アラクネ


 石づくりの壁にぽっかり空いた窓の外を物憂げに眺めて、少女は溜息をついた。四角く抜かれた空は、どこまでもただ青く、まばゆいばかりの強い陽光が、白い街並に跳ねる。が、部屋の中は忌わしいまでに明るい外とは無関係に薄暗く、ひんやりと湿った空気が沈んでいる。
 外からは、何やら話し声が聞こえてる。陽気、というよりはただ空っぽなだけにしか聞こえない男の声と、それにおもねるような女の声と。女の方はうんざりするほど毎日聞く声。男の方は聞き覚えのない声だが、どうせ、どこかで少女の織物の評判でも聞き付けてきた客だろう。相手をする太った母親の声が弾んでいるのを聞くと、羽振りの良い客なのかもしれない。
 少女は、再び重い溜息をついて、目の前に佇んでいる大きな織り機へと目を向けた。その片隅では小さな蜘蛛がくるくると細い網を張っている。
 空いた杼(ひ:横糸をまきつける、船型の薄い板)を手に立ち上がると、蜘蛛を追い払い、ほぼ完成していた網を静かに破る。蜘蛛は、つー、と糸を引きながら床へと逃げて行った。
「蜘蛛よ……。お前は、虚しくないのかい。」
 惑うように、石の床の上を右へ左へと走る蜘蛛を見下ろして、少女は小さく呟いた。
 表の話は、どうやら終わりに近付いたようだ。母の声がいつになく上機嫌だ。きっと大きな商談がまとまりそうなのだろう。じきに、油が浮いたかのように、瞳をぎらぎらさせてここにやってくる。恩着せがましく商談の話を聞かされるのも、「誇らしい」と連発されて抱き締められるのも煩わしい。少女は織り機の脇に積んである糸の束を手にとると、慣れた手付きで縦糸をかけ始めた。
 ふと手を止めて、四角い窓を見遣る。焼けるような白い光はここまでは届かず、透き通るような青い青い空は、あくまで厚い壁の向こうにあった。なんとも言えないもどかしさに、少女は奥歯を噛み締めた。
 ――いっそ。いっそ、あの空が、落ちてくればいいのに。
 色とりどりの横糸を巻き付けた樋を手にとり、縦糸の間を通して行く。織り機に張られた縦糸のカンバスに、花が、鳥が、蝶が、次々と姿を現す。自分で生み出した、今にも動き出しそうな明るい色のそれらを、少女は冷ややかな視線で見下ろし、ただ手を動かしていた。
 誰もが、自分の織ったものを素晴らしいと誉めそやす。やれ色合いが美しいだの、描かれている鳥や蝶が生きてるようだの、重さをほとんど感じないのに充分暖かいだの。
 けれど、そんな評判を聞く度、少女の胸には言い様のない鬱屈した影が差すのだった。
 一体誰が、何をわかっているというのだろう。ただ何千回、何万回と変化のない動作を繰り返すこの手が、灰色の憂鬱に沈み込んだこの胸が、生み出した虚しい抜け殻だというのに、何故、人はあんなに明るい顔をして、あんなにうすっぺらい賛辞を口にするのだろう。
「アラクネ、アラクネ。」
 浮かれた調子の母親の声が近付いてくる。が、少女が織り機に向かっているのを察して、その声ははたりと止む。満足の笑みの気配を残して、ひきずるようなみっともない足音は次第に遠くなって行く。
 少女は、再び溜息をついた。ふと視線をあげれば、先程の蜘蛛がまたくるくると細い巣を紡いでいる。
「蜘蛛よ……。私は、お前と同じだね。」
 唇に皮肉げな笑みを浮かべ、わずかに目を細めると自嘲気味に呟く。
 ああ、もしこの技が神に与えられたものならば。どうして神は、競う相手を与えてくれなかったのだろう。相手とまでいかずとも、もっと目の利く人間を、もしくはせめて織ることの歓びを。

 拙いとしか思えない婚礼用のベールを手に、その娘はこれ以上ないというくらいの幸せな笑みを浮かべた。どんな表情をすればよいかわからず、少女は曖昧な笑みの形を作って小首を傾げた。
