「何……を?」
クラウスのあまりに唐突な問いの意図をはかりかねて、リヒァルトは眉を寄せた。当のクラウスの瞳は既に先へと注がれている。彼の掲げたランプの赤い灯が、闇に続く通路を照らし出す。
「昔、昔……。こんな言い伝えがあるんだよ。」
相変わらず、真直ぐ前を見つめたままで、クラウスが口を開いた。その口調は、ひどく単調で、至極真剣だった。その声に誘われたかのように、湿った壁を赤く染める炎がゆらゆらと揺れる。
「持ち主の命と引き換えにその望みを叶えるという剣があってね……。『復讐者の剣』とも呼ばれていたらしいけれど。まあ、自分の命に代えても願うようなことっていうのは、復讐くらいしかないんだろうけど……。とにかく、願いさえすれば確実に、仇と持ち主と両方の命を奪ったと伝えられている。」
「……。」
リヒァルトは、ただ黙ってクラウスの隣に並んで歩いた。『復讐』という言葉の持つ、不吉な響きに静かな胸騒ぎを感じながら。
「そしてある時、一人の男がその剣を握り……、そしていろいろあった末にそれを眠らせるのに成功した……。今はその子孫たちが剣の眠りを守っている……と。」
まるで出来の悪い書物でも読み上げるかのような棒読み口調で続け、クラウスは一旦言葉を切った。
「とまあ、ここまではいいんだ。言い伝えとしてはよくある話だろ?」
言葉ほどには同意を求めるような響きを含ませず、青年は皮肉げに息を吐き出した。軽く開いた唇がどこかやるせない笑みを形作る。その横顔がひどく――昔を思えば彼には似つかわしくない程に――大人びて見えるのは、その顔に刻まれた、揺れる灯の陰影のせいだろうか。そんなことを思いながらリヒァルトは食い入るようにクラウスの顔を見つめた。幼い頃からよく知るこの友人の意図が、今は読めない。かといって口を挟む気にもなれない。形にならない言葉の代わりに、その視線に自分の思いを乗せて話の先を促す。
「もちろん、眠らせるって言ってもそう簡単なものじゃない。いつまでもというわけにもいかないし、代償だってそれなりに必要だ。結局は契約ということになるからね……。この話にだって、ちゃんと続きがある。」
リヒァルトの意図が伝わったためかどうかはわからないが、クラウスは再び淡々と喋り始めた。
「その男から数えて5代の間、剣は刃を収め、平穏は続く。その一族は剣に守られて静かな暮らしを約束される。……できすぎた話だろう?」
かつての坑道は、時おり枝分かれをし、曲がりくねっている。闇へと続く静まり返った道に、二人分の湿った足音と、クラウスの声だけが響く。方向感覚はとっくに奪われて、得体の知れぬ空間へ、否、むしろ見知らぬ過去へさえ誘われているような錯覚を覚えそうになる。
クラウスは現在地を確認するかのように、ちらりと視線を周囲に巡らせた。小さく息を吐いて、再び口を開く。ほんのわずか、自分の唇が震えるのを自覚しながら。
「その代償は……。彼の5代目の子孫、その末の子。100年の平穏の代償としてその子を贄に差し出すのが、剣との契約。」
「でも……。」
思わず漏らした自分の声が奇妙に耳なれないものに聞こえて、リヒァルトは一瞬顔をしかめた。
「それは、あくまで言い伝え……だろ? 贄の話だって、言い伝えではよく聞くし、そんなに珍しくない。」
胸に滲む形のない不穏を抑えるかのように、乾いた声で早口で続ける。なぜか、その話と5年前の出来事にどういうつながりがあるのかと聞く気にはなれなかった。そんなリヒァルトを一瞥して、クラウスは口を開きかけた。が、不意に前方にぼんやりとした光をとらえて口を閉ざした。つられるようにリヒァルトもそちらに視線を向ける。その光は細長い半円、すなわち出入り口の形をかたどっていたが、それは明らかに外の光とは異なっている。
その入り口をくぐれば、そこは今まで歩いてきた坑道からは想像も付かぬ程広く開かれていた。その広間いっぱいに、冷たい張り詰めた空気が満ちている。壁に据え付けられた灯は、どう細工してあるのか青白い光をぼんやりと放つ。そのどこか荘厳で伶俐な雰囲気に気押されて、リヒァルトは瞳だけを動かして部屋の中を見遣った。
中央に置かれているのは、飾り気のない石の寝台。その脇には背の高い祭壇。このだだっぴろい空間に置かれているのは、この二つだけ。あまりに素っ気無いと言えば素っ気無い。しかし、祭壇の上に祀(まつ)られている黒い置き物が目に入った時、彼の視線はそこに釘付けになった。背筋に寒いものが走るのを感じながらも、そこから目を逸らすことはできなかった。無造作に、ただ祭壇の真中に置かれているようにしか見えない。それでも、この部屋の一種特種な、重く鋭い雰囲気を醸す源はこれに違いないと、何故か一目で確信する。
それは天井を仰ぐ不吉な黒い竜の頭の形をしていた。艶やかな漆黒のうろこに映える目は、血に染まったかのような真紅で、恐ろしくも吸い寄せられそうな程の魔性を漂わせている。口を半分開き宙を睨んだその姿は、頭だけとはいえ、今にも動き出しそうだった。
「村の外れに、子どもの入れない洞窟があったろう? ここはそこの奥にあたるんだ……。」
聞き慣れた声にようやく呪縛を解かれ、リヒァルトはクラウスを振り返った。
「あれは……?」
いくぶん掠れた声で、黒い竜を指差す。
「あれは、剣の柄なんだ。さっき話したろう? あれが『復讐者の剣』、魔剣Blood Pain。刃の部分は、祭壇の中で眠っている……。これが、長から聞かされるはずだった『ありがたいお話』だよ。そして、この村の始祖グレイグ・ハサルトから数えて5代目にあたるのは、俺たちの……つまりリッヒ、お前の世代……なんだよ。……わかるだろ? アイリスが特別だった訳。」
その顔から表情を消して、クラウスは一気にそれだけを喋り切った。
「嘘……。」
視線は黒い竜に注いだままで、リヒァルトは呆然と呟いた。けれど、あまりに禍々しい、それでいてあまりに魅惑的な竜の姿は、残酷なまでにはっきりとその言葉を否定している。鳥が空を飛ぶように、つぼみが花を開かせるように、ごく当たり前の、そうあるべきこととしてこの竜は人を喰うのだろう。そこには何の他意も、悪意もなく。そう思わせる雰囲気を、この剣は持っていた。それが一層見る者の背筋を凍らせる。
「……もちろん、さっきのは、あくまで表向きの話だよ。あれでも、ね。まあ、実物を目の前にしたら誰だって気付くだろうけど。」
クラウスは小さく溜息をついて、リヒァルトの方へと向き直った。その焦茶の瞳が、続きを聞く意志があるかと無言のうちに問いかける。リヒァルトは唇を噛み締めて、小さく頷いた。目の前の竜の存在だけでも十分に彼の想像を超えていたけれど、それでも今さら後には退けない。
「そうか……。」
クラウスは再び嘆息した。つと、友人に注いでいた視線を逸らす。
「5年前、ここであったこと、だったな……。」
リヒァルトに、というよりは自分の覚悟を確かめるかのように呟いた。その顔に苦渋の色が浮ぶ。一度軽く瞳を閉じてそれを振り払うと、クラウスは思い直したように唇を開いた。
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