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1、 Blood Pain

 短い夏の輝きを精一杯に主張するかのように明るく降り注ぐ陽射しを浴びながら、青年はロバを引いていた。考え事をするかのように、まだ幼さの残る口元を一文字に引き結び、足下だけを見つめている。初夏の陽光も、木々のざわめきも、まるで届いていないかのように。それでも前方に現れた集落に自分に向かって手を振る一団を認めて、ほんのわずか口元を緩め、軽く左手をあげて応えた。
「ご苦労だったな、リヒァルト。」
 村の長が一団の中から進みでて青年を出迎える。
「ただいま戻りました。」
  済ました顔で彼は答え、荷物を下ろした。
「済まなかったな。お前一人に交易を任せてしまって。」
 ロバの荷の中身を説明して後の分配を村びとたちに任せる彼の背中にレイノルドは声をかけた。すっかり成年を迎えた甥の姿に、蒼い目を細める。
「叔父さん。話があります。」
 村びとたちがすっかり荷に夢中になっているのを確認して、リヒァルトは唐突にレイノルドに向き直った。茶色の瞳に強い決意の色を見て取って、レイノルドは自分の家の扉を指差した。リヒァルトは小さく頷くと、叔父の後に従った。

「で……。話というのは?」
 リヒァルトに椅子を勧め、レイノルドは努めて穏やかな顔で尋ねた。リヒァルトは未だ顔を強張らせたまま、硬い声で切り出した。
「今回、帰り道の途中でアイリスに会いました。」
「……。」
 咄嗟に返す言葉も見つからず、レイノルドは視線を宙に泳がせた。対照的にリヒァルトの視線は叔父の顔に釘付けになったままで、追及を緩めない。
「あの子の瞳の色……。変わってた……。昔は間違いなく青かったのに……。」
「人違い、じゃあないのか?」
 口にするのもあまりに白々しい。自分でそう悟っていながら、それでも言わずにはいられなかった。形になった言葉が忌々しくて、レイノルドは目を伏せた。
「僕があの子を見間違えるはずがありません。」
 若者の言葉は刃のように鋭く、レイノルドの胸に突き刺さる。
「あの子の目、翡翠色だった……。山あいの村で魔女として追われてた……。」
 リヒァルトは初めて叔父から視線を外した。瞳を伏せ、唇を噛み締める。苦し気に一つ息を吐き、そして思いきったように再び正面からレイノルドの顔を見つめた。
「あなたはアイリスは死んだと言った。本当は何があったのですか。アイリスとラトキスさんがいなくなったあの日、本当は何があったのですか。教えて下さい。」
「……リヒァルト。」
 レイノルドは瞳を閉じたまま、頭を左右に振った。やっとのことでそれだけを絞り出す。
「……済まない。私には……。いや、長としてお前に話さねばならないことはわかっている……。だが……。」
 何かを堪えるように眉をきつく寄せたまま、訥々と言葉を続けていく。そこには、常にまとっていた村長としての威厳や包容力は影もなく、沈痛な表情はひどく老け込んでさえ見えた。
「私に……。時間を、くれないか? 済まない。本当に、済まない。リヒァルト……。」
「……。」
 叔父の姿にいたたまれなくなってか、リヒァルトは無言で席を立った。張り詰めた空気の中で、床のきしみが大袈裟に響く。
「ごめんなさい……。あなたを責めるつもりじゃ、なかったんです……。」
 凍り付いたように椅子に座ったままの叔父を振り返ることなく、リヒァルトはそう言い残して厚い木の扉を静かに開けた。
 ドアが閉まる音を聞いて、レイノルドは両手で髪をかきむしり、机に突っ伏した。

 胸に鉛のような重さを抱いたまま、リヒァルトは叔父の家を後にした。じっと地面に落ちた濃い影を見つめ、思い直したように歩を進める。そのままの足で少し離れた家の扉を叩く。扉の向こうで小さな足音が近付いて来て、ドアが静かに開く。
「やあリッヒ、いらっしゃい。」
 家の主は穏やかな笑みで彼を出迎えた。いつかの悪戯っ子のような面差しはとっくに消え失せ、その口調も物腰も、どこかあの思慮深い、鳶色の瞳の青年を彷佛とさせる。
「クラウス、聞きたいことがあるんだ。」
 リヒァルトは表情を崩すこともなく、いきなり本題を切り出した。
「5年前のあの時、アイリスとラトキスさんがいなくなった時、本当は何があったのか教えてほしいんだ。」
「……。」
 リヒァルトの真直ぐな眼差しに、クラウスは思案するように口元に手をやった。
「そういえばリッヒ、もう18になったんだっけ?」
 脈絡のない問いかけに、リヒァルトは怪訝な顔をしながらも頷いた。
「もうこの村の話は長さまから聞いたかい?」
「いや、まだ……。」
 そういえば今まで忘れていたが、何故まだ教えてもらっていないのだろう。唐突に現れた疑問をいぶかり始めたリヒァルトの顔を、クラウスはじっと見つめていた。
「……そう。やっぱりまだ、か……。あの時の話、俺から話しても良いけど……。」
 思うところがあるのか、歯切れの悪い口調でクラウスはリヒァルトから視線を外して、軽く目を伏せた。
「聞いて後悔するかもしれない。聞かなきゃよかったと思うかもしれない。……それでも聞く?」
「……それでも、聞きたい。」
 一瞬躊躇(ためら)ったものの、青年の心は変わらなかった。何を聞かされたとしても、自分の知らないところで妹だけが苦しんでいることの方がきっと堪え難い。その考えだけは揺るがなかったから。
「そうか、じゃあ出かけよう。」
 クラウスは唇に曖昧な微笑を浮かべてリヒァルトを促した。

