琥珀の笑顔


「それでは、新郎新婦の御入場です。」
 手慣れた司会者の言葉を合図に、照明を落とした室内に大音量の音楽が流れる。扉が開け放たれるのに合わせて、重たいライトのスイッチを入れる。ぶぅん、と機械音がうなり、熱気がこちらにまで漂ってくる。スポットライトの道筋に、細かい光の粉が舞う。
 割れるような拍手の中、強い光に浮かび上がった花嫁に、僕は思わず見入っていた。まばゆい光に一瞬細めた目は、淡い琥珀色。青みを押さえたオフホワイトのウェディングドレスに、抜けるような白い肌。栗色の髪を白い花と共に彩って胸元まで垂れ下がるアイビーの緑色が、鮮やかなまでに彼女の美しさを引き立てていた。
「……おいっ。」
 隣の先輩に小声で突かれて我に返ると、2人の姿は光の円から出そうになっていた。慌ててライトを動かして、彼等を追う。再び光の当たった花嫁の笑顔は、文字どおり輝くばかりに美しかった。

「ほらよ、お疲れさん。」
 ライトを動かすだけのバイトとはいっても、充分に肉体労働だ。1日に3件も続けて披露宴をこなせば、疲れもそれなりになる。へたりと床に座り込んだ僕に先輩が差し出したのは、大きさの割にずっしりと重い包みだった。
「3組目のカップルの意向さ。招待客だけじゃなく、スタッフにも、ってな。」
「はあ……。ありがとうございます。」
 我ながら間の抜けた声で受け取ると、僕はそれをカバンに押し込んで帰路についた。
 四畳一間の我が家に戻って、先程の包みを開ける。それはモスグリーンの、洒落たシャンパンのミニボトルだった。添えられたカードには、感謝の言葉と幸せそうな2人の写真が載っていた。琥珀色の瞳を、惜しげなく細めた花嫁の笑顔。裏を返せば、幸せそうに並んだ2人の名前。そこに「硝子」の文字があるのを見て、僕は思わず溜息をついていた。やっぱりあの花嫁は、あの彼女だったのだ。
『ガラス、と書いてしょうこと読むの。』
 いつかの彼女の声が耳もとに蘇って来たような気がした。


 そこは、ほんの小さな入り江だった。いくつかの岩の転がった手狭な磯と、その間に吹きだまりのような、猫の額ほどの砂浜。けだるい夏の陽射しが降り注ぐ中で、波の音だけが静かに響いていた。
 その夏、僕はずっとそこで過ごしていた。朝から晩まで、とにかくヒマがあれば大きな岩の上で寝転んだ。観光地化していない田舎の、さびれた入り江。誰もいない、誰にも会わないこの場所は、この上なく心地よかった。
 ここには、僕が「僕」である必要など、どこにもなかった。そろそろ受験の声が高まっていた煩わしい中学生活も、両親の離婚の協議のために、独り母の実家に預けられているということも、どこか遠いところの知らない誰かのできごとだった。ここでは何も思わず何も考えず、ただ無機質な夏の光に灼かれて波の音だけを聞いていればよかった。
 なのに、その日は先客がいた。狭い砂浜に佇む人影を見た途端、僕は不機嫌になった。誰もいないから、ここは僕の居場所だったのに。他に人がいれば、僕は惨めな「僕」に戻らなければいけない。
 けれど他に行く場所もなく、足を止めるわけにはいかなかった。近付くと、その人影は白いワンピースに白い幅広の帽子を被った少女だった。背中にこぼれた髪は淡い栗色で、ほっそりと伸びた手足は、抜けるように白い。強い陽射しに溶けてしまうのではないかというくらい、その後ろ姿は儚く、現実感がなかった。
 僕の気配を感じたのか、彼女は静かにこちらを振り向いた。白い帽子の下にあった2つの瞳は琥珀色で、彫りの深い顔だちもまた、壊れそうなくらいに白く見えた。歳の頃は僕より2つ3つ上だろうか。あるいは、大人びた顔だちだったからそう見えただけかもしれない。
 それはともかく、なぜかガラス細工のような彼女の顔を見た途端、この人はここにいても良い人だと思った。この人は僕の居場所を壊す人ではないと。そして僕も、この人の居場所を壊さずにいられると。早い話が、僕たちは同じような傷を抱いて、この場所に同じものを求めている、いわゆる同志だと思ったのだ。
 僕はいつも通りに岩の上に寝転んだ。彼女は、琥珀色の瞳で静かに海の向こうを眺めていた。互いに、何も言わなかった。ただ、日が暮れるまでずっとそうしていた。
 次の日も、その次の日も、僕は岩の上に寝転び、彼女は砂浜に座って静かに海の向こうを眺めていた。2人とも、何も言わなかった。ただ黙って側にいるのが心地よかった。下手なことを口にすると、たちまち2人とも唯一の居場所を失ってしまう。本当に独りになるのを恐れながら、自分の世界に相手を入れるのを拒む、そんなギリギリのバランスの上にいる僕達は、間違いなく世界に見捨てられた者同士だった。
「ずっと見てたら、そのうちに海と空の間に溶けて消えてしまいそうだね。」
 不意に、それこそ溶けてしまいそうな声で彼女が呟いた。白い砂浜に腰を下ろし、潮風にさらわれないように帽子を押さえて、顔は水平線に向いたそのままで。
「溶けて、消えてしまいたいの?」
 僕は空を眺めたままで、思わずそう問い返していた。口にした後で、余計なことを言ったと後悔した。僕はこの唯一の居場所を壊す言葉を口にしたのかもしれなかったのだから。
 彼女がこちらを振り返る気配がした。おそるおそる、顔を向けると、彼女は肯定も否定もせずに、ほんの少しだけ微笑んだ。薄い薄いガラスのような、触れえぬような脆さをまとった笑みだった。うかつに触れれば、壊してしまう。うかつに触ればこちらが傷付く。そんな痛々しく、そして血の気のないような綺麗な微笑みに、僕は言葉を失って見入るしかなかった。

