女神の涙


「……ではチェックインを致しますので、こちらにお客さまのサインをお願い致します。」
 その言葉に、ようやく奈歩は少しだけ顔を上げて、ペンをとった。先程まで延々と続いていたボーイ特有のソフトな抑揚の声は、全て右の耳から左の耳へと抜けていた。
 説明など、どうでもよかった。今はただ、一刻も早く1人になって、何も考えずに部屋のベッドにもぐりこみたい。その一心だけで、差し出された紙にゆるゆると署名をして、みみずの這ったようなそれをけだるく突き返す。
 けれども、それと引き換えに出てくるはずのルームキーは、すぐには返ってこなかった。
「もう間もなく夜明けです。すぐですから、こちらでお待ちになりませんか?」
 訝った奈歩が口を開けようとしたのと、ボーイが次の言葉を口にしたのがほぼ同時だった。
「何を……。」
 奈歩は苛立ちさえ覚えて顔をあげ、そしてすぐに言葉を失った。
 初めてまともに見たボーイの顔は、浅黒い、彫りの深い顔だちで、およそ日本人のそれからは程遠かった。耳を通り過ぎる流暢な日本語から、今まで話していた相手が日本人だと勝手に思い込んでいた奈歩は、一瞬軽い目眩と頭痛に襲われて、眉を寄せる。
 その途端、先程までろくに見えていなかった周囲の様子が目に飛び込んできた。
 そこには、ホテルのクラークにありがちな、柔らかな絨毯も、石造りの柱も、皮張りのソファも、ルームキーの収まった棚もなかった。
 こぢんまりとしたロビーの数カ所には白熱灯のランプが灯され、丸木作りの壁や床はよく磨かれていて、流木を思わせる白っぽい柔らかな艶を帯びている。一枚板でこしらえた素朴なカウンターの奥には夏の海のポスターが貼られ、水着姿の日焼けした女性が白い歯を見せて微笑んでいる。
 自分がおよそ馴染みのない場所にいることに気付き、奈歩は一瞬呆然とした。ふと視線を落とせば、マニキュアがぼろぼろになって、ところどころはげかけた自分の指先が目に入る。マニキュアの色が鮮やかな赤なだけに、それはどうしようもなく惨めで、みっともなかった。
 いつも手入れをしていた爪でさえこうなのだから、一体、自分は今どんな顔をしているのだろう。慌てて指を握り込み、気恥ずかしさに俯くと、遅れてようやく思考が働き始める。
 そうだ、確かに自分は街角の旅行代理店に飛び込むなり、こう言ったはずだ。
「どこでも良いから、どこか遠くへ。1人になれる南の島にでも、できれば今すぐに行きたいの。」
 そして、身分証明書代わりにいつも持ち歩いているパスポートと、自分でも正確な額を確かめていない――それでも、やたらとたくさんゼロが並んでいた――小切手を受け付けの女性に突き出した。
 女性は一瞬目を丸くしたものの、あまりの奈歩の様子に、何か事情があると察してくれたのだろう。あるいは、取り乱した人間が駆け込んでくるのは、さほど珍しいことでもないのだろうか。すぐに手慣れた様子で極めて事務的に手続きをしてくれた。とにかく早く現実から逃れたい一心で、奈歩は行き先も確かめず、言われたままに飛行機に乗った。
 そうして、到着したのがここ、というわけだ。どうやら彼女は本当に「南の島」に送ってくれたらしい。
「お客さまは、朝焼けをご覧にいらしたのでしょう?」
 ぼんやりとした奈歩の様子を訝しく思ったのか、ボーイは大きな黒い瞳を瞬かせた。
「朝焼けを?」
「ええ、当地は世界で一番朝焼けの美しいところでございますから。」
 思わず奈歩が聞き返せば、ボーイはすぐに営業用の表情に戻って、心意の読めないやんわりとした笑みを浮かべる。
「朝焼けなんて……。」
 奈歩は苦々しく言葉を吐くと、ついと目を逸らした。多少気分は落ち着いたというものの、一刻も早く1人きりになりたい思いに変わりはなかった。自分の姿が、ぼろぼろで見るに耐えないものだと知った今ならなおさらだ。
