道標の木


 遥かな地平線に、うっすらとまばゆい金色が滲み始めた。ゆっくりと顔を見せた太陽が、広い広い草原に、さっと金色の腕を広げる。
「じゃあ、行って来るよ。必ず帰って来る、約束するよ。だから、良い子で待ってな。」
 ごしごしと大きな手で頭を撫でてくれる兄を、クナツはじっと見上げて、小さく頷いた。
 兄の言葉に嘘はないことは、わかっていた。けれど、それが真実になることがないことも、幼心に悟っていたのかもしれない。
「じゃあな。後のことは頼んだよ。お前も、もう7つだからな。」
 もう一度頭を撫でた兄は、名残惜しげに微笑んで、ゆっくりと背を向けた。
 歩き始めてしまえば、その後ろ姿は次第次第に小さくなっていく。そして、ついに朝日に溶け込んでしまうまで、兄は一度も振り向かなかった。ただ、長く長く伸びた影法師だけが、別れを惜しむかのように、クナツの足元で静かに揺れていた。

 たぷりたぷりと、腰から下げた3つの水袋が歩くたびに揺れた。それが落ちてしまわないように手を添えながらも、クナツは注意深く地面をにらんで歩いていた。
 まだ日の昇りきらないこの時間なら、トカゲなんかがちょろりと顔を出すかもしれないし、うまくすればモグラやツチウサギの足跡や巣穴が見つかるかもしれない。
 それは、この草原では貴重な食料であったし、それを探すのは兄が去ってから10年、クナツに任されてきた大事な仕事の1つでもあった。
 そのことは隣を歩いているまだ幼い少年も理解しているらしく、神妙な顔をして地面を睨んでいるようだった。ただ、やはり飽きるのだろう。時折顔をあげてはクナツの方を見遣り、また慌てて地面に視線を戻す、というのを繰り返しているのが気配で感じられる。
「あっ……。」
 我慢しきれずにまた顔をあげた少年が、不意に小さい声を上げて走り出す。それに気付いてクナツも仕方なく顔を上げた。草原にぽっかりと浮かび上がったいくつかの木影と、それを目ざして走り始めた幼い少年の姿を認め、唇に苦笑を浮かべる。が、さらにその向こうへと視線が向くと、自然とその笑みは消えた。
 朝の太陽にきらきらと輝く砂の波。見る度に趣きを変え、色合いを変え、無機質な輝きを放つそれは、じわじわと腕を伸ばし、少しずつ確実に草原を呑み込んでいく。そうと知っているからか、なおさら無気味なほどに美しく、無表情に見えた。
「クナツ! 早く!」
 小さな少年が待切れないと言わんばかりに、木の前で足踏みをする。
「そう急かすなよ、ユナイ。」
 クナツが苦笑を浮かべながらユナイの元に着いた時には、幼い少年は教えられた通りに硬い木の葉に降りた砂を払い落としていた。クナツも手を伸ばして、ユナイの手が届かない、高いところの葉の砂を落とした。それが終わると、提げてきた皮袋の一つを少年に渡す。ユナイはそれを受け取ると、嬉々として中の灰を木の根元に撒いた。次いで、クナツが他の皮袋に入れていた水を上からまく。
「お父さんの木?」
 ユナイは両目をきらきらと輝かせて、クナツを見上げた。その澄んだ瞳は、彼の父親でもある自分の兄を彷佛とさせる。ふと兄の面影を思い出したのに気付いて、クナツは思わず苦笑をもらした。
「ああ、そうだよ。真中の一番大きいのがツバクの木だ。」
 目を細めて答えれば、草原の風に乗った細かな砂がさらさらと降った。木々の少し向こうでは、草地が切れて砂の地面が顔をのぞかせていた。

