しとしとと、細い雨が降る。
少女は先程からずっと、窓際にはりついていた。銀に煙(けぶ)る外の景色を、飽きもせずに眺めている。軽やかなリズムを刻みながら降る雨は、ところどころに残った雪を溶かして、この雪深い地方にも春を運んでくる。遠くに見える濃い灰緑の針葉樹の森も、近くで見れば新芽を膨らませ始めているのだろう。見下ろした枯草色の大地にも、よく見ればところどころ、ぽつりぽつりと若草色が芽吹いている。
それでもやはり、空気はひんやりとして冬の気配が色濃く残っている。室内では、相変わらず暖炉が赤々と燃えて、部屋を静かに暖めていた。
青年はソファに座ったまま、少女の方をちらりと見遣り、視線を正面へと戻す。小さなテーブルの上では、コゼーをかぶったティーポットの横で、砂時計が時を計っていた。彼は、紅茶の味にはうるさい。一杯目の抽出時間は正確に計るに限る。
「ね!」
「ダメ。」
唐突にかけられた弾んだ声を、青年は即座に却下する。視線は砂時計に注がれたまま。もうすぐ、砂が全て落ちる。
「……。」
振り向かずとも、満面の笑みを浮かべていたであろう少女が、みるみるうちに頬を膨らませるのがわかる。
「まだ何にも言ってないっ!」
少女がたいそうご立腹の様子で抗議するのも黙止して、青年はポットへと手を伸ばす。ちょうど砂は全て落ちたところだった。
二つ並べたティーカップに、静かに紅茶を注ぐ。ほわりと香り高い湯気がのぼり、白い陶器の肌を鮮やかな紅の液体が満たしていく。ぽたり、と小さな艶めいた音をたて、最後の雫が琥珀の水面を揺らす。
「紅茶、入ったよ。」
にこり、といつもの笑みを浮かべて、青年は初めて少女に顔を向けた。未だ怒り収まらず、という顔をしていた少女は、一瞬どんな表情を浮かべて良いかわからずに、唇をぱくぱくと動かした。青年がくすりと笑ったのを見て、彼女は再び頬を膨らませたが、素直に青年の隣に座り、紅茶のカップに手を伸ばした。が、何度かカップの縁に唇を触れはするものの、中身を口に含もうとはしない。猫舌なのだ。
青年は、そんな少女を横目に見ながら、熱い紅茶を一口、喉に流し込む。少女は少し恨めし気な視線を青年に向けて、琥珀の水面をそっと吹き冷ます。そんなに熱いのがだめなら、最初から氷を入れるなりすれば良いのだが、彼女はいつも青年と同じものを欲しがった。結局、彼が二杯目を自分のカップに注いだ頃に、少女はゆっくりと紅茶を飲み始める。
「どうせ、外に行って雨に濡れてみたい、とか言おうとしたんだろ?」
少女が一杯目を飲み終えるまでをゆっくり待ってから、青年が口にした言葉はどうやら図星だったらしい。少女は憮然とした顔を彼に向けた。
「今の雨はまだ冷たいから風邪をひく。だから、ダメ。」
全く、身体弱いんだからもう少し自覚があっても良いものを。いつぞやの雪の二の舞いはごめんだ。
青年は少し苦い顔をしながら、続きの台詞は呑み込んだ。言葉が過ぎるとロクなことにはならない。
「むぅぅ……。」
少女は唇を尖らせて、毛足の長い絨毯の床を爪先で蹴飛ばした。
「じゃ、カインが遊んで。」
「……はいはい。で、何を致しましょうか、姫。」
やっぱりこう来るか。青年は苦笑を浮かべ、わざとらしく応じる。さすがに今回は、ぱっと少女の表情が変わる程の効果はなかったけれど、多少は彼女の機嫌を直したらしい。
「えとね……。あ、あれがいい。」
少女は唇に2本の指をあて、考え込むように部屋の中を見回したが、すぐに暖炉の横においてあったチェスボードに目を留めた。
「やったことあるの?」
「ない。やり方わかんないから教えて。」
「はいはい。」
青年は残った紅茶を飲み干してから、ゆっくりと立ち上がる。チェスボードをテーブルの上に置き、少女の正面へと席を変えた。
「……やっぱり、それ、今度でいい。」
少し首を傾げて思案顔になっていた少女は、少ししおらしげな口調で、それでも気紛れな我が侭を口にした。
「そう? どうかした?」
もともとチェスにこだわりもない青年は、あっさりとそれを引っ込める。
「……カインの横がいい。」
少女はやや顔を伏せて、はにかんだように、ぼそぼそと小さな声で呟く。
「何? 聞こえない。」
青年のちょっとした意地悪に、少女はみるみるうちに色白の頬を桜色に染める。
「……カインの横がいいのっ。」
拗ねたように言い捨てて、少女はぷいっと横を向いてしまう。その様子にまたまた苦笑を漏らしながらも、青年は少女の隣に腰を下ろして、少女の細い肩をそっと抱き寄せた。
「これでいい?」
「……ん。こっちの方がずっといい。」
一瞬目を白黒させた少女は、次には青年の肩に頭を預けて、そっと瞳を閉じた。柔らかい亜麻色の髪が、軽やかな音をたててこぼれる。
−−まるで幼い子どもだな。
言葉には出さず、青年は軽く嘆息する。
少女は、時折ひどく子どもじみた言動をとる。ただでさえ幼く見える外見にすら、似つかわしくない程。 彼女の素性を知らない者なら、憐れみの視線を向けながら「微笑ましい」と評するかもしれない。 彼女の素性を知る者なら、呆れ返って言葉を失うか、あるいは彼女を嘲笑うだろう。
永年続けてきた生き方を変える、というのはどのようなものだろう。おそらく周囲の世界は一変する。色も、匂いも、感覚も、全て。ある意味、彼女は本当に幼子なのだとも言えるのかもしれない。
「……おねむだったりする?」
「違うもんっ。眠たくなんかないもん。」
青年のからかうような口調に、少女はぱっと顔を上げて抗議した。その尖らされた唇に軽く口付けると、今度はさっと頬を朱に染めて、青年の胸元に顔を埋めてしまう。
「いい加減慣れてもいいのにな。」
少女に聞こえぬよう、小さな声でひとりごちて、青年は窓へと目を遣った。
濡れたガラスの向こうで、命を育てる柔らかな雨が、静かに降り続いていた。
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