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2、裏切りの真相

「5年前、確か……俺が18になって長さまから『ありがたいお話』を聞いた夜だったよな。」
クラウスはほんの少しだけ皮肉げに微笑んで、ゆっくりと話し始めた。

 話の途中に急に飛び出したレイノルドを、クラウスは反射的に追いかけていた。丸い月が煌々と輝くその下を、長の背中を追ってひたすら走る。何故そうしているのかもわからぬままに、憑かれたように、足が勝手に前へ前へと進んでいく。やがて行く手にぽっかりと深い闇が口を開ける。その脇には呆然と立ち尽くす少年が。
 少年が気になってちらりとそちらに視線を送るが、レイノルドは既に洞窟の中に入っている。今足を止めるわけにはいかない。つい昨日まで彼を拒んでいたはずの闇は、あっけない程にあっさりと、その内にクラウスを飲み込んだ。
 青年の前方に長い影を投げていた銀の光は、とっくに届かなくなった。果てなく続くかと思われる無気味な闇。前を行く足音は、湿った壁に跳ねて二重三重に響き、あらぬ方向から返ってくる。ともすれば見失いそうなレイノルドの背中を一心に睨み付ける。
 ――くっそ、なんだってあんなに速いんだよ。
 息があがりはじめたのをごまかすように、心の中だけで毒づく。それでも何故か胸の中にわき上がる、衝動にも似た不安に突き動かされるようにして、走り続けた。
 洞窟の中に響く、二人の足音。その合間を縫うように、どこからともなくぼそぼそと人の話し声のようなものが聞こえてくる。
『どういうつもりなんだ!この期に及んで!』
 不意に、それまでくぐもっていた声が明確な輪郭をとる。それは、野太い男の怒号だった。相手の方も何か応えているようだったが、そちらは相変わらず聞き取れる大きさではない。
『抜けなくたって構うものか、いつものようにコイツで首を切っちまえばいいんだ。血が出ちまえばそれでいいんだろう!?』
 苛立ちを増した声で、さらに男は言い募っているようだ。その内容の剣呑さに、クラウスは走りながら息を呑んだ。胸騒ぎがどんどん大きくなる。いつしか前を行くレイノルドの黒い背中が見える。その姿を包むように、ぼんやりとした青白い光が前方から射し込んできているのだ。
『とっととやらないと人が来る。もういい、そのガキを寄越せ、早く!』
何かをぶつけたような鈍い音がその声に続く。
 口の中がからからになる。淡い光が揺れながら大きくなる。長の影を飲み込んだそれは、やがてクラウスをも包み込む。

