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3、覚悟なら

 もしかしたら、この信じ難い出来事を最も早く理解したのは、一番幼い少女だったのかもしれない。少女の上げた悲鳴に、初めて二人の大人は我に返った。
「アイリス? 落ち着きなさい、アイリス!」
 両手で乱暴に頭を掻きむしり、在らん限りの声をあげる少女の腕を、アリアは強く掴んで揺さぶった。が、その師の声も聞こえないのか、少女は崩れるようにその場に座り込み、激しく首を振ってさらに身体中で悲鳴をあげる。
「いやああああっ!! 兄さ……、いやああああ!!」
「……アイリス?」
 戸惑いがちにクラウスが、少女に声をかけるのにも、まったく効果はない。アリアは、少女が完全に恐慌状態に陥ったことを悟って、小さく舌打ちした。昔、封じたはずの記憶が、今、目の前で兄を失った衝撃でこじ開けられている。本来ならもう薄れてしまってもよいくらいの、古い記憶。しかし、今まで封じていたがために、こじ開けられたそれは今なお鮮やかで。少女の中では、時間の壁は消滅し、蘇った恐ろしい思いだけを突き付けられて、激しく混乱しているのだ。少女が泣き叫ぶのに従って、彼女の魔力も荒れる。ともすれば、彼女自身のみならず、周囲も巻き込んで暴走してしまいかねない程に。それを防ぐためにアイリスの魔力に干渉するのが手一杯で、アリアには打開策が打てない。思わずきつく眉を寄せる。
「……っ。」
 突如、少女の悲鳴が止んだ。あたかも時が止まったかのように、耳鳴りがする程の静寂が、一瞬にして空気を凍らせる。アリアとクラウスは、大きく見開かれたままで固まっている少女の視線を、無意識のうちに追っていた。
「……。」
 ぞくり、と。背筋に悪寒が走るのをはっきりと感じた。地面に突き立ち、天を仰いでいたはずの漆黒の竜。その貪欲な紅い瞳が、明らかにじろりと少女を睨んでいた。あたかも、次の獲物を見定めた、と言わんばかりに。錯覚かもしれない、などと考える余裕すらなかった。三人が三人とも、間違いなく同じ印象を共有していたのだから。
「……や……。いや……。」
 にわかに小刻みに震え始めた少女の唇からもれる声は、弱々しくて、今にも消えてしまいそうだった。漆黒の魔剣にも、その心を捉えた恐怖にも、抗う気力もその術も、見出せないのだろう。
 とにかくここを離れなければ。
 そう感じたクラウスは、少女の腕を掴むと、半ば引きずるようにして抱きかかえた。その意図をいち早く理解したアリアに、集落の方を視線で示す。ちらりと振り返れば、夜空に溶け込んだ闇色の竜は、相変わらず紅い瞳だけをぎらぎらと光らせていた。恨みにも憎しみにも似た思いを覚えて、クラウスは強く奥歯を噛み締めた。

 崩壊を免れたその家は、健気にも最後の住人を暖かく迎え入れた。扉を閉めると、ほわりとした柔らかい空気が三人を包み込む。厚い木の床の上に置かれたテーブルと椅子は、やはり暖かみのある木でできていて、つい先程までそこにあったと思われる、人の生活の温もりを感じさせた。かつてはよく訪れたことがあったせいかもしれない。それがほんの一時のことであるとはわかっていても、クラウスはやはりある種の安堵と、新たに涌いて来た哀しみに、大きく息をついた。魂の抜けたような顔で床に座り込んでいた少女は、先程ふらりと立ち上がって、奥の部屋へと入ってしまった。中からは少女の啜り泣く声が聞こえてくる。
「……アイリス?」
「来ないでっ。」
 少女の入り込んだ部屋のドアを開けようとしたアリアの手が、ぴたりと止まった。少女の拒絶の言葉に、傍目にそれとわかるくらいはっきりと、女の身体がぴくりと震え、白い頬はひきつっていた。