「ありがとうございます。父に遣いを頼んだ甲斐がありました。これで……私、心置きなく彼のところに嫁げます。」
 娘はさも愛おしそうにベールに頬を寄せ、そっと瞳を閉じた。満たされた、夢見がちな笑顔。
 少女は、複雑な心中が顔に出ないように、慎重に唇の端を持ち上げた。
 恵まれた家に生まれた、自分で機を織る必要など全く無い娘。少女に払った金の半分もあれば、これの何倍も美しいベールが手に入るのに。なのに、物好きにもわざわざ少女に教えを乞い、傷一つない美しい、そして不器用な指先で、織り目もろくに揃わない稚拙なベールを織り上げて、こんなに満足そうな顔をしている。
 胸中に、鉛のような重い、苦い塊を呑み込んだまま、少女は無難な言葉を2つ3つ残して、大理石造りの邸宅を辞した。
 虚空、という言葉をそのままあてはめたかのように。どこまでも空は虚しい程に蒼くて、白々しい程の明るい陽射しが容赦なく降り注ぐ。道ばたのオリーブの木々は、少女のことなどお構い無しに、艶のある葉を機嫌よく揺らしていた。
「おや、アラクネじゃないかい。」
 おもむろにかけられた声に、いつものように含まれた小さな妬みの棘を敏感に感じ取り、少女はほんのわずか眉を寄せた。
「外を歩いているなんて珍しいじゃないか。いつも家の中で機を織っているのに。まあ、アテナ女神の恵みのその腕を動かさないなんて、勿体無くてしょうがないんだろうけど。」
 道ばたに座り込んだ、真っ白の髪のしわだらけの老婆は、オリーブの木以上に少女の機嫌など構う様子もない。ぎょろりとした尖った視線で、少女を頭のてっぺんから足の先までねめまわす。
「……別に。それに、女神の恵みなんて……受けているとは思えない。」
 少女が苦りきった顔をして、呟くように吐き出すと、老婆は大袈裟に目を剥いた。
「おやおやおや。これはなんて事を言うんだい。女神の恩恵を認めないだなんて。まさか女神よりも上手に機を織れるとでも言う気かい?」
 老婆は、独り、勝手に自分の想像を膨らませて熱を帯びた口調で続けた。そこにはわずかばかりの愉悦と軽蔑が含まれていたが、本人は気付いていないことだろう。
「……。」
 少女は、言葉を返す気にもなれず、そのまま立ち去ることにした。背後では、まだ老婆が何かを喚いていた。
 やっとのことで自分の部屋に辿り着くと、少女は溜息をついて座り込んだ。何だか、ひどく疲れたように感じられた。酷く、身体中がだるい。
 しっとりと冷えた薄暗い空気が、強い陽に焼かれた皮膚に優しく沁みる。ふと暗がりに目を遣れば、いつものように佇む織り機。その端では、やはり小さな蜘蛛がくるくると、我関せずといった風情で、一心に網を紡いでいた。
「蜘蛛よ……。お前が、少し羨ましい。」
 少女は疲れた溜息を吐き出して、石壁に背を預けたまま、目を閉じた。

 外が騒がしい。少女は、うんざりと窓の外に視線を投げた。でっぷりと肥った母親が、二言三言喚いているのが聞こえる。
 少女がアテナ女神を侮辱したという噂は、文字どおり風のように広まっていた。この手の話題は、一種悪意にも似た人の好奇心を吸い込んで、あっという間に膨れ上がる。少女の家の周りは、あわよくば少女を非難し、あるいは親切めかして忠告しようという不愉快な来客が後を絶たない。母親はその相手に追われているようだ。言葉だけは慇懃で、こめかみに青筋を浮かせている様が目に浮ぶ。
 ――いっそ。いっそ、あの空が、落ちてくればいいのに。
 今日も、空は抜けるように蒼い。白々しい程に。
「アラクネ。」
 呼ぶ声に振り向けば、苛立ちを顔に貼り付けたままの母親が立っていた。
「全くお前って子は、なんて事をしてくれたんだろうねぇ。……まあいいわ、とにかくアテナさまのお許しを頂かなきゃいけない。丘の上に織り機を出して、神様を称える織物を織るんだよ、いいね。」