『だいたい、殺ろうと言い出したのはお前の方だろうが、ラトキス!』

 乱暴に投げ付けられた捨て台詞のような言葉は、激しくクラウスの頭を撃った。急に飛び込んで来た光景がぼやけて揺らぐ。ぽっかりと開いた広間の入り口に立ち尽くしたまま、彼は荒い呼吸にただ肩を上下させることしかできなかった。
「これはどういうことだ?」
 穏やかな、それでいて威厳を感じさせるレイノルドの低い声に、クラウスは我に返った。改めて、怒りに顔を赤く染めて拳を震わせている大柄な男と、部屋の隅にうずくまっているラトキスへと視線を向ける。
「どうしたもこうしたも!」
 男は、怒り醒めやらず、といった風情でレイノルドに向き直り、喚き散らした。
「こうするのが正しいんだろう! どうせこうなるのは決まってるんだ! だったら早くやってやる方がこいつの為だろう! こいつは贄になるために生まれて来て、それで俺たちだって解放される、だから……!」
「……。」
 かみつかんばかりの勢いで怒鳴る男を、レイノルドは水面のような深い蒼の瞳で静かに見つめていた。ラトキスは何かを抱えたようにうずくまったままだったが、引き攣った肩が彼がじっと唇を噛み締めていることを物語っていた。
 長の眼差しに一瞬怯んだ男は、次の瞬間にはさらに逆上して、ますます顔を紅潮させた。男が再び怒りに任せて口を開こうとしたその時。クラウスたちが入って来たのとは違う入り口から、軽い足音が響いたかと思うと、小柄な人影が広間の淡い光の中へと進みでた。
「レイシア……。」
「これ……は?」
 軽く目を見開いたレイノルドに応えることなく、レイシアは丁度先程のクラウスと同じように、呆然とした表情を顔に張り付かせた。その視線をその場の面々に、順番に巡らせる。
「……チッ。」
 水を差された男は忌々し気に舌打ちすると、くるりと踵を返してレイノルドとクラウスの横を、足音も荒く通り抜けた。そして、闇の中へと消えて行く。その場の誰もが、押し黙ったままで遠ざかる足音を聞いていた。
「……申し訳、ありません……。」
 消え入りそうな声が、重い沈黙を破る。俯いたままのラトキスの表情は前髪に隠されて、クラウスからは伺えない。青年はゆっくりと立ち上がり、胸に抱えていた幼子をレイシアに差し出した。先程の男に殴られたのだろう、腫れ上がった頬が痛々しい。
「ラトキス……。アイリス……。」
 差し出されるままに幼子を受け取って、レイシアは、沈痛な雰囲気をまとった青年と、人形のように身じろぎ一つしない我が子との間に戸惑いの視線を往復させる。
「……申し訳……ありません。」
 再び顔を伏せ、ラトキスはただ謝罪の言葉を繰り返す。
 レイシアは小さく嘆息して、青年の腫れた頬にそっと手を伸ばした。憂いを浮かべた瞳を軽く伏せて、ゆっくりと首を左右に振る。
「……ごめんなさいね。」
 理由も言わず、哀し気な顔でただ一言だけを囁くように呟く。そして幼子を抱き直し、静かにラトキスに背を向けた。それを見たレイノルドも、無言のままに踵を返す。クラウスにちらりとだけ視線を送って、そのまま闇の中へと歩を進めて行く。
 冷たい空気の漂う、広すぎる空間に二人だけが取り残された。クラウスは未だに、長に聞いた話も、今目の前で起こったことも飲み込めず、棒立ちになったままだった。否、飲み込めないというよりは信じられない、信じたくないという方が正確だろう。
「ラトキスさん。」
 どこか夢見心地のままで、呼び掛ける。自分の声が形になって耳に入って来た途端、急にそれまで漠としていた感情がうねるように動きだし、胸へと突き上げてくる。それを押さえ付けるかのように、白くなる程に拳を握りしめた。
「どうして? なんで、アンタがこんなことするんだよ。……なんでなんだよ。」
 兄のように慕っていた青年を視界に入れるのが苦しくて、クラウスはラトキスに背を向けて俯いた。
「なんで……なんだよ。」
 それが相手に対してか、自分に対してかわからないままに、ただ同じ言葉を繰り返す。
「クラウス……。俺には、言い訳をする資格など、ないんだよ。」
 背後から返って来た沈んだ声は、静かな諦念を含んでいて、それがなんともいえずやりきれない思いをクラウスの中に引き起こした。
「俺だって、言い訳が聞きたい訳じゃない。理由が知りたいんだよ。なんでアンタが、よりによってアンタが、こんなことしなきゃいけないのか。このままじゃ納得できない。俺だって、多分リッヒだって、アンタのこと……。頼りにしてたのに……。」
 裏切られたような思いと、それでもまだ信じていたい気持ちと。ぐるぐると渦巻く感情を持て余して、クラウスはぼんやりと光を跳ね返す床を睨み付けた。