「……あんなことがあったんだ。混乱しても仕方ない。あまり気にしなくてもいいんじゃないかな。」
 見兼ねたクラウスが声をかけると、アリアはくるりと振り向いた。心の奥底まで見透かされそうな程に澄んだ翡翠の瞳が、クラウスを正面から捕らえる。
「気にする? 何を?」
「……。」
 一瞬答えかねたクラウスは、この長身の女をしげしげと見つめた。外見はクラウスと同じか、むしろ若く見える。しかし、その伶俐な知性を湛えた眼差しや、身にまとった高貴な雰囲気は、その外見以上の気高さのようなものを感じさせる。なのに、彼女は気付いていないのだろうか。自分が、その湖水のような静かな瞳とは対照的に、わずかな焦りの表情を浮かべていることに。そして、さっきからずっと、胸元に提げた小さな翡翠の石を、苛立たし気に弄んでいることに。
「とにかく……、俺に少し任せてもらえないか? 彼女に話したいことがあるんだ……。」
 言葉を選びながらもクラウスは曖昧な口調でそう告げた。アリアは、彼に注いだ視線はそのままに、それでも無言のまま、傍らに置かれていた椅子に腰を下ろした。もはや無用の物と化したテーブルの上に、ゆっくりと肘を乗せる。クラウスはわずかに苦笑を浮かべて、奥の部屋の扉をそっと開けた。
 奥のベッドに突っ伏して嗚咽を漏らしている少女の背中を、クラウスは黙って見つめた。贄の運命さえ背負わなければ、彼女はこの家で育ったはずだった。優しい母親と、妹思いの兄に囲まれて。なのに彼女は今、そのことさえ知らずに泣いている。
「アイリス……。ちょっといいかい? 君に話したいことがあるんだ。」
 クラウスは、努めて穏やかに、優しく声をかけた。少女の背中が、びくん、と大きく震える。
「……れ? だ、れ?」
嗚咽の合間から、小さな、声が詰まりがちに返ってくる。
「ああ、ごめん。俺はクラウス。君の……。」
 お兄さんの友人だ、とクラウスが続けようとすると、そうじゃないと言わんばかりに、少女は勢い良く顔を上げた。その剣幕に、クラウスは思わず台詞の続きを呑み込んだ。少女は、泣き腫らした顔で、泣き濡れた瞳で、クラウスを睨み付ける。
「あたしは、誰? あたしは、何? あたしは……何を……。」
 悲鳴にも似たその叫びが、嗚咽に紛れて途切れると、少女は再び顔を突っ伏して、肩を震わせた。
「君は……。」
 その迫力に圧されたように、そこまで口にしたものの、クラウスは口籠った。自分の全存在をかけたこの少女の問いに、答えるべき言葉などすぐに出てくるはずもない。
 クラウスも未だに心の整理のつかない、先程の出来事。彼女は何を察して、どこまで気付いているのか。自分は何を伝えるべきか。まかり間違えば、名前さえ与えられなかったかもしれない少女。いったい村びとの誰が、彼女を「アイリス」という名の一人の人間だと思っていただろうか。それはクラウス自身も含めて。顧みれば、自分だって、彼女を友人の妹としか見ていなかったかもしれない。彼女の兄がリヒァルトでなかったら、やっぱり自分も、彼女をただの生まれながらの贄としか考えなかったかもしれない。
 頭の奥がぼんやりと痺れる。否、さっきからずっと痺れている。停滞した思考に、クラウスの思いはただ逡巡するばかり。それでも、胸にのしかかる義務感が青年の口を開かせる。最後の村びととして、大人の一人として、何より彼女の兄の親友として。
 なのに、言葉がついてこない。もどかしさと、そんな自分への苛立ちと。落ち着かない気持ちのままに、あるはずのない答えを探して、クラウスは視線を彷徨わせた。

 彼らしい、と言えばそう言えるのだろうか。ベッドと、その傍らに簡素な机と椅子、そして壁際に少し大きめの戸棚。それ以外の不必要なものは置かれていない、綺麗に整った部屋。最近はここを訪れることもめっきり少なくなったが、昔はよく遊んだ、来慣れたはずの部屋。ともすれば、ここの住人がふらりと現れそうな錯覚を覚え、その錯覚に喉のあたりが詰まるような感覚を覚える。それが錯覚でしかあり得ない故に。
