恋文


 見上げれば、抜けるように濃く青い、冬の青空がどこまでも広がっていた。風ひとつ、雲ひとつない青の色粉を固めたようなその空は、ちょうど葬儀の喧噪が去り、火葬が終わるのを待つ間のぽっかりとした間隙を形にしているかのようだった。
 少しのんびりした長兄も、おどけたところのある次兄も、勝ち気な妹も、そしていつもやかましい子どもたちも、口を開くこともなく時間を持て余すかのように佇んでいる。
 そう言えば、きょうだいが全員集まるのは随分と久し振りだ。
 いつしかそれぞれに違う道を歩み、家庭を持つようになった。こうして、改めて見れば、それぞれの顔にそれぞれの辿った多くの月日が刻まれているのが伺える。けれどその一方で、幼い頃の面影もまた、どこかしらに確かに残っている。
 ふと、傍らの母へと目を向けた。すっかり縮こまり、髪も真っ白になったその姿には、昔の面影はほとんど見当たらない。否、見い出すのが痛々しいというのが正確だろうか。
 車椅子に乗せられ、自分の夫の遺影を抱えさせられた母は、そんな私の思いを知ってか知らでか、ぽかりと口を開けて雲ひとつない空を眺めている。
 ――惚けた人というのは、何を感じ、何を考えているのだろうか。
 ――つい先程、自分の夫と最期の別れを済ませたこともそれとわかっているのだろうか。
 ――この母の胸にも、父と過ごした日々の思い出がよぎったりするのだろうか。
 胸に去来したそんな思いに、母と同じように鮮やかすぎる蒼へと目を移した。母と同じものを目にすれば、少しでも母の思いを覗けるのではないかと、そんな頼りない感傷に促されるままに。
 他の皆も同じように感じていたのだろうか。誰もがつられたように何となく空を見上げ、そして目を細めた。
 柔らかな陽射しがさんさんと降り注ぐ、よく晴れ渡った冬の一日だった。
 あの父の旅立ちの日には相応しい。誰も口にこそ出さなかったが、皆がその思いを共有しているのを確信しているような、そんな静かで爽やかな空気が辺りを満たしていた。