 クラウスの後ろで、ラトキスは何度か躊躇いがちに口を開こうとしたらしかった。やがて、思いきったように立ち上がったらしく、静かな衣擦れの気配が伝わってくる。
「……長さまから魔剣の話は聞いたのかい?」
 ずいぶんと考えあぐねた挙げ句、ゆっくりと口を開く。
「聞いたよ。アイリスが贄だってことも聞いた。」
 ぶっきらぼうともとれる口調で、クラウスは答えた。「それでも……」と続けたい気持ちを必死で抑え、変わらず床の一点を睨み付ける。
「そうか。」
 ラトキスは短く答え、嘆息した。そしてしばし沈黙する。言葉を探しているかのように。
「ここの魔剣……。これが眠っているなんて嘘なんだよ。いや、台座から抜けるわけじゃないから、眠っているといえば眠っているんだろうけれど。いや、それはどうでもいいんだ。とにかく……、この魔剣は人の血を啜るんだ……。今、この状態にあってもね。クラウス、覚えてる? ここが何に使われているか。」
「……覚えてるよ。」
 あの日の雪の冷たさ、懸命に泣き顔をこらえていた幼い少年の健気な表情、そしてぽっかりと開いた闇の中に吸い込まれて行った葬列。忘れるはずもない。自分をも可愛がってくれた、幼馴染みの父親の葬式。子どもだった自分たちが立ち入ることのできなかった深淵が、まさにここだということは、この空間中に立ち篭める湿った緊迫感が無言のうちに主張している。
「ここではね……。」
 青年の淡々とした口調が、乱れて途切れる。小さく息を吸う音が、わずかに震える。
「魔剣に、死者の血を、捧げるんだ……。竜の口に、死者の血を注ぐ……。これが、この村の葬儀。」
それでも次に紡がれた言葉は、驚く程に無機質で冷たくて、その内容と口調がクラウスの背筋を寒くさせる。
「俺が成人してすぐに、アンドルフさんが亡くなって……。俺は初めて葬儀に参加したけれど……。あれは、あのおぞましさは、実際に立ち会った者でなければわからないよ……。とても子どもに見せられるものじゃない……。」
「……。」
 聞きたくないとどこかで思いながらも、それを口にする気にもなれず、クラウスは固唾を呑んだ。暑くもないのに、汗が一筋額を伝う。
「そう……。あの子だけが贄なんじゃない。この村の者皆が贄なんだよ。あの魔剣が血を欲する時に死者が出る、そんな噂さえ……、ううん、噂じゃない、少なくともみんな心のどこかでそう信じている。自分が魔剣に呼ばれることを、皆恐れている。だからあの子を捧げさえしたら……、この刃で貫きさえしたら、解放される、救われると、そう思っているんだよ。」
「それは……。」
 アンタもそう思うのか?
 そう聞こうとした言葉は、掠れて形にならなかった。おそるおそる視線を向けてみれば、細身の青年もやはりこちらに背を向けたままだった。
「初めて、交易でラグーシャの村に行った時、思ったんだ。なんてあけっぴろげなんだろうって。なんて、自由なんだろう。なんてさばさばして明るいんだろう、って。そして、同時に、この村に満ちている閉塞感のようなものに初めて気付いた。……それでも俺は、この村が、自分の生まれて育った村が……好きだったよ。自分にできることなら、守りたい、とそう思ってる。だから……。」
 わずかに揺れる青年の背中を、クラウスは唇を噛み締めたままで見つめていた。
 納得できない、間違えてる……。抗議の言葉はいくらでも胸の中に生まれてくるのに、せき止められたかのように喉でつっかえて出てこない。そんなクラウスの心中を知ってか知らでか、ラトキスは淡々と言葉を続けた。
「だから……、あの子が羨ましかった。たとえ幻想かもしれなくても、この村を守れるあの子が、羨ましかった……。いや、違うな……。きっとそうじゃない……。」
 すっかり表情の消えていた声に、不意に苦渋の色が滲む。
「俺は……。嫉妬していたのかもしれない……。魔剣が選んだ……望んだ、あの子に。たぶん……、そうなんだろう……。」
「嫉妬? 馬鹿な!」
 信じがたい言葉を耳にして、クラウスは思わず裏返った声をあげた。が、ラトキスの方は再び抑揚のない声で、宣告するかのように続けた。
「いや……。俺だけじゃない……。この村の大人は皆……、この魔剣に囚われてる。魅入られて……いるんだ。それに気付くのを怖れて……、早く決着をつけたがっているんだ。」
「馬鹿……な。」
「本当……なんだ。覚えておくといい……。だからといって……、言い訳になるとは……もちろん、思ってない。実際にできなかったとしても……、許されることじゃないと……わかってる。あんなに……小さくて、罪のない……、何も知らない子を、手にかけるなんて……。だから……、だから、最初から……こう……すれば、よかった……んだ。」
 不意に、語る声が、弱々しく、消え入りそうになって、クラウスは弾かれたようにラトキスを振り向いた。不吉な予感が胸の中一杯に膨れ上がる。血の気の失せた青年の顔を見、朱に染まったその手首を見て、思わず息を呑んだ。
「な……何をしてるんだよ。やめ……。」
 青白い光に浮んだ白い肌から流れ出る鮮やかな赤に、目が釘付けになる。それは自らの意志を持つかのように盛り上がり、淡い光を跳ね返しては静かに、それでも勢い良く流れ落ちる。そして、その下で待ち受ける黒い竜の口の中へと吸い込まれて行く。当の青年は、それを生気を感じさせない鳶色の瞳でただ眺めていた。
 何故、気付かなかったのだろう。胸のうちに呑み込んだ鉛のような重感に負けて、青年からずっと目を逸らしていた自分を呪いながらも、クラウスはそこから動けなかった。一定のリズムで静かに流れ落ちる艶やかな濃い赤色に、それを受ける漆黒の竜に、こころなしか細めているようにすら見えるその真紅の瞳に、呪縛されたかのように。
「早く……。血を止めないと……。」
 乾いた言葉は、高鳴る動悸の上をただ滑って行く。
「いいんだ……。これでいい……。いつも葬儀の時にするように……この竜のうろこで切ったから……、この血は止まらないんだ……。」
 ぞっとする程に穏やかな口調でそう言って、ラトキスは微笑んだ。悔恨と、悲哀と、安堵の混じった、微かな微かな微笑み。
「やめて……、やめてくれ……。頼むから……。」
 誰に向けているかさえもわからないままに、クラウスはただ懇願の言葉を繰り返した。それが何の力も持たない、ただの音に過ぎないことを、嫌というほどに肌で感じながら。
「済まない、クラウス……。お前が、羨ましい。自分の心に……いつでも素直な、お前が……。俺は、弱かったよ。何も、できなかった……。リヒァルトにも、本当に酷いことをした……。済まない……。頼むよ、あの子のこと……。」