 そうして人を集めて、ついでに少女の腕を改めて観衆に見せつけ、商売に利用しようというのだろう。強欲な母親の魂胆を察して、少女は生返事を返した。もちろん、乗り気なはずはない。けれど、この母親が言い出したら聞くはずなどないのはわかりきっている。
 早速支度をしなければ、とぜい肉をゆすりながら慌てて走って行く母親の足音を聞きながら、少女は眉を寄せ、髪をかきあげた。一つ溜息をつき、どこか思いつめたような顔で、薄暗い宙の一点をじっと見据える。

 小高い丘の上からは、街が一望できた。地面から生え出たような、白い家が身を寄せあう様も、その周囲を埋めるような鮮やかな木々の緑も、そしてその向こうには、石のように冷たく硬く光る、藍色の海も。
 いつもは薄暗い部屋に沈んでいる織り機が、燦々と降り注ぐ光を浴びて丘の上に佇んでいる。そして、その隅ではいつもように小さな蜘蛛がくるくると働いていた。
 吹き渡る乾いた風に髪をなびかせ、少女はほんのわずか目を細めた。丘の周囲には、集まり始めた群集が息を詰めている。そちらに視線を向けることもなく、少女は織り機の隣に置かれた糸車の前に座り、回しはじめる。からからと心地よい音を響かせて、色鮮やかに染め上げられた羊毛は、糸へと紡がれていった。
 少女は表情一つ変えず、身じろぎ一つせず、ただ手だけを動かしていた。周囲の何も目に入らぬかのように、不眠不休で糸を紡ぎ続けた。期待に膨らんでいた観衆から徐々に不満の声が漏れはじめるのも、全く意に介さない。赤く燃える太陽が西の空に傾いても、空が闇色に染まり始めても、手を止める気配は見られない。むしろ、夜の帳が降りたことにさえ気付かないかのように、少女は糸を紡ぐ作業に没頭していた。
 三度目の太陽が傾き始めた頃に、少女はようやく手を止めた。無言のままですっくと立ち上がる。強い陽光に焼け、やつれた横顔の中で、灰色の目だけが爛々と燃えるように輝いている。
 少女は休憩を入れるどころかよそ見さえせず、続いて織り機に縦糸を掛け始めた。すっかり飽きて、数もまばらになっていた観衆が、いよいよとばかりにざわめく。少女は黙ったまま、硬い視線で杼を睨み付けながら、横糸を巻き付ける。
 しばし織り機を睨んでから、おもむろに少女はうっすらと口元に謎めいた笑みを浮かた。そして、縦糸の間に杼を通し始める。最初は確かめるように通されたそれは、徐々に速度を上げる。少女が機を織り始めた気配を察して再び増えてきた観衆から溜息がもれる。空中でくるくると舞う少女の両手の動きは、それ自体が一流の芸術だった。そして、その跡が織り機の上に美しい白鳥の翼を描く。
 赤く燃える夕日が、海に迫る。朱に染め上げられた少女は、まさに鬼気迫るばかりの凄まじさで、機を織り続けた。すっかりその迫力に圧倒された人々は、あるいは言葉を失ってただ溜息をつき、あるいは興奮にまかせて少女への賛辞を早口で隣人に囁いた。ただ、その視線だけは一様に、織り機から流れ出る布地へと注がれていた。
 最前列で、それまで満足そうな顔をして少女の手際を見守っていた母親が、不意に息を呑んだ。その隣に立っていた女が掠れた悲鳴をあげる。
「何てことを……。」
 1人の老婆は嘆くようにそう呟くと、藍色に染まり始めた空を仰いだ。
 群集はざわざわとざわめき始めた。もはや誰もが、今織り出されている白鳥がレダを誘惑するゼウスであると認識したのだ。よりによって女神の父神さえをも侮辱するその織物に、人々は恐れ、おののきながらも目を離せなかった。それほどまでに、織物も機を織る少女も凄まじい程に美しかった。
