淀みの澱


 光輝く人生を送るはずだった。他人の羨望と嫉妬の眼差しを浴びて、出世コースを歩むはずだった。金と権力を手に入れて、はるかな高みから凡人たちを見下すはずだった。
 そのために、裏の世界とも人脈を作り、汚いこともやってのけた。一方で帳簿に細工して政治家に回すカネをひねりだし、何かと便宜をはかってきた。私のおかげで会社は政治家とも繋がりをもてたし、腹黒いセンセイたちは私腹を肥やし続けた。
 黒い手段であることは百も承知だった。時にはそのために他人を道具に使ったり、踏み台にしたこともあった。それが、会社に利益をもたらすためにも、私自身の人脈を増やすためにも、どうしても必要なことだったのだ。事実、私ほど会社に貢献した人間はいないし、政治家たちに必要とされた人間はいないはずだった。
 なのに、どこに落とし穴があったというのか。
「ねえ、お兄さん、よってかない?」
 不意に割り込んできた野太い、身の毛のよだつような猫なで声が、私の足を止めていた。
「不機嫌な顔してどうしたの? わかった、女とケンカしたんだ、図星でしょう?」
 厚化粧をして派手な女物のスーツに身を包んだ男が、「女のことなんて忘れさせてあげるわよ」と下品にしなをつくってウィンクを寄越した。
 私は不機嫌にその男を睨み返すと、こみあげてきた罵声を呑み込んで、無言で歩を進めた。男はまだ何か後ろの方で叫んでいたが、私はさっさと足を速めてそれを振り切った。男はすぐに他の客を見つけたのだろう、あの胸の悪くなるような猫撫で声で客引きをする声が耳の端にひっかかる。
 ほんのわずかばかりの安堵を覚えて、私は小さく息を吐いた。が、あの不愉快なオカマのせいで、わずかに身体に回ってくれていた安酒の酔いが醒め、すっかり私は現実に引き戻されていた。溢れんばかりの騒音や、けばけばと目に刺さるようなネオンの洪水、鼻にからみつくヘドロのような独特のすえた匂いが容赦なく私の中に入り込んできて、今私がいる場所がどんなところかを否応なく示していく。
 本当なら、絶対に縁がなかったはずの、底辺の吹きだまりのような場所だ。
 どうして、どうしてこんなことになったのだろう。吐き気にも似た黒い塊が胸の奥から込み上げてくる。
「どうしてか知りたいの?」
 不意にかけられた声に目をむけると、ごみごみした汚い路地の隅に小さな机を出していた占い師だった。てらてらと光る布をかけられた机の上に置かれた水晶玉やらコインやらカードやらが、一種怪しげな雰囲気を作り出していたが、もっとも異様な空気を作っていたのは、その占い師の女自身だった。深い紫の布で頭と口元を覆い、唯一覗いている目には不敵な笑みのような光が灯っている。
 何とも薄気味の悪い女だ。そう思い、立ち去ろうとしたものの、何故か足は根が生えたように動かなかった。そんな私の心のうちを見て取ったかのように、今度は女ははっきりとその瞳に笑みを浮かべた。
「お代はいらないわ。会社をクビになったせいで、金欠なのでしょう?」
 その言葉に、カッと頭に血が昇るのを覚えた。が、同時に背筋がすっと冷えていくのも感じる。唇と手足が細かく震え、掌にはじっとりと汗が滲んだ。心臓は狂ったように脈打ち、身体中の血の巡りがおかしくなってしまったかのようだった。
「まあ、お座りなさい。」
 どこかからかうような響きの女の声に、私の身体はいつしか従っていた。ふと、机の上に置かれた鏡に映った顔を見て、これは誰だろう、と疑問が脳をよぎった。頬がこけ、ぎらぎらと剥いた白目はすっかり血走っている。これは私ではない。断じて私ではない。
「認められないのね。自分が会社から捨てられた事実が。」
 嘲笑にも似た響きを含んだ女の声が、どこか遠いところから降って来るように聞こえた。
「何を!」
 思わず言い返せば、女は今度は哀れみを込めた眼差しを私に向けた。
「可哀想な人。何が大切かを見失って、自分の立場を見失って。偽りの栄華を本物と錯覚して、酔いしれているうちに、最後は全ての責任を押し付けられて使い捨てられる。なのに、自分では未だにそれに気付かない。」
「やめろやめろやめろやめろ!」
 歌うように続ける女の言葉を遮ろうと、私は首を振って叫び続けた。
「あるはずがない、そんなこと、あるはずがない、あるはずがない!」
 ぐるぐると視界が回る。切れそうな喉から絞り出された叫びは、いつしか私の意識を離れて、ただの意味のない音になっていた。
「いいえ。次はあなたに順番が回ってきただけよ。あなたが昔、私にしたように。覚えているかしら?」
 冷ややかな女の声は、それでも突き刺すように私の頭へと入り込む。おそるおそる顔をあげると、露わになった女の顔が、じっと私を見詰めていた。
 見覚えのない顔だと思ったのは一瞬で、次の瞬間には引き起こされたように当時の記憶が蘇ってくる。そう、昔、とある政治家に回した女だ。その政治家に異常な性癖があるのを知っていて、それでも女を騙して無理矢理行かせたのだ。会社の利益と私の人脈のために。
 どくん、と身体中で激しく脈が鳴り始めた。心臓が身体中を駆け回っているかのように。そして、身体中の毛穴からは冷たい汗が一気に吹出した。
 そう、確かその女は自殺したはずだった。後のマスコミ対策も私がしたはずだ。そのおかげで私は当時、自分の地位を大幅に上げたのだから。
「あるはずがない……。こんなこと……。」
 勝手に口から漏れた声はどうしようもないほどに掠れていた。
「そう……。いいわ、その願い、叶えてあげる。」
 まるで愉しむように、女の艶やかな唇が三日月を形作った。