 帰る途中に捕まえたツチウサギをぶら下げて集落に足を踏み入れたクナツは、すぐに異様な雰囲気に気付いた。集落全体がざわざわと騒がしい。
「クナツ!」
 その集落の中から、1人の少女が走り出してきた。彼女の顔もまた、いくぶん強張っている。
「どうした、ユマナ。」
 幼馴染みのその様子に、クナツも眉を寄せた。いつもなら女たちは羊の世話に出ているはずだ。
「長老が、お呼びよ。」
 少女は沈んだ声で、それだけを短く告げる。
「……そうか。」
 クナツもまた短く答えると、ユナイの頭を撫でて、自分の天幕に帰るよう、促した。少年はぱちぱちと目を瞬かせはしたものの、別段不満を口にするでもなく2人に手を振って駆け出していった。その後ろ姿を見送ってから、2人はどちらから合図をするでもなく、押し黙って歩を進めた。
「外の人が来たの。」
 視線を草の上に落としたままで、ユマナはぽつりと漏らした。
「外……。外って草原の外か?」
 少女の信じがたい言葉に、クナツは思わず声をあげた。どこまでも続いている果てしない草原は、足で越えるのはまず無理だと言われている。ましてや、外から村にたどりつくなどまず考えられないのだ。
 問いつめるような少年の視線から逃れるかのように、ユマナは唇を噛んで瞳を閉じると、さらにうつむいた。
「……『ツバクという男を知ってる者はいないか』って。」
 吐き出すように続けて、少女は言葉を切った。
「……。」
 クナツがとっさに返事をできないでいると、ユマナは小さく息を吐いた。
「今は長老が天幕で話を聞いてるわ……。それで、クナツを呼んでこいって。」
「……そう。」
 何か答えようと、中途半端に開いた少年の口からようやくもれたのは、それだけだった。

 さして広くもない集落のこと、ほどなくして長老の天幕が見えてくる。その前に見慣れない生き物がいるのを認めて、クナツは思わず足を止めた。
 時折ぶるぶると鼻を鳴らすそれは、毛刈りした羊を5倍くらいにして、肢や首や顔を伸ばしたような感じだろうか。長い首にたてがみを生やしたその姿は優美にも見える。すらりと伸びた前肢で退屈そうに地面をかいていたが、クナツに気付くと、細長い顔を持ち上げて、ひひ、と小さく鳴いた。思いのほか人なつこそうなその様子に、少年は及び腰ながらも、その額に手を伸ばした。
「……じゃあ、あたしは先に戻ってるね。」
 それまで黙っていた少女は遠慮がちに口を開いた。
「ああ、わかった。」
 クナツが頷くと、ユマナは曖昧な笑みを浮かべて踵を返した。その背中を見送り、クナツも長老の天幕の方に向き直る。
「失礼します。」
「よく来たな。入ってくれ。」
 年の割に張りのある長老の声を待って、中へと足を踏み入れる。2人分の視線がこちらに向けられたのは感じたが、明るい陽射しに慣れた目は、薄暗い天幕の中では急には像を結んでくれない。
「これがツバクの弟です。」
「そうですか……。」
 長老の声に続いて発せられた声は、涼やかな女のそれだった。折から薄闇に慣れた目が、髪を短く刈り込んだ女の姿を捉える。
「これを。」
 クナツが長老に促されて腰を下ろすのを待ってから、女は一枚の大きな鳥の羽根を取り出した。あっけにとられたまま、クナツはそれを受け取る。クナツの前腕くらいの長さはあろうかという巨大なその羽は、褐色で縮れていた。
「私は、わけあって旅をしていますが、ある場所でツバクという人に会い、これを渡されました。もし、大草原を渡るなら、そこに自分の育った村があるから、これを届けて欲しいと。」
「これは……。」
 言われても戸惑うばかりで、クナツは見た事のない巨大な羽の軸を指先でつまんでくるくると回した。
「ヤパの羽根だ。」
 長老は短くクナツの疑問に答えると、再び客人に向き直った。
「空を飛べない代わりに、草原を縦横無尽に駆ける強い足を持った大きな鳥です。見た目は似ていませんが……、そう、あなたの乗ってきたウマという動物のようなものだとお思い下さい。我らはヤパと共に生き、ヤパと共に在りました。この広い草原を、共に駆けて暮らしておりました。それが、いつの頃からか、ヤパたちが卵を生まなくなりましてな……。今ではこの村に1羽も残っておりません。」
 淡々と紡がれる長老の話を、クナツは黙って聞いていた。最後のヤパが死んでから、もう20年は経つ。クナツはヤパを見たことがなかったが、この話だけは幼い頃から何度も聞かされてきた。
 かつては、この村の男たちはヤパを駆って草原を自由に駆け回り、交易のあった外の街や村の者たちからも一目置かれていたのだ、と。
 ヤパを失い大地を駆ける脚を失って、村びとは広い広い草原の、この水場周りの狭い土地に留まることを余儀無くされた。かつて自由に駆け回っていた果てしない草原は、今や我らを閉じ込める檻となってしまったのだ、と嘆く大人の声は何度となく聞いてきた。ヤパの絶滅は、何よりもこの村の人間から誇りを奪ってしまったのだ。
 そして、その後数年して草原の向こうに砂の山が現れ、わき水の量も年々減っていっている。今や誰もが、無慈悲な砂に呑まれ、日に干される不安を胸の中に抱いているのだ。
 ただ、長老はそのことにまでは触れず、軽く目を伏せてその結果だけを口にした。
「そこで、村の男たちはヤパを探して旅に出ています。あなたがお会いになったツバクもその1人です。……我らには、ヤパが必要なのです。」
「そう、ですか……。」
 徒歩でこの草原を越えようとすることがどういうことか、想像がつくのだろう。女は大きく息を吐いた。じっとりとした沈黙が、天幕の中に満ちる。
「あ、あの……。」
 居心地の悪さを感じながらも、クナツは声をあげた。ゆっくりと向けられた女の鳶色の瞳が優しげに細められる。
「ツバクは……、今、どこに?」
 答えを聞かない方が良いのかもしれないと思いながらも、クナツはおそるおそる尋ねていた。
「……わかりません。私が彼に逢ったのは、一月程前です。たまたま出会って、少し言葉を交わしただけですが、私が西の方にも行こうかと思っていると言うと、この村に立ち寄ることがあれば、と羽根を預かりました。自分はまだ帰れないから、と……。」
「そうですか……。」
 胸に舞い降りた安堵と落胆に、クナツは深い息を吐いた。
「少なくとも、別れた時にはお元気そうではありましたよ。」
 そんな少年の様子をみかねてか、女は穏やかに言葉を継いだ。
「……ルース殿。ツバクの言づてをお持ち頂いた礼をしたい。天幕を用意させましたので、どうか今宵はこの村に留まって下さい。また宴の準備ができたらお声をかけさせます。」
 そこに長老が静かに口を挟んだ。女はほんの一瞬ためらった後に、微笑みを浮かべて頷いた。
「……では、お言葉に甘えさせていただきます。」
 いつしか天幕の入り口に待っていた一族の女に連れられて、客人は天幕の外へと出て行った。長老とクナツは、短い挨拶でそれを見送った。
「……クナツ。」
 しばしの沈黙の後で、長老はおもむろに口を開いた。
「……はい。」
 少年も硬い声で返事を返す。今この村に残っている男では、長の家系を除けばクナツが最年長だ。長老が客人にヤパの話を始めた時から、否、自分がここに呼ばれた時から、何を言われるのかは察しがついていた。

