紅葉


『紅葉は赤ちゃんの手に似てる』
 それまでは月並みで凡庸な例えだと思ってはいた。とはいっても、凡庸だと思っていたのはその例えだけで、私も妻も紅葉そのものは好きだった。
 鮮やかな紅色もさることながら、細かく刻まれた輪郭の縁の緻密さや、一枚の葉に何色もの表情を乗せながら、それを声高に主張することのないゆかしさ。あたかも無名の、それでも一流の職人によって作られた工芸品のような趣きを感じていたのだと思う。
 そのせいか、初めてわが子に対面した時に思わず口から出た台詞が、これだった。
「ああ、紅葉みたいな手をしてる。」

 赤ん坊の手というのは本当に不思議だ。掌全体で握っても、私のごつごつした指のほんの指先しか隠れないくらいの大きさなのに、細くて短い五本の指はちゃんとついていて、その一本一本の先にはかわいらしい爪もきちんとのっている。大人と同じだけの関節も刻まれ、強い力で私の指をしっかりと握りしめる。
 この細工はまさに神技だ、と。私はそう感じたのだろう。
 それは自然を創った神の啓示だったのか、安直にもらした人の失言だったのか−−本人にとってどちらだったのかは聞いてみなければわからないが−−、深まる秋に生まれた私の娘は「紅葉」と名付けられた。

 もともと山歩きや寺院めぐりの好きな私たち夫婦は、毎年秋に紅葉を拾ってくるようになった。そして、その年の一番すばらしい紅葉を、一番よく撮れた娘の誕生日の写真と一緒にアルバムに貼りつけた。満面の娘の笑顔に寄り添ったそれは、まるで彼女の成長を表す手形のようだった。
 娘の写真を収めたアルバムはどんどん増えて行ったけれど、この特別なアルバムは一年に一枚だけ、写真を増やした。
 やがて娘が大きくなって反抗期を迎え、写真を撮るのを嫌がる時期が来ても、なだめたりすかしたりして誕生日の写真だけは撮り続け、いつも最上の紅葉がその脇を飾った。
 いつしか台紙を重ね、ずいぶんと分厚くなったそれは、私たち夫婦にとって最高の宝物だった。
 今、こうして眺めていると過ぎて行った時間が手にとるように蘇ってくる。
「もう、誕生日に写真を撮ることもないし、たくさんの紅葉と一晩中にらめっこして一番良いのを探さなくてもいいのね……。」
 隣でぽつりと妻が呟いた。
「……そうだね。」
「いつもいつも、あれでもない、これでもない、こっちの方がいい、いや、あれの方がいいって、あなたと喧嘩になったり、なかなか決まらなくって、最後にはもういいやって、そんな感じで決めてたのよ。でも、不思議ね、こうやって見てると、毎年毎年、一番相応しい葉っぱを選んでいた気がするわ……。すぅごく楽しいのに、とっても疲れる仕事で……。でも、これがなくなったら、とっても寂しくなるわね……。」
 妻の言葉は、細い葉から露が滴り落ちるようにぽつりぽつりと、そして淡々と続いた。きっと胸がいっぱいなのだろう。聞いている私と同じように。
 言葉にのせるにはあまりにも多すぎる感情が喉のところでつっかえて、それでも外に出さずにはいられない。
「この中には、それだけの、時と思いが詰まってるんだよ……。だから胸を張って明日、あの子に渡してやろう。『お父さんとお母さんはこれだけお前を愛してたんだよ』って。」
 妻を慰めるために言ったようで、きっと私は自分を慰めていたのだろう。
 明日になればきっと私の口からはロクな言葉は出ないだろう。『花嫁の父』なんてそんなものだ。きっと自分の代わりにこのアルバムが私の思いを伝えてくれる、そう自分に言い聞かせたかったのだと思う。
 妻がそんな私にそっと向けた顔は泣き笑いの形をしていた。

 翌日、案の定父親としての気の利いた言葉一つ言えないままに家に戻った私を待っていたのは白い封筒だった。見なれた字で記された私と妻の宛名。裏面には小さく「紅葉」とあった。中からは飾り気のない白い便せんが出て来た。
 そこには几帳面な字で、今まで世話になったと礼の言葉が綴られていた。

『……ずいぶんと安直に名前をつけてくれたと思ったこともあったけれど、私も紅葉が好きになってきました。
だって、この小さな葉の中に一年の全てが、春の形と夏の名残り、そして冬……次の世代への準備が一緒に詰まっているから……
春と夏とを越えて、冬に向けて秋を彩る紅葉のように、お父さんもお母さんも、これからの自分の人生を楽しんで下さい。私に手がかからなくなった分……』

 私たちが手紙を読み終わるのを待っていたかのように、白い封筒からは二枚の紅葉も出てきた。 娘の手紙にある通り、その深い朱の葉は、春の柔らかさを思わせる繊細な形をして、緑色の夏の名残りをその縁に残していた。
 どうして気付かなかったのだろう。
『赤ちゃんの手』と同じくらい平凡な喩えなのに。
 ずっと紅葉は娘のためにあるとばかり思い込んでいたけれど。
「ねぇ。」
「おい。」
 私と妻は同時に呼び掛けてくすくすと笑った。お互い、言おうとしていたことは同じだとすぐにわかったから。

−−これからも紅葉を集めよう。今度は、私たちのために。






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