 部屋の中を、どこへともなく視線を漂わせていたクラウスは、ふと戸棚に目を留めた。手持ち無沙汰にその抽き出しを開けようとして、未だ祭壇のところで拾った短剣を握りしめたままであったのに気付く。それを机の上に置いてから、静かに取っ手を引く。そこにあったものを見て、クラウスは思わず溜息を漏らした。瞳を閉じて、天井を仰ぐ。そっと丁寧にそれを手に取ると、青年は少女の近くに膝をついた。乱れたままに、その肩の上で揺れる細い亜麻色の髪に、そっと手を伸ばす。少女は、怯えたようにぴくりと肩を震わせた。
「……ごめんね。何と言えばいいのかわからないけれど……、本当に、君には……、申し訳ない。」
 ゆっくり、ゆっくりと。少女の髪を梳きながら、クラウスは言葉を選んでいった。少女の髪は、色こそ違えど、兄のそれを思わせた。それほどに二人の柔らかな髪質は良く似ている。もつれていた髪は、梳くほどに徐々に素直に真直ぐに垂れていく。
「この村の大人たちは……、俺も含めて……、みんな弱かったんだ。みんな、自分達が、自分達の血が、背負った業(ごう)に向き合うことを怖れて、ただ末に生まれたというだけで、君に全部押し付けようとした……。君の気持ちも、心も、痛みも、何も見えないふりをして……。本当に、済まない。許してくれなどと言える立場じゃないのはわかってる……。けれど、他に言うべき言葉が見つからないんだ。本当に……ごめん。」
 クラウスは訥々と、少女の背中に語りかける。一言一言、自分の気持ちと、彼女の兄が抱いていたであろう気持ちを確かめながら。少女は相変わらず、顔を伏せたままだった。しかし、いつしか嗚咽は止まっていた。彼女が自分の言葉を聞いているのに気付き、青年は一度目を閉じた。そして、一つ息をつく。
「君は……、君だよ。他の誰でも、何者でもない。もう、こんな村の因習にも、血の呪縛にも囚われる必要なんかない。何も気にしなくてもいい。……君が何者かは、自分で選んだらいいんだ。でも……。この村のことも、俺のことも、恨んでも憎んでも忘れてもいい……。でも、一つだけ、たった一つでいいから信じて欲しい。」
 クラウスは言葉を切ると、握っていた掌をゆっくりと開いた。柔らかな銀の輝きが現れる。可憐な蒼い花をつけた銀の髪飾りを、亜麻色の髪にそっと咲かせて、青年は思わず溜息をもらした。
 ――ああ、やっぱり。
 彼がこれを作っていた時からそう思っていたけれど。実際につけてみるとその思いは確信に変わる。この髪飾りは、この少女のためだけに作られたのだと。柔らかで優しい銀の輝きは、少女の細い髪の繊細さを何より引き立てる。そして、小さな蒼の花弁は、彼女の瑞々しさを表すかのように、控えめながらも透明な彩りを添える。あたかも、二度と紡がれることのない、これを作った者の思いを無言のうちに伝えるかのように。
「……君の兄さんは、本当に君のことを大事に想っていたよ。その想いだけは、信じてやって欲しいんだ。だから……、すぐにでも逃げて欲しい。もう、君を犠牲にすることを望む者なんか誰もいやしない。できるだけ早く、ここを離れて欲しいんだ。あの魔剣をあいつの意志が抑えているうちに。」
 村が崩壊した今、護るべきものがあるとするならば。それはたった一つ、幼馴染みであるあの青年の遺志のみ。だから、何があってもこの少女まであの魔剣の餌食にしてしまうわけにはいかない。
「頼むから……逃げてくれ。あいつの思いを、無にしないでやってくれ。これは、俺からの……お願い、だ。」