 今すぐにでもベッドに潜り込んで、何も考えずに眠ってしまいたい。もう少しでそれが実現すると思えば、渇望にも焦りにも似た感覚が、皮膚の下でちりちりと疼く。
「今朝の朝焼けはとりわけ美しいはずです。冷えますので、ブランケットをお貸し致します。」
 が、そんな奈歩のことなど気に留める様子もなく、ボーイはブランケットを手に、カウンターの向こう側からゆっくりと歩み出た。そのまま玄関の方へと進むと、やはり丸木でできたドアを押し開ける。
「どうぞ。」
「……。」
 あまりに人の意向を無視した行動に、奈歩は一瞬唖然とした。すぐに、怒鳴り付けてやりたいような怒りがわき上がってくる。けれど、ボーイの優雅な所作にその機会を失っているうちに、それもゆっくりと引いて行った。
 諦めの溜息を1つつき、奈歩はボーイからブランケットを受け取って、玄関を出た。ひんやりとした冷たい風が、波の音を運んでくる。薄やみに白い砂浜がぼんやりと浮かび上がり、その向こうに黒光りする海が時折白い波を浮かべる。
「どうぞ、こちらに。」
 ボーイの指す方に顔を向ければ、簡単なテーブルと椅子が置かれているのが目に入る。奈歩は、勧められるままに椅子へと腰を下ろした。
「あちらが東になります。」
「……雲が出てるけど。」
 けだるく顔を上げて、奈歩は眉を寄せた。東の空は確かにうっすらと白んでいたが、水平線近くにまで濃い灰色の雲が張り出していた。
「ええ。ですが、きちんと見られますから、ご心配なく。」
 ボーイは動じる様子も見せずにそう言うと、奈歩の前にコップを置いて魔法瓶のコーヒーを注ぎ、自分も奈歩の隣に腰を下ろした。
「……。」
 奈歩は言葉を返す気もなくして、視線を落とした。コップから白い湯気が立ち上り、くせの強い香りが鼻先をくすぐった。どうも馴染めそうもないその香りに、わずかに眉を寄せる。
「当地には、曙の女神と人間の若者の悲恋話が伝わっております。」
 ボーイがおもむろに口を開いた。奈歩は、わずかに顔をあげた。話を聞きたいと思ったわけではないが、彼の柔らかな語り口は耳に心地よかった。
「ある時、その恋を快く思わなかった女神の兄神にあたる月神が、若者をそそのかしたのです。新月の夜、海底に眠る虹色の真珠貝をとってくれば恋が叶うと。けれど、月神が教えたのは、鮫の巣となっている海でした。翌朝、赤く染まった海を見て何があったかを悟った女神は、恋人の亡骸をかき抱き、ひどく嘆き哀しんだそうです。……緋色に染まる海と朝日、これが当地の朝焼けにまつわる言い伝えです。」
「……。」
 珍しくも何ともない、どこにでもある神と人との悲恋譚だ。無邪気な神と、純朴な人間との、分不相応な恋。迎える結末はいつも同じだ。愚直なまでに思いを通した人間は、代償として自分の生命を失い、無邪気だからこそ残酷な神は、ただ純粋に嘆き哀しむ。
 奈歩は、何も言わずにコーヒーを一口含んだ。喉から下へと流れ落ちる苦味と熱さは、あくまでもよそよそしく、身体に沁みていくような気配はなかった。
「日が昇りますよ。」
 ボーイに言われて顔をあげると、空に橙色の光が差していた。灰色の雲の端が明るく光る。
 不意に、視界に赤い色が滲んだ。瞬きをする暇もなく、海が鮮やかな赤に染めあげられる。
 不吉なくらいに生々しく、沁みるくらいに鮮明な緋色に声を出せずにいると、水平線の上に昇った赤い塊が目に入る。
 うるんだように小さく揺れるその赤は、まるで奈歩の胸に直接届いてくるかのようだった。女神の腕に揺すぶられたかのように、喉元がじわりと熱くなり、首筋には戦慄にも似た冷たい感覚が走る。
 厚い雲に遮られ、曙光はますますその朱を濃くして、横へと広がって行く。まるで、恋人の亡骸を抱こうと、女神が両腕を広げているかのように。そのえも言われぬ強い赤は、純粋な女神の情熱の色であり、空を裂く程の悲哀の色であり、失われ逝く命の色であった。
