鈴蘭


 昨日までの雨の湿気を残した初夏の風。海辺の見える丘。涼やかに揺れる鈴蘭の花。そして寄り添うように墓碑に刻まれた、2つのしゃれた字体の名前。
 それはまさしく「絵に描いたような」と評すべき光景だった。欺瞞に満ちたあの人たちに相応しい、胸の悪くなるような虚飾の取り合わせ。あの人たちは最期まで、自分たちの死ですら、美しく装ったのだ。「純潔」の花言葉持つ可憐な振りをした毒草で。
 −−どうしてこんなところに来たんだろう。
 ただうんざりするだけなのは判り切っていたことなのに。湿った風に嬲られて、首筋にまとわりつく髪の毛がうっとうしい。潮の混じった風は、ざらりとしてべたつく。
 −−髪、傷むかな。後でトリートメントしとかなきゃ。
 そんなことを考えていることに気付いて、ふと可笑しくなって自嘲の笑みを浮かべる。もうそんなこと、気にしなくてもいいのに。ついでに毎日時間をかけてブローする必要も、神経質に爪を磨く必要も、声色を使ってオヤジに媚びる必要も、もうない。少し前までは自慢だった、栗色に染め上げた髪をかきあげながら、私は再び墓標に目をやって溜息をついていた。

 自ら教師の手本を体現しようとしていた父。自分を敬虔なクリスチャンだと思い込んでいた母。教科書のような夫婦と言われた両親。いつもいつも世間体ばかりを気にしていた二人は、家の中では一言も口を利かない、文字どおりの仮面夫婦だった。いつもお互いの存在が見えないかのように振るまい、家の中には常に冷たい壁のような空気が張り詰めていた。外から見れば文句のつけようもない立派で円満な家庭、それでいて中身は針のむしろ。そう、まるで「鉄の処女」のような。
 そのくせ両親ときたら、娘に文句を言う時だけは、この上ないコンビネーションを見せて一致団結した。娘のためを思って、時には声を荒げながら道を説き、切々と諭す親を演じながら、その実、自分達の幻想を壊すモノを目の色変えて撲滅しようとした。
 小4で、学校に行きたくなくて、お腹が痛いと嘘をついた時。中2の春、髪を茶色に染めた時。同じ年の夏、耳にピアスを空けた時。夜が明けるまで家に帰らなかったのはいつだったか。あの人たちの目の前で父のタバコに火をつけて吸ってみせた時。あひるの泳いでいる通知表を持って帰った時。他にも、数え上げればキリがない。
 そして最後のが、万引きが見つかって警察でこってりしぼられた日。警察では青くなったり赤くなったりしてただぺこぺこと頭を下げていた父親は、家に帰るなり顔を真っ赤にして怒鳴り付けた。
『あんな恥かかせやがって! お前なんかもう娘じゃない、勘当だ! 出て行け!』
と。その後ろで、母はただおろおろしていた。
 必死で守ってきた脚本を壊されて、激怒した父と、さっさと自分を被害者に位置付けた母と。そんな二人に私が向けられたのは、侮蔑の冷たい眼差しと嘲笑だけだった。直後、私の頬が高い音を立て、もはや形だけしか残っていなかった「家族」は、完全に崩れ落ちた。

 あれ以来、一度も戻ったことなどなかったのに。両親が死んだと風の噂に聞いた時にも、帰らなかったのに。何故私は今こんなところにいるんだろう。
 自分でも気付かないうちに、右手がセブンスターを一本取り出していた。その動作に、自分のいらだちを自覚する。苦笑しながらも、逆らうでもなく口にくわえ、点火する。独特の苦味のある重たい煙が肺にしみこみ、じんわりと少しだけ心が麻痺していく。偽りの安堵。あの日、ただ親に欺瞞を見せつけてやりたくて吸いこんだ煙は、いつしかすっかり私の肺に染み付いていた。
 吐き出した煙は、初夏の空にほわりと昇り、わずかに揺れて霧散する。思わず見上げて目を細めた。
 −−自由に、なりたかっただけなのに。
 お客を取り合って、女同士で骨肉の争いを繰り広げるぎすぎすした世界に嫌気がさしたのは少し前。ただ上辺だけを装って、そこに必死に自分の価値を存在意義を塗り込める生活は、両親のそれと変わらないことに気付いてしまうと、もう我慢はできなかった。お店を辞めて、ただぶらぶらと気の向くままに彷徨いたかっただけなのに。気がついたら足はここに向いていた。