「……。」
 リヒァルトは、押し黙ったままで床を睨んでいた。あたかもそこに過去を映し出そうとしているかのように。話を終えたクラウスも口を閉ざしたままで、その横顔を見つめていた。理解が追い付いていないわけではなく、ただ納得できないのだろう。クラウス自身にも、まだ納得がいかない。魔剣のことも、ラトキスが先走った訳も。けれど、成長した幼馴染みの横顔を見ていると、確信は持てないながらも、一つだけ思い当たる考えがあった。血統からいえば、次の村長はリヒァルトになる。そうなると場合によっては、彼が自分の手で妹を殺さなければならないかもしれない。あの聡明だった青年なら気付いていただろう。誰よりも細やかな感性を持ち、思慮深い人だったから。
 クラウスは小さく嘆息した。今となっては確かめようもないことだし、彼の前で口に出すべきことでもない。
「リヒァルト……。戻ろうか。」
 小さく告げられた言葉は、青年の耳を素通りした。リヒァルトの脳裏には、初めて妹を見た時のことがまざまざと蘇ってきていた。生まれたばかりの赤子を取り巻いた村びとたちの高揚した様子。幼い存在に向けられた、むせかえるような熱気と、残酷な期待と、悪意のない殺意。彼女が生まれなければ、それは自分に向けられていたはずのもの。そう気付けば、耳もとに女の捨て台詞が蘇る。
『その子に感謝するんだよ。その子はお前の……。』
「身代わりだ、というのか……。」
 呻くように漏らした声はあまりに苦くて、リヒァルトは唇を噛み締めずにはいられなかった。

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