 遠く、赤みを帯びた砂の山が、夕刻を告げていた。数本の木が草原に長い長い影を投げる。少年は、その木の前に無言で座っていた。
「クナツ。」
 呼ぶ声に振り返れば、ユマナが立っていた。
「ユナイにここを教えてもらったの。きっとクナツはここにいるって……。」
 少女は、強張った顔に何とか笑みを浮かべると、頬を震わせた。
「ああ、この真中の一番大きな木が、ツバクの育てた木なんだ。」
 クナツは小さく息を吐いた。言葉を紡いでいれば、不思議と心は落ち着いた。
「昔、狩りに来た時に、ここに小さなリコの木の芽が出ているのを見つけたらしいんだ。」
 本当はここに人の亡骸があったのだと、後になって聞かされていたが、少年はそのことは黙っていた。おそらくそれは、村を出て草原を彷徨っているうちに力尽きた誰かだったのかもしれない。
 リコは子どもの指先ほどの甘くて赤い実をつける。その芽は、彼が最後の食料として持っていた実から出たものだったのだろうか。
 半分骨と化した亡骸に守られるように小さく伸びた木の芽を見つけたツバクは、それから毎日水を運び、砂をよけて、それを育て続けていたのだ。そして、村を去る前にクナツがその世話を引き受けた。
「木が根を張れば、砂は止まる。水もきっと戻ってくる。そうツバクはいつも言ってた。俺たちは、いなくなったヤパに頼るんじゃなくて、今のこの地で生きて行く方法を考えなきゃいけないんじゃないかって。」
 もう別れて10年にもなる兄の面影を懸命に思い浮かべながら、クナツは静かに続けた。
「でも……。」
 ためらいがちにもらされた少女の呟きの意味は、容易に知れる。それでもツバクは、生まれてくる子どもの顔すら見ずに、ヤパを探しに旅立ったのだから。クナツやユマナの父や、他の男たちと同じように。
「周りの木は、俺が種をまいたんだ。2年に1本がやっとだったっけど……。こうやって何本か育って、少しだけだけど、実もつけるようになった。」
 クナツは、少女の言葉には気付かないふりをして、穏やかに続けた。
「キアラの種をまいたんだ、この木の内側に。」
 唐突に声の調子を明るいものに変えて、少年は地面を指差した。小さな木の芽が精一杯に小さな葉を開いている。少女は、立ち尽くしたままで、視線だけをそこに落とした。
「キアラの実はリコの実と違って、たくさんとれるし、ずっと日持ちもする。だから、この木が大きくなって、実をたくさんつけるようになったら……。きっとここの暮らしも楽になる。ヤパがいなくても。」
 クナツは愛おしむように小さな木の芽をそっと撫でた。
「でも……。それには時間が必要なんだ、あと何年も。」
 軽く目を伏せ呟くように言うと、少年は言葉を切った。
「だから……、ユナイに木の世話の仕方を教えておいた。」
 今なら、なぜ兄が旅立ったのか、わかる気がした。この地で住んでいく方法を見つけるまでの時間を生き抜くためには、少ない食料と水を節約するための口減らし以上に、誰かがヤパを探しに行っているという、その事実こそが必要なのだ。
 それを知っているから、ツバクは帰ってこないのだろう、ヤパの羽根1本を見知らぬ客人に託して。1羽や2羽のヤパを連れて帰ったところで、それで村が救われるわけではないのだから。
「明日の朝、発つよ。あのお客人と一緒なら、草原を越えられる。」
 半ば自分に言い聞かせるように、少年は長老の言葉を呟いて、硬い微笑みを浮かべた。ユマナもまた、強張りそうな顔を懸命に笑顔に変えようとしているのが、見て取れた。
「ツバクは無事で草原を越えたんだ。ヤパの羽根だって手に入れたんだよ。……だから、今回は全くあてのない旅じゃない。」
 クナツは穏やかに続けた。赤い夕陽の差した少女の頬がわずかに揺れる。
 少年は、黙ったままで少女の身体を抱き寄せて、細い肩に指が食い込みそうなくらいに強く抱き締めた。いつか兄が置いていったのと同じ言葉が口をついて出そうになって、きつくきつく唇を噛んで押し込める。決して現実になることはない、真実の思いを。