 少女は、ただただ一心不乱に手を動かした。今この世界には自分しか存在しないかのように。いつしか、とっぷりと日が暮れ、手許を照らすのが冴えた月光だけになっていても、全く気にならない。まるで、自分の内側から自分でない何かが突き上げてくるかのように。胸が高鳴る。血が踊る。自分でも信じられない程の精密さで手が動き、神々の不実を綴っていく。
 一体、いつまで続くのだろう。誰も身じろぎ一つしない。月が静かに西の空へと渡る中、機の音だけが響く。
 やがて、東の空が白み始めた。織り機から長く流れ出た布には、神の浮気譚や失敗談が既にいくつも描かれている。観衆はもはや言葉を失い、ただ食い入るように呆然と少女の作業を眺めていた。海の向こうから姿を現し始めた太陽に、人々はなんとなく安堵の息をつく。が、それは同時に西の空に湧いてきた黒雲をも照らし出した。
 雲は滑るように空を覆い、やがては太陽をも呑み込んだ。地上に重い影が差し、低い雷鳴がゆっくりと地を揺るがすように響き始める。それまで織り機の隅でいつものように細い網を紡いでいた小さな蜘蛛は、慌てふためいて地上に逃れる。人々は神の怒りに怯え、口々に祈りの言葉を唱え、泣き声をあげて赦しを乞う。
 少女は初めて群集へと目を向けた。その灰色の瞳に冷ややかな光を湛え、立ち上がる。いつしか、織り機の傍らに積まれていた糸はすっかりなくなっていた。少女は周囲にゆっくりと視線を巡らせる。呆然と立ち尽くし、言葉を失った母親。ひたすら祈り続ける老婆、怒りとも怯えともつかない表情を顔に張り付かせたままの男。震えながらしっかと傍らの母親にしがみつく幼子。
 少女は、唇に冷笑を浮かべたままで、再び織り機を見下ろした。最後に描かれたのは、今にも落ちてきそうな空の下で糸を紡ぐ、一匹の蜘蛛。
 未だ胸は高鳴り、血は沸くのに、頭は氷のように冷徹だった。奇妙なことに、自分がどうかしてしまったのではないかという動揺と、それさえをも冷たく見据える冷静さを、同時に自分の内側に感じる。
 少女は小さく嘆息してから、目を細め、唇の端を吊り上げた。おもむろに手にした杼を高々と掲げたかと思うと、勢い良くそれを叩き折る。それが合図であったかのように、空が光り、同時に空を引き裂くかのような雷鳴が轟く。
 人は悲鳴をあげて地面に伏せた。無表情のまま立ち尽くす少女の目の前で、天から降ってきた火柱が、織り機を砕く。
「はは………あはははは。」
 跡形もなく壊れ炎を上げる織り機の前で、少女は泣き声にも似た、甲高い笑い声をあげた。
 折から叩き付けるように、大粒の雨が降り始める。頭の先から濡れ、身体中から雫を滴らせながら、雨音を縫って響く程の声で、少女は高らかに哄(わら)い続けた。
 ――だって、私はもう、「アラクネ(蜘蛛)」じゃない。  






あとがき
カン=デーギュさまに4000thHITの記念にリクエスト頂きました。ありがとうございます。お題は「今にも落ちてきそうな空の下で」です。どこがじゃっというツッコミはお許し下さいませ。
このお題からは、思春期の出口やら、落城前夜の将軍と将校やらを連想したのですが、何故か書いてみたらギリシア神話モチーフ沙倉風味の短編になってしまいました。どうも、私、2つくらいのものの間で迷うと、突拍子のない第3の選択肢にとびつく癖があるようです。
ちなみに、主人公の最後の台詞の「アラクネ」には「機織り女」の意味もありますが……。
とまれ、どうかこれに懲りずに、またリクエスト下さいませ。
ちなみに、この話の原典の方も、いずれどこかにご用意しようかと思っています。何しろ、いろんなパターンのある話ですので……。

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