「おやぁ、戸田さんとこのりっちゃんじゃないかね。」
 突然かけられた声に思考を中断されて振り返ると、いかにも話好きそうな、初老の域に足を踏み入れかけたような女の人が立っていた。以前、近所に住んでいた人なのだろうが、誰か思い出せない。むしろ、知らないのかもしれない。どちらにせよ、私の嫌いな人種であることには間違いない。
「やっぱりそうさね。帰ってきてたんやね。えらい大きゅうなって、美人になったねぇ。」
 もちろん、私には帰って来たつもりなんか、これっぽっちもない。私が不機嫌な顔をしているのにも構わず、彼女はにこにこと馴れ馴れしい笑みを浮かべながら勝手に話し続ける。
「けどまあ、小さい頃は、ようお母さんに鈴蘭のアップリケ入れてもろた服着とったもんねぇ。鈴蘭みたいにかわいい言うて近所中の評判やったけど。」
「おばさん。」
 ただ黙って聞き流しておけばよかったのかもしれないけれど、あまりにイライラして、私は思わず顔を歪め、棘のある言葉を吐き出していた。昔とった杵柄、というやつかもしれない。
「知ってる? 鈴蘭には毒があるんだよ。」
 よりによって鈴蘭とは忌々しいにも程がある。あの人たちのこよなく愛した欺瞞の花だなんて。吐き捨てるように言いおいて、再びセブンスターの煙を強く吸い込んでいた。のどをかるく焼いて、やくざな煙が片時の安らぎを運んでくる。
「そうさねぇ。そうやって身守ってるんやねぇ。健気やねぇ。」
 私の口調に含まれた毒に気付かなかったのだろうか。彼女はまったくのマイペースで、勝手にどこかしみじみとした口調で、誰か遠い人にでも向かって言っているかのように呟いた。
「……。」
 彼女が何を言いたかったのか、わかったわけではない。けれど何故か、ぽっかりとどこかに穴があいて、そこにタバコの煙と一緒に、言葉や苛立ちが吸い込まれていくような気がした。
「たまには帰っておいでやぁ。みんな喜ぶからねぇ。」
 相変わらず、彼女は私の都合などお構いなしににこにこと笑うと、そのまま去って行ってしまう。
 いつしか長く伸びていたタバコの灰がぽろりと落ちた。そのままぼんやりと立ち尽くしていたことに気付き、苦笑する。ついでに携帯用灰皿を取り出して、タバコの火を揉み消した。誰に似たのか、私は妙なところでモラリストだ。
 なんだか、何故ここに足が向いたのか、少しだけわかったような気がした。ここはきっと、私が知らなかった私と、それを見ていてくれた人が静かに息づいている街なのだ。
「……ただいま。」
 なんとなくそんな言葉が浮んできて、丘を渡る風に小さい声で呟いてみた。葉の上に露を乗せたままの鈴蘭が、頷くように小さく揺れた。  






あとがき
きりこさまに3500thヒットの記念にリクエスト頂きました。ありがとうございます。
さて、「梅雨の合間の晴れ空のような」話にできたどうかはかなり怪しいのですが……。
からりと晴れた梅雨の中休みよりは、ほんの少し覗いた湿った青空、といった風情になっている……ととっていただければ幸いです。
昨日は雨、明日もまた雨が続くのかもしれない。けれども今この時だけは、確かにほんの少しだけ晴れていた……。

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