 ――以前、ここに来た時には二人とも無邪気な少年だった。
 村はずれに忘れられたように建っている小屋。かつてレイシアと生まればかりのアイリスがいた小屋。その床の隠し扉をクラウスが持ち上げるのを眺めていると、ふとリヒァルトの胸にそんな思いがよぎる。
 もっとも、彼とここに来たのはただ一度だけ。幼かった妹がクラウスの顔を見た途端に泣き出したものだから、それ以来彼を連れてくることはなかった。
 二人は押し黙ったまま、坑道跡の地下通路を歩いていた。ランプの火に赤い陰影の刻まれたクラウスの横顔を見ながら、リヒァルトは足を進めた。否が応でも、妹がいた頃のことを思い出してしまう。灯が見覚えのある部屋を映し出したのに気付いて、立ち止まる。
 かつて自分と妹を隔てていた鉄格子はそのまん中が見る影もなくへしゃげていた。部屋の床で、小さな塊がぼんやりとランプの灯を跳ね返すのに目を留め、リヒァルトは格子をくぐった。積もった埃を払って拾い上げてみれば、それは小さな瓶だった。中には虹のような貝細工の星……。リヒァルトは瓶を強く握りしめて大きく息を吐いた。覚えず、湿った岩天井を仰ぐ。
「……ごめん。先を急ごう。」
 整理のつかない気持ちを抑えつけるかのように視線を伏せて、リヒァルトはクラウスを振り返った。
「リヒァルト。」
 それまで沈黙を保っていたクラウスが不意に口を開く。
「もしも……。もしも命と引き換えに、何か願いが叶うとしたら……、何を願う?」

「何……を?」
 クラウスのあまりに唐突な問いの意図をはかりかねて、リヒァルトは眉を寄せた。当のクラウスの瞳は既に先へと注がれている。彼の掲げたランプの赤い灯が、闇に続く通路を照らし出す。
「昔、昔……。こんな言い伝えがあるんだよ。」
  相変わらず、真直ぐ前を見つめたままで、クラウスが口を開いた。その口調は、ひどく単調で、至極真剣だった。その声に誘われたかのように、湿った壁を赤く染める炎がゆらゆらと揺れる。
「持ち主の命と引き換えにその望みを叶えるという剣があってね……。『復讐者の剣』とも呼ばれていたらしいけれど。まあ、自分の命に代えても願うようなことっていうのは、復讐くらいしかないんだろうけど……。とにかく、願いさえすれば確実に、仇と持ち主と両方の命を奪ったと伝えられている。」
「……。」
 リヒァルトは、ただ黙ってクラウスの隣に並んで歩いた。『復讐』という言葉の持つ、不吉な響きに静かな胸騒ぎを感じながら。
「そしてある時、一人の男がその剣を握り……、そしていろいろあった末にそれを眠らせるのに成功した……。今はその子孫たちが剣の眠りを守っている……と。」
 まるで出来の悪い書物でも読み上げるかのような棒読み口調で続け、クラウスは一旦言葉を切った。
「とまあ、ここまではいいんだ。言い伝えとしてはよくある話だろ?」
 言葉ほどには同意を求めるような響きを含ませず、青年は皮肉げに息を吐き出した。軽く開いた唇がどこかやるせない笑みを形作る。その横顔がひどく――昔を思えば彼には似つかわしくない程に――大人びて見えるのは、その顔に刻まれた、揺れる灯の陰影のせいだろうか。そんなことを思いながらリヒァルトは食い入るようにクラウスの顔を見つめた。幼い頃からよく知るこの友人の意図が、今は読めない。かといって口を挟む気にもなれない。形にならない言葉の代わりに、その視線に自分の思いを乗せて話の先を促す。
「もちろん、眠らせるって言ってもそう簡単なものじゃない。いつまでもというわけにもいかないし、代償だってそれなりに必要だ。結局は契約ということになるからね……。この話にだって、ちゃんと続きがある。」
 リヒァルトの意図が伝わったためかどうかはわからないが、クラウスは再び淡々と喋り始めた。
「その男から数えて5代の間、剣は刃を収め、平穏は続く。その一族は剣に守られて静かな暮らしを約束される。……できすぎた話だろう?」
 かつての坑道は、時おり枝分かれをし、曲がりくねっている。闇へと続く静まり返った道に、二人分の湿った足音と、クラウスの声だけが響く。方向感覚はとっくに奪われて、得体の知れぬ空間へ、否、むしろ見知らぬ過去へさえ誘われているような錯覚を覚えそうになる。
 クラウスは現在地を確認するかのように、ちらりと視線を周囲に巡らせた。小さく息を吐いて、再び口を開く。ほんのわずか、自分の唇が震えるのを自覚しながら。
「その代償は……。彼の5代目の子孫、その末の子。100年の平穏の代償としてその子を贄に差し出すのが、剣との契約。」
「でも……。」
 思わず漏らした自分の声が奇妙に耳なれないものに聞こえて、リヒァルトは一瞬顔をしかめた。
「それは、あくまで言い伝え……だろ? 贄の話だって、言い伝えではよく聞くし、そんなに珍しくない。」
 胸に滲む形のない不穏を抑えるかのように、乾いた声で早口で続ける。なぜか、その話と5年前の出来事にどういうつながりがあるのかと聞く気にはなれなかった。そんなリヒァルトを一瞥して、クラウスは口を開きかけた。が、不意に前方にぼんやりとした光をとらえて口を閉ざした。つられるようにリヒァルトもそちらに視線を向ける。その光は細長い半円、すなわち出入り口の形をかたどっていたが、それは明らかに外の光とは異なっている。

