彼岸花


 川面を渡る風から、いつしか夏の気配が消えていた。先程まで歩いていたコンクリートの谷間に淀んでいた、身体にまとわりつくような重たい熱気がまるで嘘のように。
 涼やかな風に安堵を覚えて一つ息をつくと、ふと赤い塊が目にとまる。背の低い草の繁る河原の中でそこにだけ、異界を思わせる美しくも妖しい雰囲気が漂う。
「ばぁば、ひがんばな。きれいだね。」
 幼い孫娘も目ざとくそれを見つけ、嬉しそうに小さな指で差す。この花を見るとつい足を止めてしまう私の影響か、孫は一番にこの花の名前を覚え、見つけると指で差して教えてくれる。
 彼岸花。毎年季節を忘れずに咲く花。切なく燃える情念の炎のように、一斉に咲いて、あっという間に散ってしまう花。そして、はるかな昔にただ一度、亡き母に引き合わせてくれた、あの世とこの世を繋ぐ花。
「ああ、そうだね。綺麗だね。」
 振り向いた孫娘の笑顔に目を細めて答えれば、炎にも似た赤い花が、ゆらゆらと揺れた。

 私は幼い頃、いつも1人でぽつんといる子どもだった。生まれる前に父を戦争で亡くし、母と2人、母の郷里の田舎に身を寄せたが、母も間もなく病気で亡くなった。
 それまで育った街とは違い、人のつながりの密な田舎のこと、所詮は「よそもの」の私はいつも気が引けて、地元の子ども達の輪に入れなかった。
 村のはずれにあった小さなお堂は、そんな私にとって一番の隠れ場だった。子どもの背丈ほどもある草が繁る中、打ち捨てられたようなぼろぼろの木のお堂は、完全に村びとたちに忘れ去られていたのかもしれない。あるいは村の子ども達は、ここに近寄らないように言い含められていたのか。
 どちらにせよ、誰も来ないということは、私にとってはとても都合がよかった。雨漏りがしようが、寒風が吹き込もうが、一番落ち着く場所であったことには変わりない。私はここでは、厳格な祖母や近所の好奇の目から逃れて、誰にも気兼ねせずに好きなだけぼんやりすることも、故郷や母を思い出して泣くこともできた。
 その日も、私はお堂にいた。祖母に叱られでもしたのか、それとも近所の子どもたちにからかわれでもしたのか。今となっては覚えていないが、とかくその日は家に帰りたくなかった。辺りに夕闇が滲んでも、冷たい床の上で膝を抱えて泣きじゃくっているうちに、どうやら私は眠り込んでしまったようだった。
 ふと目を開ければ、周りはとっぷりと夜の闇に沈んでいた。ひび割れた木の壁の隙間から、さやかな光が一筋二筋差し込んでくる。
 慌てて外に出てみれば、ひんやりとした夜の空気が私を包み込んだ。あちこちからじじじじじ、と虫の鳴く声が聞こえてくる。濡れたように黒いお堂の影の中で、しばし私は呆然と立ちすくんだ。
 早く帰らなきゃ、という思いがある一方で、帰りたくない、今帰っても叱られるという思いが私の足を止めていた。途方に暮れた私は、冴えた月影に惹かれるように、影から出てお堂の裏へと回って、そして再び立ち尽くした。
 見たこともないような大きな丸い月が、漆を流したような闇色の空にぽっかりと浮んでいた。その金色の光を浴びて、地上には一面に彼岸花が咲き誇っていた。どこまでも続く赤い赤い花は、肌寒い夜風に吹かれて、さわさわと揺れた。まるで、静かに燃え立つ炎のように、そしてさざめく川の水面のように。
 彼岸花は毒があるから近寄ってはいけない、祖母に聞かされていた言葉がふと頭をよぎったように思う。けれど、次の瞬間には私は、誘われるようにその赤い川へと足を踏み入れていた。
 夜露に濡れた花がそっと触れて、私の足を冷たく濡らした。やかましく鳴いていた虫の声がはたりと止んだ。私はただ、夢中で花をかきわけて、前へ前へと進んだ。赤い花が次々に、私の手に、足に、戯れるように触れて、揺れて、震える。
 向こうまで行けば母に会える。なぜだかそんな気がした。ただただ無性に、母が恋しかった。
 冷たい草に足をとられて、私は赤い花の中に倒れ込んだ。頭の上で、赤い花がさやさやと揺れる。頬を濡らすのは夜露か涙か、もう私にはわからなかった。やっと身体を起こせば、赤い川はまだまだ果てしなく続いていた。
 向こう岸も見えないそれを呆然と見詰め、私はふと傍らの花へと視線を落とした。明るい月の光を浴びて、鮮やかな赤が誘うように、仄かに光っているように見えた。その花弁の合間に、「向こう」の世界が顔を覗かせているかのように。
 彼岸花には毒がある。それなら、これを食べたら母のところに行けるだろうか。
 ぼんやりと浮んだそんな考えに導かれるように、私は、すらりと長く伸びた、黄緑色の茎へと手を伸ばしていた。つるりとして、それでいて筋張った硬い感触が、指に触れた。
 それをつまむように握り、歯を食いしばって、小さな指にあらんかぎりの力を込める。しなやかな茎は、何度も何度も爪を立てると、鈍い音を立ててようやく折れた。弾みで赤い花が震え、漆黒の闇に月色の粉をまき散らす。
 と、それは不意に風になり、つむじを巻いた。私の前髪が吹かれ、持ち上がる。泣くのも忘れて呆然と見つめる私の前で、それは次第に大きくなり、人に似た形を取り始めた。
「おかあ、さん……」
 それは、在りし日の母の姿ではなかった。慈母でも、観音でも、天女でもなかった。でも何故か私はこの時――そして、今となっても――それが母だと確信したのだ。鋭い角も牙も爪もある、彼岸花と同じ色をした大きな鬼を。
 恐ろしげな鬼の姿をしていながら、私をじっと見つめるその瞳はどこまでも優しく、哀しげだった。そして、心が震えるくらいに、懐かしかった。じわり、と暖かい感覚が胸に広がっていく。間違いなくそれは、泣き虫だった幼い私が泣きじゃくる度に向けてくれた、母の眼差しだった。
「お母さん」
 再び呼べば、鬼は黙ったままで、哀しそうな視線を私の手の中の彼岸花に向けた。そうして、静かに首を横に振る。
「あ……」
 口に入れようとしてこの花を手折ったことを思い出し、私は少し気恥ずかしくなった。鬼にもらった暖かな懐かしさと安堵が、先程までの思いつめた鉛の塊のような重さをすっかり解きほぐしてくれていた。そうなると、自分のしようとしていたことが、ひどく馬鹿げていたように思えた。
 照れたような笑みを浮かべて、そのまま花を鬼へと差し出すと、鬼はほんの少し笑ったようだった。私の頭にそっと触れてくれた大きな手には確かに、いつも優しく撫でてくれた母の手の温もりがあった。
 その後のことはあまり覚えていない。何でも、しおれた彼岸花を1輪握りしめてお堂で眠り込んでいるところを、捜しに来た村びとが見つけてくれたらしい。
 もちろん、祖母にはこっぴどく叱られた。もう二度とお堂に行ってはならないと、きつく言い渡された。それでも数日後、隙を見てこっそりとお堂の裏に行ったが、そこにはただすすきの穂が風に揺れているだけで、赤い色などかけらもなかった。
 確かに彼岸花が、川と見まがうくらい一面に咲いていたのだと言っても、夢でも見たのだろうと誰も信じてはくれなかった。そこで会った鬼の話は、一度だけ祖母にしたことがある。祖母はひどく不機嫌な顔をして、私を叱りつけた。
「おっかあが鬼になったなじょと、縁起でもねえこと言うもんでね」
 そう言って向こうを向いてしまった。
 この世に恨みを残して死んだら、鬼になる。そんな言い伝えがまだ息吹を残しているような、田舎の村だった。あの打ち捨てられたお堂は、かつてはそんな報われない鬼を祀るために建てられたものだったと、後になって知った。
 自分の身内が死んで鬼になったなど、恥でしかない、とんでもない話だったのだ。
「……おめがしっがりしてねがら、おっかあも心配でしかたねえのよ」
 けれど、小さい声でそう言い足した祖母が本当はその時、腹を立てていたのではなく、涙を堪えていたのだと気付いたのは、ずいぶんと後になってからだった。