 響く海鳴りが、女神の慟哭のようにも聞こえてくる。濡れたように揺れながら微妙に表情を変える深紅は、まさしく神の色だった。
「……不公平だわ。」
 言葉もなくそれに見入っていた奈歩は、ふと小さく声を漏らした。赤く燃える嘆きの女神は、橙の光を名残りに、黒い雲の中へと姿を消していた。
「同じ身の程知らずの恋でも、相手が神様だとこんなに綺麗だなんて。」
 軽く目を伏せて苦い言葉を吐くと、ゼロの並んだ小切手が、それを受け取ってしまった自分の姿が、頭をよぎる。それがどうしようもなく汚れたものに思えて、奈歩は唇を噛んで首を振った。赤がまだらに残った爪を、自分の腕に突き立てる。
 言い伝えの若者のように、命を賭して朝焼け色の思いを貫くだけの愚直さが、自分にあればよかったのだろうか。それなら、自分を汚いと思わずに済んだのだろうか。それとも、最初から最後まで商売だと割り切ればよかったのだろうか。それなら、この濃厚な赤に自分の痛みを呼び起こされずに済んだのだろうか。
「今朝の朝焼けが綺麗なのは、あなたが来られたからですよ。」
 不意に降ってきたボーイの柔らかい声に、奈歩は思わず顔をあげた。
「人が真実の涙を流すのは、自分の痛みをわかってくれる人の前だけです。当地の女神も、それは同じですよ。」
 海風が、静かに奈歩の髪を揺らした。どこまでも広がる海は、神の生きていた太古の昔から変わらぬ海鳴りを響かせる。その悠然とした景色は、神の悲恋も人の破局も、同じ眼差しで見詰めていたのだろうか。
「……私が手切れ金でここに来るのも、女神様はお見通しだった、ということね。」
 奈歩は自嘲気味に呟くと、諦めの笑みを漏らした。ボーイは何も答えずに、奈歩の前に静かに鍵を押し出した。
「ロビーの奥手の方にコテージがございます。3番のコテージをお使い下さい。」
 穏やかにそう言って、ボーイはゆっくりと腰を上げた。
「すぐに雨になります。当地では普通、叩き付けるような雨が降りますが、あのような朝焼けが見られた日には、『女神の涙』と申しまして、しとしととした雨が降ります。女神の涙は、草木を育てる雨でございます。悲しい恋が、新しい生命を育てるのです。」
 ――泣いても、良いのですよ。
 そう、耳もとで囁かれた気がして、奈歩は思わずボーイの顔を見遣った。が、ボーイは相変わらず、表情の読めない穏やかな笑顔を浮かべているだけだった。そして、柔らかい口調で「ごゆっくりお休み下さい」と言い足すと、ロビーの方へと去って行った。
 独り残された奈歩は、ゆっくりと灰色の空を仰いだ。湿気を含んだ冷たい風が吹く。気付けば、海鳴りの音は一段と低いものになっていた。
 女神の涙に濡れてみるのも良いかもしれない、そう思って髪をかきあげた奈歩の頬を、透明の雫が静かに転がった。







あとがき
 大変大変お待たせ致しまして申し訳ありません。8400thHitの記念に、芹沢梓さまより「朝焼け」をお題にリクエスト頂きました。ありがとうございます。
 お寝坊さんな上に、たまに早起きしても朝はばたばたしてしまう私にとって、朝焼けってあんまりじっくり見る機会は少ないものですが、何故か、この言葉には、朝露のような透明感と脆さを感じます。やっぱり朝焼け=雨、という連想がどこかにあるんでしょうねぇ。
 と、どうもお時間ばっかりたくさん頂いて、それでも平凡な連想しかできなくて、本当に申し訳ない限りですが、これに懲りずにまたの機会にリクエストいただければ幸いです。
 この度はまことにありがとうございました。    

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