砂時計


「ただいま。」
「おかえりなさい。」
 いつものように仕事から帰ると、いつものように妻が出迎えてくれる。
「……おや。」
 いつもと違うのは、テーブルの上に置かれていた小さな銀色の砂時計。戯れにひっくり返せば細かい砂がさらさらと零れ落ちる。
「ああ、それ?いいでしょう。」
 流しで夕食の支度をしていた妻は、私の呟きに振り向くとにっこりと笑った。
「今日ね、歯医者さんに行ってきたんだけど、型をとる時にね、『固まるまでお待ち下さい』って言って砂時計置いて行かれたのよ。なんだかそれ見てたらいいなぁって思って。で、帰りにデパートに寄って買って来ちゃった。」
「ふぅん。カップラーメンの時間でも計るのかい?」
 私の不粋な一言に、妻は「もう、デリカシーないんだから」と頬を膨らませた。
「なんだか見ていると癒されるような感じしない?」
「癒し系ねぇ……。砂時計と言えば子どもの頃、歯磨きの時にお袋に『砂が落ちてしまうまでずっと磨いてなさい』って言われた記憶ぐらいしかないなぁ。早く落ちてしまわないかと上をとんとん叩いたもんだよ。」
「ふふふ。目に浮かぶわ。そして『やり直し』ってまたひっくり返されたんでしょ?」
「……。」
 妻とは結婚してまだ三年程だが、付き合いは物心ついた頃から二十年以上になる。いわゆる幼馴染みというやつで、ごく幼少期のことを知られているというのは時にちょっとやりにくい。
「ほら、小さい頃によくお砂遊びしたじゃない。砂を振るってサラサラにして、両手ですくってさらさらと零して。きっとそういう体験を思い出して癒されるのよ。」
 オリジナルなのか奥様番組の受け売りなのかはわからないが、妻はまことしやかに言って得意げな顔をした。
 確かに言われてみれば、砂のたてる乾いた透き通った音は、小さい頃の砂遊びを思い出させるものがある。細かな砂が指の間を通り抜ける心地よさ。山とすくった砂の中央が窪み、穴が空いた時のなんともいえない寂しさ。
「小さい頃といえばねぇ、こないだ押し入れの中を整理していたら小学校の時の文集が出てきたのよ。あなた、あの頃はプロ野球選手になりたいって書いてあったわよ。」
「ああ……。そんな時もあったかな。」
 妻は非常に記憶力が良いのか、昔のことをあんなこともあったこんなこともあったとよく持ち出してくる。が、当の私はといえば、指摘されればそんなこともあったかと思い出すのだが、どうもしっくりこないというか、生き生きとした感情や体験が蘇ってこないのだ。
 確かに文集の将来の夢の欄に「プロ野球選手」と書いたのは思い出せるが、プロ野球選手へのあこがれ、夢を書く時のときめきといった当時の気持ちは、全く思い出せない。
 記憶を辿っていけば確かに辿り着く。でも辿り着いたところに目指していたはずのものは見当たらない。ちょうどそんな感覚。
 それは蜃気楼だけを残して、あたかも指の間から砂が零れ落ちて行くかのように、いつの間にか私の心をすり抜けて行ったのか。
 いつのまにか私の手の中から消えていた想い。否、想いだけじゃない。実現しなかった夢、辿らなかった道、選ばなかった可能性。
 今この瞬間にさえ、きっと私の指の間からはいろいろなものが零れ落ちているのだろう。これまでに零れ落ちていったものが今の私を形作っているように、次の私をつくり出すために零れ落ちて行く。
 零れ落ちるものと、残るもの。
 目の前では小さく砕けた時間の粒子がさらさらと落ちてたまって行く。私の指の中をすり抜けて行った細かな細かな想い出の粒子は、どこか心の遠い片隅に静かにたまっているのだろうか。
「ほら、やっぱりあなただって気に入ってるんじゃない。」
 最後のひと塊の砂を落とした時計をひっくり返すと、妻がからかうように言って私の前に料理の皿を置いた。
「ん……、まあそうなのかな。」
 思わず苦笑まじりに答えると、それを負け惜しみととったのか、妻はくすくすと笑った。それを見るとふと懐かしい気持ちにとらわれる。妻のこの柔らかな笑顔は、昔から、ずっと昔から、変わらない。
 それはきっと私の心から零れ落ちずに残ったものなのだろう。
 さらさらと音を立てて流れる細かい砂の粒が、ほんの少しだけ輝いたように見えた。








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