 それからは私も、少しずつ村の子どもたちと遊ぶようになった。学校を出て集団就職で街に来て、人並みには恋も結婚もしたし、子どもにも恵まれた。
 月日の経つのは早いもので、いつしか私も母の歳を超え、あの時の祖母の歳にも追い付いた。幼い子を遺して逝く母の無念も、それがどれほどのものか、身に沁みてわかるようになった。
 そう、きれいごとだけでは表しきれない、恨みにも等しいくらいに、それこそ鬼にならざるを得ないくらいに、狂おしいものなのだと。そして、自分より先に娘を亡くした祖母の方もまた、どんなに渋い顔をしても噛み潰しきれない程の哀しみを抱えていたということも。
「ばあば、あそこにもひがんばな」
 また向こうの方に彼岸花を見つけた孫娘が、ぱたぱたと駆け寄って行く。間近でその花を覗き込み、急かすように私を呼ぶ。
 その姿が、まるで自分を見ているようにも思えて、私は思わず苦笑を浮かべた。あのお堂に行かなくなってからも、私は彼岸花を見ればつい覗き込んでいた。
 その癖は忙しい生活の中で一度は消えかけたはずなのに、数年前から再び、否、以前にも増して、見かける 度にこの花を覗き込んでしまう。この何も知らない孫娘にすっかりうつってしまうくらいに。
 この花が、もう一度在りし人に引き合わせてはくれないだろうか。せめて、この幼子が覗き込んだなら、「向こう」にいる人がこの子の成長を伺えはしないだろうか。
 ついそんな考えが頭に浮ぶから、どうしてもこれだけはやめられないのだ。
「ああ、本当。綺麗だねぇ」
 幼い孫の隣にかがみ、私もその深紅の花を覗き込む。燃え立つ炎のような花弁の合間に、幼い孫娘を遺し、若くして逝った娘の面影を求めて。



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