 その日の夕食の時、どうしても彼女のことが気になって、祖母にそれとなく栗色の髪の女の子のことを尋ねてみた。狭い街のこと、何でもすぐに噂にのぼる。
 案の定、彼女の母が昔、どこの誰ともしれない男と駆け落ちして、何年か後に子どもだけを連れてひっそりと戻って来た、という話が大袈裟な身ぶりと口調付きで簡単に聞きだせた。もっとも、すぐに僕の境遇を思い出した祖母は、慌てて口を覆ってきまり悪そうな顔をしたけれど。それはそれでよかったのだろう。それ以上余分なことを聞かずに済んだのだから。
 ただ、僕の中には何ともいえない、妙なしこりだけが残った。

 次の日、僕は岩の上ではなく、砂浜に座った。身体の下で軽くきしむ熱い砂の感触を感じながら海を眺めていると、波の音が高く、近く聞こえた。間近まで打ち寄せてくる波の腕が、まるで僕を誘うように、思わせぶりに揺れる。目を閉じればそのまま、波間に攫われてしまいそうな程に。
 彼女はこんな海を見ていたのか。今までとあまりに違う海の姿に、そう思って座っていれば、隣に衣擦れの音と人の気配が舞い降りた。
 彼女が腰を下ろすのを待ってそっと横を盗み見た。彼女は、相変わらずの儚げな表情で、海を眺めていた。彼女の髪の色も、顔だちも、純粋な日本人のそれではないのは明らかだった。だから、こうして海の向こうを眺めているのだろうか。
 昨日、祖母から聞いたことが頭の中を回る。知ってしまったということが、どうしようもなく後ろめたかった。陳腐で余計なことを考えていると知りながらも、なかなかそれはやめられなかった。
 自分は決してそうされることを望んでいなかったくせに、だから彼女もそれを望んでいないとわかっていたくせに、僕は確かにこの時、彼女の世界に入るのを望み始めていた。それもまた、僕の胸中の棘にも似た後ろめたさを、より強くしたのかもしれない。
 彼女の横顔から視線を外せないでいると、不意に吹いた強い潮風に、今日は帽子をかぶっていない栗色の髪が軽やかに舞った。ちらりと白い、本当に白くて細い首筋がかいま見えて、僕は思わず息を飲んだ。何故か、見てはいけないものを見てしまったかのように、ずきりと胸が痛んで、慌てて砂浜へと目を逸らした。
「あ。」
 ふとそこに、何か光ったものを見て、僕は手を伸ばしていた。急に視線をそらした丁度良い言い訳になると思ったのかもしれない。けれど、波と砂に磨かれた淡い青色のガラスの破片は、手にとって透かしてみると、思いの外美しかった。
「きれい……。」
 太陽を透かすガラスを眺め、僕は思わずそう呟いていた。
「わたしの、名前。」
 くすりと隣で漏れた笑みの気配に振り向くと、いつからか、彼女の視線は僕の手のガラスにあった。空色のそれを指差して、例の壊れそうな笑みを浮かべる。
「え?」
 わけがわからなくて、否、彼女の視線が僕にあったことに驚いて、僕は彼女と手に持ったガラスを交互に見詰めていた。後から思っても、この時の僕のうろたえ方は笑えるものだったろう。
「ガラス、と書いてしょうこ、と読むの。」
 唇の笑みの形をほんの少し大きなものにして、彼女はそう続けた。けれども、透けるような琥珀の瞳に浮んだ壊れそうな光は、そのままだった。文字どおり、ガラスのように。
 僕は気の利いた言葉一つ言えず、ただそれを見詰めているだけしかできなかった。