 明治生まれの父はとかく、「亭主関白」やら「頑固親父」やらを絵に描いたような人だった。いつも上座を指定席に、苦虫を噛み潰したような顔をして、時折気紛れとも思えるタイミングで雷を落とす。今、どんなに一生懸命思い返しても、あの顔が弛んだ記憶など、全く出てこない。
 要領の悪かった私や長兄は、気付かぬうちに父の逆鱗に触れては、げんこつをもらって外に放り出されるのが常だった。後でほとぼりが冷めたころに、母がいつもそっと招き入れてくれたが、それが夜中になることも珍しくはなかった。
 何かと道理の通らないことを言っては無理難題を押し付けてくる父だったが、その中でも最たるものは、大きくなって家を出た私たちに、月に一度必ず便りを寄越すように要求したことだった。
 父は私たちの都合も言い分も全く聞こうともせず、それは一方的に決定事項となった。毎月3日を過ぎて便りが着かないようなら必ず、催促というよりは叱責の電話が何度もかかってきたのだ。
 こうなると、下手に反論するよりはまだ、黙って折れた方が労力が少ない。それが私たちの身に付けた知恵だった。
 そもそも議論というのは理屈の通じる相手にするものだ。父のような相手には言葉を返すのも無駄だろう。
 私たちが黙って従ったのを良い事に、孫が生まれ、文字が書けるようになったら、父は孫たちにまで同じことを強要した。最初の方こそ物珍しさから喜んで手紙を出していた我が家の娘たちも、成長してくると不満を漏らすようになった。それでも厳格な祖父には逆らえず、しぶしぶ出していたようだった。もっとも、絵葉書を使って文量を減らすなどの智恵はつけていたようではあったが。
 このように私たち子どもは、常にびくびくして父の顔色を伺ったものだったが、父は特に母に対して横暴だった。私たちにしたように、直接手を上げることこそなかったが、ことあるごとに怒鳴り付けたり、夕飯が気に入らない時には幾度となく作り直させたりということは日常茶飯事だった。
 だから、後に母に痴呆の症状が出た時、私たち口さがない子どもたちは囁きあったものだ。
「お母さんはきっと、あんなお父さんのことを忘れてしまいたかったのよ。」と。
 それを察していたのかいなかったのか、父は頑として夫婦とも誰の世話にもならぬと言い張り、母を施設に預けることも、子どもの誰かと同居することもしなかった。幸い、近所の人がしょっちゅう気にかけてくれていたおかげで、老夫婦2人の生活はなんとか成り立っていたようだったが。
 その父が急に倒れたと連絡が入ったのが数日前。いつも懇意にしてくれている近所の人が知らせて下さって、私たちは慌てて駆け付けたのだが、父は私たちの誰を待つこともなく、あっけなく独りで旅立ってしまった。
 本当に、父らしいといえば父らしい最期だったと、仮通夜の日、父の棺に入れる遺品の整理をしながら、私たちは呟いたものだった。
 遺品と呼べるものもさしてなかったのだが、私たちが月に一度出した葉書の束だけはどっさりと出てきた。それは几帳面な父らしく、毎月ごとにきちんと帯紙が巻かれ、ひもで束ねられていた。ためしに解いてみるのを躊躇わずにはいられないくらいに。
 思わず感嘆と呆れの混じった溜息をついた私の横で、妹が怪訝そうな声をあげた。
 きょうだいの中で1人、年の離れた彼女は、昔からやや大胆なところがあった。家族の中で父に曲がりなりにも口答えができたのも、彼女1人だけだった。そんな妹は、迷いもせずに束の1つを解いていたのだ。
 その手にあった葉書には、白い面にただ「日々健康是感謝」とだけ書かれていた。角張って無造作に書かれたその筆文字は、まぎれもなく父の筆跡だった。
 私たちは思わず顔を見合わせた。なぜ、私たちの手紙の束に父の書いたものが混じっているのだろう。
 試しに他の束もほどいてみると、やはり不愛想な父の葉書が入っている。どの束をほどいてみても、同じように墨書きされた葉書が入っていた。
 全ての束から父の葉書を見つけた頃には、私たちの誰もが同じ考えを抱いていた。
 これは、母への便りなのだ。父の仕打ちに辛抱強く耐えていた母は、とても寂しがりな人でもあった。私たち子どもが全て家を出てしまった後は、どれほど寂しがったことだろうか。
 父が私たち子や孫に毎月の便りを強要していたのは、おそらく母のためだったのだろう。そして、直接伝えるには照れくさい自分の感謝の言葉をそこに紛れ込ませたのだ。
 この手紙の束は、いわば父から母への恋文なのだ。あまりに不器用で、無愛想で、そしておそらく精一杯の。
 その父の思いが母へきちんと伝わったかどうかはわからない。何しろ、それからすぐに母は惚けてしまったのだから。
 今だって母はただ、抜けるように青い空をぽかんと眺めているだけで、状況がわかっているかどうかは私たちにもわからない。
「そろそろ、かな……。」
 同じように空を見上げていた次兄が誰にともなく呟いた。
 あの葉書の束を棺の中に入れてやろうと言い出したのは、この兄だった。いつか母が父のもとに行った時、今度は父が自分の言葉で母に感謝を告げられるように。
「あ……。」
 どこからともなく、小さな声が漏れた。火葬場の煙突から白く細い煙が、静かに上っていく。
「……迷わずに、まっすぐ上って行くね、おじいちゃん。」
 娘の言葉通り、風ひとつ雲ひとつない冬の空に、煙は真直ぐ昇っていく。
 いつか、兄の言う通り、母が父のもとに行ったなら、遠い空の上で2人きりになったなら、その時は父もあの苦りきった顔を少しは緩めて照れ笑いを浮かべたりするのだろうか。
 そんなことを思いながら、ふと母の顔を覗いてみた。変わらず空に向けられた瞳が、気のせいかわずかに潤んで見えた。





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