「もう、良いのですか?」
「ええ。」
 見知らぬ生き物の背の上は、思いのほか上下に揺れた。かつてこの草原を駆け回ったという、巨大な鳥の背の上もこのような感じだったのだろうか。
 そんなことをふと思いながら、クナツは自分の前に座った女の声に頷いた。
 目ざす地平は橙色に染まっているが、ひやりと湿った空気は冷涼で、明け切らない藍色の空には、銀色の星が残っている。
「未練が、残りますから。」
 クナツは口の中で呟くように付け加えた。
 結局、村びとたちにはろくな別れも告げず、日の昇る前に出て来たのだ。
「……そうですか。」
 女は前を向いたままで、短く返した。
 そのまま、2人とも黙り込んだ。広い草原を踏み締める、栗毛の獣の蹄の音だけが、規則正しく響く。
 不意に、光の矢が差して来て、クナツは目を細めた。地平が金色に染まり、朝日が顔を出す。すぅっと伸びたその腕が、少年たちの影をさらって、さらに西へと、集落の方へと伸びていく。
 長く伸びた影法師が、今頃は自分の代わりに別れを惜しんでくれているだろうか。ちょうど、兄の時のように。
 クナツは小さく息をつくと、一度だけ後ろを振り向いた。生まれ育った集落は、長く伸びた影のその先の、遥か遠くに小さくぽつりと佇んでいた。そのまだ向こうで、ツバクから受け継ぎ、ユナイに託した木が、静かに砂から集落を守っているはずだった。
 別れの言葉を口の中だけで呟いて、少年は空を仰いだ。澄み切った青い空が、どこまでも続いていた。





あとがき
 たいへんたいへんお待たせ致しました。8000thHIT(いつだよ)の記念に、夜野やよいさまよりリクエストを頂きました。ありがとうございます。
 しかも、登場人物の名前に悩みまして、狩野直人さまにつけていただきました。狩野さま、ありがとうございます。
 はてさて、お題は「影法師」だったわけですが……。えーと、許して下さいごめんなさい。
 一応、恒例の言い訳をしておきますと。まず思い付いたのは、「もう1人の自分」だったりしたわけで、小さい子が時折持っている「特別なおともだち」なんかを連想したのですが、結局、どこをどう間違えたのか、「影法師」→「別れ」となりまして。本来はSFみたいな舞台にして、ラストは「足元には影さえなかった」とする予定だったのですが、何故かいじくっているうちにこうなりました。創作って不思議ですね。
 訳の判らない言い訳はこのあたりにしておきまして。大変長い間お待ちくださった夜野さま、本当に本当にごめんなさい&ありがとうございました。また機会があればリクエスト下さいませ。  

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