 次の日から、ずっと僕は砂浜に座った。時には、先に来ていた彼女の横に、落ち着かない思いを抱えながら腰を下ろしたこともあった。相変わらず、言葉を交わすことはめったになかったけれど、僕は時々、つい彼女の横顔を伺っていた。
 何を見ているのだろう、何を考えているのだろう。儚げな彼女に触れ得ぬままに、僕はただ考えだけを巡らせていた。他の誰でもない、「僕」として。
 いつの間にかここは、「僕」であることを忘れて独りの世界に入る場所ではなくなっていた。儚げな彼女に触れて、彼女の世界に入れてもらうことを夢想しながら、そうすることでこの時間が終わってしまうことを、心の底から恐れていた。心の中だけで彼女の世界を蹂躙しながら、そうすることへの罪悪感にひどく苛まれていた。彼女はすぐ隣で、表情を変えることなく海の向こうを眺めているというのに。
 それでも、触れ得ないもどかしさをごまかすために、「世界に見捨てられた不幸で惨めな僕」にすがりついて、彼女の同志であるようなふりをして、僕は彼女の隣に座り続けた。

 いつしか、海を渡る風は、涼しいものへと変わっていた。太陽の傾く時間は徐々に早くなってきていた。確かに、そこはかとなく秋の気配が漂い始めているように感じられた。それは、近いうちに夏休みが終わると、自分が帰らなければならないと、知っていたからだろうか。
 祖母は毎晩のように母と電話をしては長い時間話し込んでいた。その内容を聞くことはなかったけれど、そろそろ結論が出そうになっていることはわかった。けれど、あえて聞く気にはなれなかった。彼女の隣に座るためには、知らない方がはるかに都合がよかったのだから。
「ねえ、花火、しない? 暗くなったら。」
 その日、僕が帰らなければならない日の前日、僕は初めて自分から彼女に声をかけた。訝しげに振り向いた彼女に、手にした花火とライターを示す。花火はその前日の帰りがけに、ふと思い付いて買ったものだ。何分よく知らない田舎の街のこと、手に入ったのは、和紙に少量の火薬を包んだだけの、本当に小さくてシンプルな花火だけだった。
 夏の最後に花火を。なんて月並みで、陳腐な思い付きなのだろうと我ながら思ったけれど、僕に思い付いたのはこれだけで、こんなことだけでもしておきたいと思ったのだ。
 彼女は綺麗な琥珀の瞳を瞬いて、そして例の笑みを浮かべると、小さく頷いた。

 宵闇にぽつんと浮ぶ小さな赤い玉の周りに、細い細い柳葉のような炎が、時折思い出したように散る。風情があると言えなくもないが、この上なく頼りない小さな炎の花。互いの手に1本ずつぶら下げながら、2人して息をつめるようにしてこの小さな花を見詰めていた。少しでも瞬けば、見のがしてしまう。少しでも吐息を乱したらかき消えてしまう。そう思わずにいられないくらいに、切ないくらいに儚い花火だった。
「花火って綺麗ね。花と違って後に何も残らないけど。」
 日が沈んで、急に大きくなった波の音の合間を縫うように、彼女が小さく呟いた。僕は、何も言えずにただ、弱い炎に赤く照らされた彼女の顔を黙って見ていた。やはり触れられないその笑みは、今ちかちかと燃えている花火のようにも見えた。小さくて、儚くて、綺麗で、けれど触ったら相手を傷付けながら壊れてしまう。
「……私の名前、本当は『晶琥』にしたかったってお母さん、言ってた。琥珀は植物が生きた証だからって。でも、その漢字は使えないって言われたんだけどね。」
 そう言って彼女は細い指先で、暗い砂の上に文字を書いて見せた。小さな花が瞬く度、その文字はちらちらと照らされて瞬いた。そしていくつもの小さな火の玉が、輝きを失ってその上に落ちた。
 それからの僕たちは、無言で次々に花火に火をつけた。重く遠く鳴く波の音の合間に、ライターがかちかち鳴る音と、火花の散るかすかな音が時折響いた。単純作業のようでもあったそれに没頭していると、何故か心の底から安堵を覚えた。
 最後の1本を前にして、ライターに火がつかなくなった。安物のライターは、どんなに強く点火部を押しても、金色の小さな火花を虚しく吐くだけだった。
「もうダメみたい、ごめん。」
 あと1本だというのに、締まらない。すっきりしない気持ちのまま、僕が溜息をついて謝ると、彼女は首を振って立ち上がった。
「ううん、今日はありがとう。……あなたがいてくれて、助かった。」
 そう言って微笑んだ彼女の顔は、星明かりの宵闇のせいか、柔らかく見えた。思わず手を伸ばしたい衝動にかられたけれど、彼女の言葉でそれもできなくなった。彼女は、僕が彼女と同じ痛みと望みを抱え、彼女に触れ得ないからこそ、同じ場所にいることを許してくれていたのだから。
 否、本当は単純に、彼女に触れて自分が傷付くことを恐れただけだったのかもしれない。それでも手を出す勇気や覚悟など、僕は持ち合わせていなかった。
 その翌朝、両親は2人そろって僕を迎えに来た。「またやり直すことにしたんだ」と気恥ずかしそうに言う父の隣で、母は「心配かけてごめんなさいね」ときまり悪そうに肩を竦めた。
 こうして、夏は終わりを告げた。再び世界に拾い上げられた僕は、彼女の同志たる資格を失った。