 瞳を軽く伏せてそう言いおくと、クラウスはもう一度少女の髪を撫でて立ち上がった。部屋を出る前に、一度だけ少女の方を振り返る。亜麻色の髪の上では銀の花が、優しくも哀しい、柔らかい光を放っていた。

 音をたてないように扉を閉めるとすぐに、射抜くような鋭い翡翠の視線が出迎える。食い付かれるんじゃないか、という思いが一瞬胸をよぎり、その思い付きに思わず苦笑を浮かべる。
「貴女が、彼女を育ててくれた人?」
 努めて柔らかく尋ねると、女は鋭い視線を緩めることなく、小さく頷いた。豊かな黒髪が、わずかに揺れる。
「……有難う。あの子がちゃんと育ってくれて、本当によかった……。きっと彼女の兄も、母親も貴女に感謝してる。あの子を大事にしてくれて、本当に、有難う。」
 言って、クラウスは微笑んだ。それは確かに偽らざる気持ちだった。もちろんそれで、村が彼女に負わせたものを帳消しにできるなどとは思ってもいないけれど。
「……。」
 アリアは戸惑ったかのように、わずかに眉根を寄せた。それを見てほんの少し口元を綻ばせた青年は、すぐに表情を引き締め、かわりにかすかな憂いをその顔に浮かべる。
「だから、貴女にも頼みたい。彼女を連れてここを離れて欲しい。どこでもいい、どこか遠くに、あの魔剣の手の届かない遠くに……。」
「……。」
 女は、返事もせずに、じっと青年の瞳を見つめた。相も変わらず、透徹した眼差しを向けたままで。そして、おもむろに口を開く。
「それで? それで、貴方はどうする?」
「俺? 俺は……?」
 思わぬ問いに、クラウスは口籠った。実際、自分がどうするかなど全く考えてなかったのだから。
「……後で考えるよ。今はあの子のことの方が先だ。」
「……まあいいけど。」
 アリアは冷淡に言い放つと、クラウスから視線を逸らしてゆっくりと立ち上がった。と、思い出したようにちらりと視線を戻す。
「……あまり肩に力が入り過ぎるのは感心しない。」
「……。」
 クラウスは応え倦ねて、軽く瞳を伏せた。あまりにたくさんの、絡まった感情は、その重さゆえに言葉にならなかった。
  そんな青年の方を、アリアは既に見ていなかった。

 青年が出て行ってしまうと、柔らかな静寂が部屋を満たした。アイリスはゆっくりとベッドに伏せていた顔を上げた。容赦なく吹き荒れていた胸の嵐は、なんとか収まったようだが、未だ奥の方でざわめいている。今まで自分の知らなかったもう1人の自分に出会ったような、戸惑い。
 そっと髪に手を遣る。わずかに温もりの残る滑らかな感触に、少女は大きく息をついた。軽く眉を寄せ、唇を噛んで瞳を閉じる。うっすらと形をとりつつある鈍い惑いが、じんわりと胸の中で重みを増す。それに耐えきれずに再び瞳を開けて、アイリスはふと振り向く。その唇からは小さな声が漏れでた。

 アリアは、少女の籠っている部屋のドアへと手を伸ばした。ふと、中から囁くような声が漏れてくるのに気付いて、眉を寄せる。青年がこちらの部屋に出てきた今、中にいるのはアイリス1人のはずなのに。訝しく思いながらそっとドアを押す。わずかに隙間が開く。
「……おかあさん。」
 幼子のような、甘えた声での呟きが、小さいながらもはっきりとアリアの耳に届く。ずきり、と毒針で刺されたかのような痛みを覚えて、アリアは胸元を押さえた。苦いものが胸に広がって行くのを感じながらも、ドアを押す手は止まらない。ベッドの上に腰掛けた少女と、その前に立つ女性の姿が、少しずつ視界に入ってくる。
 少女は瞳を閉じて、涙の跡の残る頬を女性に寄せていた。切なげに軽く眉を寄せながら、口元には安堵にも似た色を浮かべて。そして顔を上げ、2、3度瞬きながら小首を傾げて、すがるような目で女性の顔を見上げる。
