サクラ


 桜の夢を見て、目が醒めた。
 散る前なのか、それとも散ってしまった後なのか。それさえもわからない程、映像と呼ぶにはあまりに曖昧な、薄桃色のもや。思い出そうとすればするほどに、それは漠として遠ざかり、薄れていく。
 何だろう。胸をかきむしりたくなるような、歯がゆさにも似た妙な感覚を抱いたまま、私はそっと目を開けた。
 すぐに焦点を結ぶのは、薄暗い、皮でできた天井。身体を起こせば、部屋の中央にある無骨な鉄製のストーブが目に入る。全くもって、いつもと変わらない光景。もうすっかり見慣れたはずのそれに、どこか一抹の新鮮さを覚えて、思わず苦笑を漏らす。

 ゲルと呼ばれる遊牧民特有のテントを出ると、身を切るような冷たい風が吹き付けてくる。思わず衣服の前をきっちりと合わせ、肩を竦めた。
 足元に広がる草原は、ところどころに雪を残し、枯れ草色の中にほんのわずかの新緑をのぞかせて果てしなく続く。はるか遠くには、空を覆う灰色の薄い雲に頂きを隠した山裾が青く煙る。見渡す限り、薬にしたって、薄桃色などあろうはずもない。
 この隠れる場所もないような見慣れた光景に、私は何を探していたのか。ふとどこか儚い期待を抱いていた自分に気付いて、再び苦笑を漏らした。
 ――戻ろう。おそらく、もうすぐ移動も始まるはずだ。やることはたくさんある。
 そう思って踵を返せば、いつしか目の前に妻が立っていた。先程の私と同じように、鮮やかな民族衣装の裾をきっちりと合わせ、首を竦めてほんのわずか、笑う。荒い風に晒されてよく焼けた顔の中で、黒い瞳が子どものようにきらきらと輝いた。
「フルサトを思い出していたの?」
「ん? いや、まあ……。」
 彼女の口から出るこの言葉に、いつもながら感じる違和感を覚えて、私は曖昧な返事を返した。
 妻にこの言葉を教えたのは私だが、いつもいつも、彼女がこの言葉を口にするたびに、私はどこか居心地の悪い思いがするのだ。ひとところに住んだことのない彼女の言うフルサトからは、私がその言葉から連想するほの甘い柔らかさを吹き飛ばす、草原の風の匂いがする。
「また、空の向こうを見てたじゃない。」
 私の曖昧な態度がおかしいのか、くすくすと笑いながら彼女は言葉を重ねた。
「そう……だったかな?」
 その勘のよさに内心舌を巻きつつも私が平静を装うと、妻は不意に笑うのを止めた。真顔に戻って、ぽつり、と独り言のように小さく呟く。
「……戻りたい?」
「まさか。私はここの生活が気に入ってるよ。」
 ここで「還る」という言葉を使わないのも、彼女たちの生活ゆえなのだろう。
 そんなことをぼんやりと考えながらも即答すると、妻は安心したように無邪気な笑みを覗かせた。
「そう。よかった。」
 それを見て、私は彼女に気取られないよう、こっそりと苦笑を浮かべる。
 この草原に魅入られてここに留まるようになってから、もはや10年は経つし、上の息子は7つにもなる。不思議とその間、還りたいと思ったことは一度もなかった。
 最初のうちこそ、故郷の様子をこの地の人にことあるごとに語って聞かせていたが、いつしか草原の風に吹かれて風化していくように、故郷の街並も、匂いも、知人の顔さえもはるか彼方に消え失せて、もはや思い出すこともできない。郷愁をかきたてるにはあまりに希薄すぎる、故郷の記憶。
 乾いた風にも、果てない草原にも、共に旅をする家畜たちにもすっかり馴染み、妻も子どももここにいる今、還りたいなどと思うはずもない。けれど。
 では、なぜあれが桜だとわかるのだろう。あんな漠然とした淡い影に過ぎないのに。
 桜の木にしても、他の記憶と変わらない。覚えているのは、故郷のどこにでも見られたことと、出逢いと別れの季節に、一斉に花を咲かせていたことだけ。枝振りも、花の形も、幹の様子も、朧げにすら覚えていない。なのに毎年、この時期になると夢にあらわれる、形のない薄桃色のもや。

「あら、雪ね。」
 目を細めて空を見上げていた妻が、不意に呟いた。彼女の掌に舞い降りたひとひらの雪は、音もなく溶けて消える。
「この雪は積らないわね。……もう、春ね。」
 溜息まじりに続いた声に、いくばくかの感慨が宿る。
「ああ、そうだね。」
 私はほんのわずか微笑んで、妻の言葉に頷いた。年々淡くなる桜色の夢に、毎年私は、故国より遅いこの地の春を知る。
 改めて、妻の隣で灰色の空を見上げてみた。ふるさとに咲き散る花を思わせて、乾いた風に淡雪が舞う。 




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 この作品は突発性競作企画『桜』に参加しています。

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