 僕は小さな抽き出しを開け、中から花火を1本取り出した。あの時に余った1本。何故か火をつけることも、捨てることもできなくて、ずっとこの抽き出しの中に入れっぱなしだった。この部屋に引っ越してきた時にも、抽き出しごと持って来ていた。
 大切だったのかと問われればそうだったのかもしれないし、単に捨てる機会がなかっただけかもしれない。それは感傷だったのか、彼女への後ろめたさだったのか。どちらにせよ、僕は恋と罪悪感の区別なんかつかない子どもだったのは確実だし、今でもまだそうなのかもしれない。
 ぺらぺらのアルミの灰皿を引き寄せ、その上でそっと火をつける。ぽっと小さな火が灯り、そしてゆらゆらとわずかに揺れた後、柳葉を吐き出す事もなく軸の方にまで雫型の炎が伸びる。指を焼かれそうになって思わずそのまま手を離せば、灰皿の上でそれはゆっくりと、けれどあっけなく燃え尽きた。
 僕はそれをぼんやりと眺めていたけれど、不意に乾いた笑いが込み上げてきた。先程の写真に目を移す。そこには、あのガラスのような脆さも、火花のような痛々しさも、残っていなかった。地に根を張り、いずれ実を結ぶ花のような、柔らかな優しげな琥珀な微笑みに、僕は思わず溜息をついて天井を仰いだ。
 まるで、天使か妖精が、人間に生まれ変わったかのように。繊細で儚い美しさは消えていたけれど、そこには血の通った暖かみがあった。
 考えてみれば、当たり前の話だ。あの後、僕が学校を出て、自分のやりたいことを見つけて、そのためにバイトをしているように、彼女だって彼女の道を歩んでいたはずなのだから。彼女に恐れることなく手を伸ばし、その痛みを受け止められる誰かに出会っていたとしても、全くおかしくはない。
 大切にしまい込み過ぎた花火が、いつしか花火でなくなっていたように、遠い日のできごとは、今となっては、色褪せて形のない、ただの想い出になっていたのだ。
「おめでとう、いついつまでも幸せに。」
 幸せそうな写真に呟いて、シャンパンをコップに注ぐ。しゅわしゅわといっそ心地よい音をたてて、淡い琥珀の液体がコップを満たしていく。細かな泡がいくつかわき上がり、ガラスの肌を伝うように昇っていく。
 独りで軽く乾杯をして、なかばぬるくなりかけたそれをそっと口に含んだ。口の中で細かい泡が弾ける感触に、ふと、頼りなく散っていたあの日の小さな花火を思い出した。途端に、口の中のかすかな痛みと苦味がじわりと沁みて、琥珀の笑顔がわずかに滲んで見えた。    



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この作品は突発性企画「花火」に参加しています。



あとがき

 まず、何よりは拙作を読んで下さった方に感謝致します。ありがとうございました。
 何とか……間に合いました……が、言い訳は致しません。早い話が力尽きました。はは、慣れないことはするもんじゃありませんね。次回、「月夜」でリベンジできるように頑張ります。
 最後になりましたが、企画を主催して下さった平塚ミドリさま、本当にいつもお疲れさまです、そしてありがとうございました。
 そして、参加者の皆様と読者の皆様にも心からの感謝を申し上げます。ありがとうございました。

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