 見覚えのある女性は、そんな少女を穏やかな微笑みで見つめ、優しげにその頬を、髪を撫でる。慰めるように、少女に一言二言言いおいて、戸口の方を振り向いた。アリアと目が合うと、やんわりとした笑みを浮かべて、深々と頭を下げる。と、不意にその姿が透け始める。
「あっ……。」
 異変に気付いた少女が小さく声をあげた。引き止めるような彼女の視線も虚しく、柔らかい微笑みの余韻だけを残して、女性の姿は消え失せた。からん、と乾いた音をたてて、小さな短剣が床の上に転がる。
「あぁ……。」
 言葉にならない溜息をついて、アイリスはその短剣を見下ろしていた。
 鈍くわだかまる鉛のような感覚を抱いたままで、アリアは部屋の中へと足を踏み入れた。無言のままで、アイリスの足元に落ちている短剣を拾い上げる。少女は座ったままで、視線だけでその短剣を追いかけた。
「……大した細工ね……。」
 指先で短剣を弄びながら、アリアは独りごちるように呟いた。もちろん、細工と言っても、外見の美しさを褒めているわけではない。魔女の目から見れば、この短剣が魔力を込める道具であることは、一目瞭然。それもかなりの容量を持つ代物であることも。一見、実用に耐えないただの飾りのような刃には、念入りを通り越してしつこい程に、幾重にも魔術の粋を極めた技巧が重ねられている。
 まず、その材質からして異界の金属、おそらくは流星の欠片が使われている。そして均整のとれた形、表面に刻まれた紋様、さらには刃に巻き付くように施された蔦のような細工、Leviathanと打たれた銘と、数え上げればきりがない。これなら、大量の魔力を内に秘めることも可能になるはず。母親の最期の想いを余すことなく具現化することなど、雑作もない程に。
 おそらく偉大な魔術師の手による最高傑作を目の当たりにして、アリアは溜息をついた。最期にこの短剣に自分の想いを託した、少女の母親の行動にも。
 アリアが傍らの机の上に短剣を置くと、いつしかベッドから立ち上がっていたアイリスが、それに手を伸ばす。しばらく短剣を眺めていた少女は、そっとそれを握り、空いた方の手で濡れた目元をゆっくりと拭った。
「……アイリス、どうするの?」
 弟子の様子をじっと見つめ、アリアは言葉少なに尋ねる。アイリスは、しばし目を伏せた後、静かに唇を動かした。
「魔剣との……決着を、つけてきます。」
 少女の返事に、アリアは小さく嘆息した。が、肯定も否定もしない。ただ一言確認するだけ。
「それは今、空っぽだとわかっているわね。」
「わかっています……。多分、これでいいんです。」
「そう。」
軽く俯いたまま答えた少女に、アリアはともすれば無関心ともとられかねない短い返事を返す。
「馬鹿な……。」
 開かれたままの扉ごしに、師弟のやりとりを目にしたクラウスは、戸口に立ち尽くしていた。青年が思わず漏らした声に、アイリスはわずかに顔を上げた。済まなそうな視線を彼に向ける。
「あの魔剣は、あたしに目をつけた……。多分、逃げられない……。きっと逃げ場なんて……ないから。」
「……。」
 否定の言葉は出てこなかった。それは、クラウス自身も心のどこかで抱いていた印象に他ならなかったから。言葉を失った青年に、微かな笑みを向けた後で少女は、再び視線を伏せて、静かに続けた。
「例えどんな運命を持って生まれたとしても、それでもあたしは生まれて来て、今ここにいるのだから……。覚悟ならきっと……、生まれた時からできている……。それに、兄さんと母さんが、あたしに闘う手段を残してくれたから。」
「……。」
 もしもそれが力強く宣言されたものだったなら、力づくでも止めただろう。しかし、少女がその幼い顔だちに、似つかわしくない程の憂いの表情を浮かべたから、クラウスにはただ道を開けることしかできなかった。

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