み出した強大な力場に、小柄な少女は、ともすれば吹き飛ばされそうにもなる。それを必死に耐えて、アイリスは剣を握る手にあらんかぎりの力を込めた。ここで手を離してしまえば、剣をとりまく大量の魔力に阻まれて、おそらくもう二度とは近付けない。再び近付けた時には、己の容量を超えた魔力によってか、あるいは激しく締め付ける竜の触手によって、短剣が砕かれた後のことだろう。そうなってしまえば、打つ手はなくなるし、何より母と兄の想いが水泡に帰す。決して、今、手を離すわけにはいかない。
 懸命に力を加える拳はすぐに痺れを訴え、次第に感覚が失われて行く。遠のきそうな意識をどうにかつなぎ止めようとして、少女はただきつく歯を食いしばった。

 どれほどの時間が経ったのだろう。ほんの刹那か、それとも数刻の時が経ったのか。
 休みなく襲い来る衝撃に耐え切れずに目を閉じると、たちまちのうちに世界は遠ざかって行く。頭の中は痺れて、意識があるかないかさえも定かではなく。自分が何をすべきだったかも忘れかけて。ぼんやりとした靄の中で、全身をたゆたう虚脱感に任せようかとしたその時。不意に今までとは違う、鋭い衝撃が手首から脳天へと突き抜ける。
「つ……。」
 アイリスは思わずうめき声を漏らして、目を細く開いた。半ばうつろな瞳に、滲んだ赤い線が映る。と、それは急速に焦点を結んだ。魔剣を握った小さな白い手の甲に、真新しい一筋の傷が口を開けて、鮮血がじんわりと滲み出てる。少女はそれを見て、わずかに顔をしかめた。鋭い痛みの感覚は、少女の意識を確かにいくばくか呼び戻した。
 アイリスは何とか意識を立て直すと、状況の把握に努める。2本の魔剣が生み出した力場は、徐々に均衡が崩れかけてきていた。がっちりと噛み合っていた魔力は歪み、うねり、揺らいで、耐え切れずに溢れた分が押し出される。それが刃のように、矢のように、方向を問わず飛び出して、あるいは少女の皮膚を引き裂き、あるいは山積した瓦礫を砕く。
 ――今のうちに。この均衡が完全に崩れてしまわないうちに、何とかしなければ。
 アイリスは、苦々しげに奥歯を強く噛み締めて眉を寄せた。が、ふと、特に自分の顔のあたりが比較的楽なのに気付く。そして、相棒の精霊がささやかながら力場に干渉して、自分の負担を和らげていてくれていることにも。
「……ありがとう、ステラ。大丈夫、何とかなるよ。」
 ほんのかすかの微笑みを浮かべて、自分にも言い聞かせるように小さく呟く。胸元に小さな温もりを感じ、身体の中心に、しっかりと芯が通ったような感覚も覚える。
 はっきりとした視界の中、改めて手許に目を落とせば、漆黒の竜の形をした呪われた魔剣。何代にも渡って、一族の血を啜ってきた、忌わしき紅い瞳。
 復讐者の剣とも異名をとる、魔剣Blood Pain。
 おそらく砕くのは無理だろう。竜の持つ禍々しさと己の力量を顧みて、少女はそう結論づけた。苦い思いに、きつく唇を噛む。それでも、壊せないならせめて封印を施すくらいは。その身を縛め、牙を封じるくらいはしなければ。……けれどもどうやって。どうすればいい?
 剣を握った手許に視線を据えたままで、アイリスは呪文を組むために思考を巡らせる。手の甲に走った傷からは血の雫が滲み出て、白い皮膚の上を転がり、漆黒の刀身へと伝っていく。意図するでもなくその流れを目で追っていると、ふと何かざわめきのようなものが伝わってくるのに気付く。
 それはあたかも少女の血に応えるように、歪んだ幅広の刃の中でざわざわと波立つ。血の香に溺れる竜の歓喜とは、明らかに違うざわめき。形にならないながらも少女に訴えかけ、語りかけるかのような。しばし瞳を閉じてそれに耳を傾け、少女は深い深い溜息をついた。
 それは、嘆きであり、憂いであり、恨みであり、決意であり、思慕であり、嫉妬であり、無念であり……。永年にわたって魔剣に貪られた命の、様々な想い。その血と共に染み付いた時間の重さに、思いの多さに、アイリスは静かに瞳を伏せ、思いを巡らせた。凪いだ水面のように、頭が静かに静かに冴えていく。雲のように漠としていた思考が、一本の糸を紡ぎはじめる。
 少女は一つ息を吐き、おもむろに重々しく口を開いた。
「我、汝に復讐を。」
 低い声で縛めの言葉を紡ぎながら、片方の手を刃先の方へと滑らせる。
「我が同胞の痛みを汝に還さん。」
 そうして、自らの血で刃に封印を刻む。竜の体内に残る一族の血に働きかけ、その思いを引き出すようにして呪縛の鎖を編み上げていく。
「我が血を以て汝を縛し、我が名を以て汝を封ず。」
 黒い竜が、激しくのたうち、暴れ始める。その反動をまともに受けて、少女の皮膚には新たな傷が口を開け、小さな身体は弾き飛ばされそうになる。
「……我が血を覚えよ、……魔剣Blood Pain……。」
 歪むかと思われる程にきつく顔をしかめ、アイリスは搾り出すように詠唱を続けた。魔剣はいっそう激しく身を捩らせ、苦痛とも威嚇ともつかない咆哮をあげる。
「我が名はっ……アイリス。」
 ほとんど叫ぶように呪文を紡ぎ終えると、途端に強い光が辺りを真っ白に染めた。全てを溶かすようなその光に、周りの音も吸い込まれ、思わず目を閉じた少女の身体も呑み込まれていく。
 まぶたの裏が白く焼け、激しい耳鳴りが、嵐のような暴風が、少女の身体を突き抜けて行く。自分の存在ごと吹き飛ばされそうな錯覚に震えても、次の瞬間にはその感覚自体がちぎれて飛んでいく。強いめまいに抗えず、力なく両膝を地面につく。いつしか自分が解放されていたことにも気付かずに。
 粗い風が頬をなぶるように吹いていくのを感じて、アイリスはおそるおそる目を開けた。いまだ光の粒が明滅する視界は、すぐには像を結ばない。それでも、その瞳に映ったのはあまりに見慣れない、赤茶けた大地だった。