 その入り口をくぐれば、そこは今まで歩いてきた坑道からは想像も付かぬ程広く開かれていた。その広間いっぱいに、冷たい張り詰めた空気が満ちている。壁に据え付けられた灯は、どう細工してあるのか青白い光をぼんやりと放つ。そのどこか荘厳で伶俐な雰囲気に気押されて、リヒァルトは瞳だけを動かして部屋の中を見遣った。
 中央に置かれているのは、飾り気のない石の寝台。その脇には背の高い祭壇。このだだっぴろい空間に置かれているのは、この二つだけ。あまりに素っ気無いと言えば素っ気無い。しかし、祭壇の上に祀(まつ)られている黒い置き物が目に入った時、彼の視線はそこに釘付けになった。背筋に寒いものが走るのを感じながらも、そこから目を逸らすことはできなかった。無造作に、ただ祭壇の真中に置かれているようにしか見えない。それでも、この部屋の一種特種な、重く鋭い雰囲気を醸す源はこれに違いないと、何故か一目で確信する。
 それは天井を仰ぐ不吉な黒い竜の頭の形をしていた。艶やかな漆黒のうろこに映える目は、血に染まったかのような真紅で、恐ろしくも吸い寄せられそうな程の魔性を漂わせている。口を半分開き宙を睨んだその姿は、頭だけとはいえ、今にも動き出しそうだった。
「村の外れに、子どもの入れない洞窟があったろう? ここはそこの奥にあたるんだ……。」
 聞き慣れた声にようやく呪縛を解かれ、リヒァルトはクラウスを振り返った。
「あれは……?」
 いくぶん掠れた声で、黒い竜を指差す。
「あれは、剣の柄なんだ。さっき話したろう? あれが『復讐者の剣』、魔剣Blood Pain。刃の部分は、祭壇の中で眠っている……。これが、長から聞かされるはずだった『ありがたいお話』だよ。そして、この村の始祖グレイグ・ハサルトから数えて5代目にあたるのは、俺たちの……つまりリッヒ、お前の世代……なんだよ。……わかるだろ? アイリスが特別だった訳。」
 その顔から表情を消して、クラウスは一気にそれだけを喋り切った。
「嘘……。」
 視線は黒い竜に注いだままで、リヒァルトは呆然と呟いた。けれど、あまりに禍々しい、それでいてあまりに魅惑的な竜の姿は、残酷なまでにはっきりとその言葉を否定している。鳥が空を飛ぶように、つぼみが花を開かせるように、ごく当たり前の、そうあるべきこととしてこの竜は人を喰うのだろう。そこには何の他意も、悪意もなく。そう思わせる雰囲気を、この剣は持っていた。それが一層見る者の背筋を凍らせる。
「……もちろん、さっきのは、あくまで表向きの話だよ。あれでも、ね。まあ、実物を目の前にしたら誰だって気付くだろうけど。」
 クラウスは小さく溜息をついて、リヒァルトの方へと向き直った。その焦茶の瞳が、続きを聞く意志があるかと無言のうちに問いかける。リヒァルトは唇を噛み締めて、小さく頷いた。目の前の竜の存在だけでも十分に彼の想像を超えていたけれど、それでも今さら後には退けない。
「そうか……。」
 クラウスは再び嘆息した。つと、友人に注いでいた視線を逸らす。
「5年前、ここであったこと、だったな……。」
 リヒァルトに、というよりは自分の覚悟を確かめるかのように呟いた。その顔に苦渋の色が浮ぶ。一度軽く瞳を閉じてそれを振り払うと、クラウスは思い直したように唇を開いた。

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