 がば、と勢いよく起き上がれば、全身冷たい汗にまみれていた。心臓は早鐘のように打ち、呼吸はみじめなくらいに乱れている。
 自分がどこにいるのかもわからないままに、ただ肩を上下させているうちに、徐々に周りの様子が目に入ってくる。
 見覚えのあるベッド、書類の散らかった机、雑然とした本棚、そこは朝日の差し込む、見慣れた自分の部屋だった。
「夢、か……。」
 確かめるように口にすると乾いた笑いがこみあげてきた。全く、私としたことが夢などという不確かなものに何という怯えようだろう。私にも良心の呵責というものが少しはあったということだろうか。世の中は弱肉強食、きれいごとなど腹の足しにもならないと割り切っているこの私にも。
 窓を大きく開け、清々しい朝の空気を吸い込むと、あの悪夢の嫌な気分がすっきりと抜けていく。そう、下らない感傷に煩わされている暇などないのだ。
 不意に、インターホンが軽やかな音を立てた。
「はい。」
 気分も軽く、その受話器をとる。
「朝早いところを申し訳ありません、谷田さん。警察の者ですが……。」
 機械の向こうの声が氷のように私の耳に突き刺さった。
「実はですね。谷田さんに業務上横領の疑いがかかっているのですが……。」
 のろのろと耳から話したはずの受話器から、ぼそぼそとした音が、それでもはっきりと言葉になって聞こえてくる。
「……でも、少しの間だけね。」
 不意に、あの女の声がどこからともなく聞こえて来たような気がした。




topへ
この作品は12月29日に開催されたお題バトルで書いたものです。
テーマ:驚愕
お題:「落とし穴」「図星」「光」「事実」「オカマ」「金欠」「鏡」「叫び」「白目」「騒音」(ルール上は、この中から4つ以上の使用でOK)
制限時間:1時間半(多少オーバーしました……/汗)
他の参加者の方の作品はこちらからどうぞ。素敵な作品がいっぱいです。


後書き
 まずは読んで下さった方に御礼申し上げます。ありがとうございました。
 某所で行われていたお題バトルに初参加致しました。バトルの条件は以上の通りです。
 くせのあるお題もさることながら、制限時間には苦しめられました。よく考えてみれば、何も設定のないところから話を書くのはかれこれ一年以上ぶり(汗)。推敲するヒマどころか、オチを練る余裕さえなく、最後は定番ホラーに落とさざるを得なかったあたり、自らの発想力の貧困さと言葉づかいの拙さを痛感致しました。
 まあ、初参加の良い記念ということで、修正せずに残しておきます。ええ、参加することに意義があるんです……と言い訳するまでもなく、非常に楽しませていただきました。主催者の中原まなみさん、そして一緒に参加して下さった皆様、本当にありがとうございました。

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送