彼らしい、と言えばそう言えるのだろうか。ベッドと、その傍らに簡素な机と椅子、そして壁際に少し大きめの戸棚。それ以外の不必要なものは置かれていない、綺麗に整った部屋。最近はここを訪れることもめっきり少なくなったが、昔はよく遊んだ、来慣れたはずの部屋。ともすれば、ここの住人がふらりと現れそうな錯覚を覚え、その錯覚に喉のあたりが詰まるような感覚を覚える。それが錯覚でしかあり得ない故に。
部屋の中を、どこへともなく視線を漂わせていたクラウスは、ふと戸棚に目を留めた。手持ち無沙汰にその抽き出しを開けようとして、未だ祭壇のところで拾った短剣を握りしめたままであったのに気付く。それを机の上に置いてから、静かに取っ手を引く。そこにあったものを見て、クラウスは思わず溜息を漏らした。瞳を閉じて、天井を仰ぐ。そっと丁寧にそれを手に取ると、青年は少女の近くに膝をついた。乱れたままに、その肩の上で揺れる細い亜麻色の髪に、そっと手を伸ばす。少女は、怯えたようにぴくりと肩を震わせた。
「……ごめんね。何と言えばいいのかわからないけれど……、本当に、君には……、申し訳ない。」
ゆっくり、ゆっくりと。少女の髪を梳きながら、クラウスは言葉を選んでいった。少女の髪は、色こそ違えど、兄のそれを思わせた。それほどに二人の柔らかな髪質は良く似ている。もつれていた髪は、梳くほどに徐々に素直に真直ぐに垂れていく。
「この村の大人たちは……、俺も含めて……、みんな弱かったんだ。みんな、自分達が、自分達の血が、背負った業(ごう)に向き合うことを怖れて、ただ末に生まれたというだけで、君に全部押し付けようとした……。君の気持ちも、心も、痛みも、何も見えないふりをして……。本当に、済まない。許してくれなどと言える立場じゃないのはわかってる……。けれど、他に言うべき言葉が見つからないんだ。本当に……ごめん。」
クラウスは訥々と、少女の背中に語りかける。一言一言、自分の気持ちと、彼女の兄が抱いていたであろう気持ちを確かめながら。少女は相変わらず、顔を伏せたままだった。しかし、いつしか嗚咽は止まっていた。彼女が自分の言葉を聞いているのに気付き、青年は一度目を閉じた。そして、一つ息をつく。
「君は……、君だよ。他の誰でも、何者でもない。もう、こんな村の因習にも、血の呪縛にも囚われる必要なんかない。何も気にしなくてもいい。……君が何者かは、自分で選んだらいいんだ。でも……。この村のことも、俺のことも、恨んでも憎んでも忘れてもいい……。でも、一つだけ、たった一つでいいから信じて欲しい。」
クラウスは言葉を切ると、握っていた掌をゆっくりと開いた。柔らかな銀の輝きが現れる。可憐な蒼い花をつけた銀の髪飾りを、亜麻色の髪にそっと咲かせて、青年は思わず溜息をもらした。
――ああ、やっぱり。
彼がこれを作っていた時からそう思っていたけれど。実際につけてみるとその思いは確信に変わる。この髪飾りは、この少女のためだけに作られたのだと。柔らかで優しい銀の輝きは、少女の細い髪の繊細さを何より引き立てる。そして、小さな蒼の花弁は、彼女の瑞々しさを表すかのように、控えめながらも透明な彩りを添える。あたかも、二度と紡がれることのない、これを作った者の思いを無言のうちに伝えるかのように。
「……君の兄さんは、本当に君のことを大事に想っていたよ。その想いだけは、信じてやって欲しいんだ。だから……、すぐにでも逃げて欲しい。もう、君を犠牲にすることを望む者なんか誰もいやしない。できるだけ早く、ここを離れて欲しいんだ。あの魔剣をあいつの意志が抑えているうちに。」
村が崩壊した今、護るべきものがあるとするならば。それはたった一つ、幼馴染みであるあの青年の遺志のみ。だから、何があってもこの少女まであの魔剣の餌食にしてしまうわけにはいかない。
「頼むから……逃げてくれ。あいつの思いを、無にしないでやってくれ。これは、俺からの……お願い、だ。」
瞳を軽く伏せてそう言いおくと、クラウスはもう一度少女の髪を撫でて立ち上がった。部屋を出る前に、一度だけ少女の方を振り返る。亜麻色の髪の上では銀の花が、優しくも哀しい、柔らかい光を放っていた。
音をたてないように扉を閉めるとすぐに、射抜くような鋭い翡翠の視線が出迎える。食い付かれるんじゃないか、という思いが一瞬胸をよぎり、その思い付きに思わず苦笑を浮かべる。
「貴女が、彼女を育ててくれた人?」
努めて柔らかく尋ねると、女は鋭い視線を緩めることなく、小さく頷いた。豊かな黒髪が、わずかに揺れる。
「……有難う。あの子がちゃんと育ってくれて、本当によかった……。きっと彼女の兄も、母親も貴女に感謝してる。あの子を大事にしてくれて、本当に、有難う。」
言って、クラウスは微笑んだ。それは確かに偽らざる気持ちだった。もちろんそれで、村が彼女に負わせたものを帳消しにできるなどとは思ってもいないけれど。
「……。」
アリアは戸惑ったかのように、わずかに眉根を寄せた。それを見てほんの少し口元を綻ばせた青年は、すぐに表情を引き締め、かわりにかすかな憂いをその顔に浮かべる。
「だから、貴女にも頼みたい。彼女を連れてここを離れて欲しい。どこでもいい、どこか遠くに、あの魔剣の手の届かない遠くに……。」
「……。」
女は、返事もせずに、じっと青年の瞳を見つめた。相も変わらず、透徹した眼差しを向けたままで。そして、おもむろに口を開く。
「それで? それで、貴方はどうする?」
「俺? 俺は……?」
思わぬ問いに、クラウスは口籠った。実際、自分がどうするかなど全く考えてなかったのだから。
「……後で考えるよ。今はあの子のことの方が先だ。」
「……まあいいけど。」
アリアは冷淡に言い放つと、クラウスから視線を逸らしてゆっくりと立ち上がった。と、思い出したようにちらりと視線を戻す。
「……あまり肩に力が入り過ぎるのは感心しない。」
「……。」
クラウスは応え倦ねて、軽く瞳を伏せた。あまりにたくさんの、絡まった感情は、その重さゆえに言葉にならなかった。
そんな青年の方を、アリアは既に見ていなかった。
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