 荒涼とか不毛とかいう言葉を光景で表したとしたら、まさしくこのような感じだろうか。どんよりと立ちこめた厚い雲の下、血で染めたような、鈍い赤色の渇いた大地がどこまでも続いている。荒れた風が、乾いた砂を巻き上げながら吹きすさぶ。
 アイリスは地面に座り込んだまま、その景色を呆然と眺めていた。
 ――ここはどこだろう?
 状況を飲み込めぬままにかろうじて自問し、少女は瞬きしながら周囲を見回した。脚に柔らかな草の感触を感じて、地面で手を探り、目を細めつつ上を見上げる。
 はるか頭上高く、空を覆うかと思われる程に繁る枝々。ゆっくりと後ろを振り返れば、そこには壁と見まごう程の巨大な木の幹が、天を衝かんばかりに聳(そび)え立っている。それを視線で辿るように再び見上げて、思わず感嘆の溜息をつく。いつかアリアに習った異国の神話に出てくる「世界樹」というのは、このような大樹のことではないだろうか。
「おやおや。」
 突然、どこかからだみ声が降ってきて、少女は一瞬びくりと身を震わせた。ぞくりと悪寒が背中を駆けのぼる。緊張を顔に張り付かせ、アイリスはおそるおそる辺りを伺った。
「何や、意外と鈍いんやなぁ。」
 そんな彼女をからかうように再びおなじ声が降って来る。そして、それは少女が見つめる中、ゆっくりと黒い鳥の形になって舞い降りてきた。その身体を受け止めるように、丁度少女の目程の高さあたりの巨木の幹から新たな枝がにゅるりと伸びる。鳥は漆黒の翼を羽ばたかせ、満足そうにその枝に止まった。
「だ……れ?」
 どうしようもない程の嫌悪とも恐怖ともつかぬ感情に、声が掠れる。逃げ出したいくらいの気持ちなのに、身体はおろか、視線さえもその鳥に釘付けになって動けない。
「わいか? そやな、わいのことはイブリースとでも呼んでもらおかな。」
 鳥はわざとらしく片方の翼を上げて見せると、嘴を吊り上げた。首を左右に傾けながら、目を見開いたままの少女に無遠慮な視線を注ぐ。
「なるほどなぁ。『5代の血を以(もっ)て穢(けが)れを雪(すす)ぐ』か。あの男が言うとったんはこういうことやったんか。よう言うたもんや。ふふ。しかしあの兄ちゃんも先走るんやもんなぁ……。まだまだコドモな嬢ちゃんが相手っつーのは、こりゃちょっと反則やで。」
 くっくっと喉の奥で含み笑いを漏らしながら、イブリースはじろじろと少女を眺め、「ま、ええか」と小さく独りごちる。
「けどまあ、こんなちっこい嬢ちゃんがほんまにやってまうとはなぁ……。うん、わい、嬢ちゃんのこと気に入ったわ。それなりに楽しませてもろたし。それにしても……。」
 相変わらず顔を強張らせたままで、身動き一つできずにいる少女に構うことなく、鳥は勝手にしゃべり続けた。ぎょろりと目玉を転がして視線を少女の腕の中へと下ろし、大袈裟な溜息をつく。そこにあったのは、シンプルな細身の剣が一振り。柄の先端に紅玉をあしらっている他は特に装飾も見られない。派手さはないが、すらりと伸びた白銀の刃が、きらりと伶俐に美しく光る。
「みっともない姿になってもうたもんやなぁ、わいの魔剣も……。嬢ちゃんの趣味か? いや、最初はそんな形やったかな? 忘れてもうたわ、まあええか。」
「……お前が……。」
 それまで凍り付いたかのように固まっていた少女が、不意にぴくりと小さく反応した。半開きになったままの唇がわずかに震え、みるみるうちにその顔から血の気が引いていく。見開いた瞳とは対照的に、瞳孔はすぅっと締まっていく。冷えていくようにも見えて、実際には限りなく温度が上がっているのか、陽炎のようなものが立ち上ってゆらりと舞い、ゆっくりと渦巻く気配を見せる。少女の身体全体が白さを増したようにも見えた。まるでその小さな身体の中で、混じりけのない白い炎が燃え上がっているかのように。
「ん? 何や、怒っとんのか、嬢ちゃん。けど、こんなところでメルトダウンもビッグバンも、わいはごめんや。ここまできて自爆なんておもろなさすぎるやんか。」
 鳥はあくまでおどけた調子で言うと、ばさばさと耳障りな音を立てて空中に飛び上がった。
「つーわけで、わいは撤退するわ。そいつは嬢ちゃんに預けとくことにするわ。とりあえず嬢ちゃんが死ぬまでな。まあ、うまいこと使(つこ)たってや。嬢ちゃんやったらいけるやろ。ふふ、またわいを楽しませてや。期待してるで。」
 傲慢に瞳を細めて少女を見下ろし、鳥は薄い笑みを浮かべる。
「まあわいに食われてくれるいうんやったら、もうちょい大きぃなってからにしてや。わいはお子さまには手ぇ出さへん主義なんや。そっちも楽しみにしてるで。ほなな。」
 言い終わるや否や、激しいつむじ風が巻き起こり、イブリースの姿を隠す。黒い羽が、少女を巻き込んで、狂ったように舞い踊る。あたかも彼女を嘲るかのように。
「……っ。」
 アイリスは咄嗟に腕で自分の顔をかばう。何故か胸が一杯で、大声で叫びたい気持ちになったけれど、叫ぶべき言葉は何も出てこなかった。

「……アイリス、アイリス。」
 耳なれた声が自分を呼ぶのに気付いて、少女はゆっくりと顔をあげた。
「アリア師……。」
 端正な顔にわずかな心配の表情を浮かべる師を見つけ、呟くように答える。そっと視線を巡らせてみると、周囲には崩れた瓦礫の山。いつの間にか元の場所に戻ってきていたようだった。手の中に目を落とす。かつての竜の姿は見る影もない、シンプルな細身の剣がきらりと月の光を跳ね返した。再び師の顔を見つめると、目頭がじんわりと熱くなった。
「……よく、頑張ったわね。」
 アリアは唇を動かしかけて、思い直したように、短くねぎらいの言葉だけを口にした。アイリスは、かるく眉を寄せ、俯いて大きく息を吐く。涙がこぼれてしまわぬように。
「アリア師、ちょっとだけ、ちょっとだけでいいんです。今だけ、今ちょっとだけ……。肩を借りてもいいですか?」
「……。」
 アリアは無言のままで少女の隣に屈むと、その髪にそっと手を伸ばした。アイリスは目を閉じてアリアの肩に、頭を寄せた。我慢していた涙が、ひと筋ふた筋、ゆっくりと頬を伝っていく。

 クラウスはそんな2人の様子を遠目に見つめると、そのまま踵を返した。そこに自分の居るべき場所はないと、あの少女に必要なのは自分ではないと感じたから。
 否、彼女といるのは−−失った幼馴染みの妹で、この村の最期を共に見届けた者といるのは−−自分にとってあまりにも辛すぎるというのが正確なところだろう。青年は、唇に自嘲に似た笑みを浮かべると、静かに歩を進めた。
「……。」
 アイリスは静かにまぶたを持ち上げた。青年が無言で立ち去っていくのに、彼女だけが気付いていた。それでも喉が塞がって、かけるべき言葉も出てこずに、視線だけで遠ざかる背中を見送る。
 ――ありがとう。
 唇だけで呟いて、少女は再び瞳を閉じた。
 冲天に昇った真円の月は、血の穢れを拭い去って、優しげな銀の雫を惜しみなく地上に振りまいていた。

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