あの青年の言葉が胸にひっかかっていたせいだろうか。どうも仕事中だというのにぼんやりしていたらしい。
「マリア。」
呼ばれて、少女ははっと我に返った。屋敷の主人であるグッゲンビュール老人がテーブルについたまま、怪訝そうな顔をしてマリアを見ている。
「ふふふ。今日は朝からクラウスさんとこの作品見せてもらって、ぼうっとしちゃったのかしら。」
彼の向かいに座った老婦人が、優しげな顔で上品に微笑む。
「いえ……。そういうわけじゃ……。」
マリアは俯いて顔を赤らめた。夕食の準備を済ませて、二人に食事を出したまでは良いが、その後の給仕の仕事を忘れてぼんやりしてしまっていたらしい。
「済みません……。あ、あの、何か、不手際でも?」
慌てて2人の顔と、さして大きくはないが重厚なテーブルの上へと、視線を慌ただしく走らせる。改めて見ると、2人ともまだ食事に手をつけていない。背中に冷や汗が滲むのを感じながら、マリアはおそるおそる尋ねた。
「いいえ、そうじゃないのよ。」
そんな少女の様子に、夫人が苦笑を浮かべてやんわりと首を振る。
「その……。マリアも自分の分を持って来て、ここで一緒に食べないか?」
老人が、夫人の言葉を継いだ。
「え?」
思わずマリアは大きな目を瞬いた。予想外と言えば予想外でもあり、彼等らしいと言えば非常に彼等らしい。
「……そういうわけには、いきませんから。あたしは旦那様と奥様に雇われている身ですし。」
「……そうか。」
マリアが俯いて済まなそうに返事をすると、老人も老婦人も、子どものように残念そうな顔をした。この街一番の大地主でありながら、この2人は、強欲なところも傲慢なところもなく、非常に気さくな人柄の持ち主だった。
そして、他人のために金を出すのを惜しまず、新しい作物を植えたがっている農民にはそのための土地を提供し、新たな商売をしようとしている人には快く資金を貸す人でもある。マリア達のような孤児を引き取って育てている教会を援助しているのも彼等であり、素性も知れない青年の才を早くに見抜き、仕事とその場所を提供したのも彼等であった。
マリアは、彼等のこの気さくさが好きであったし、気取らぬ態度に敬愛もしていた。この2人の無邪気な願いを断るのも心苦しかったけれど、それでもやはり、自分の立場はわきまえるべきだと心得ている。
「いや……。実は、だな……。」
老人は、ためらいながらも食い下がった。さっぱりとした気質の彼にしては珍しい。さらに、戸惑ったような表情を浮かべ、婦人と顔を見合わせる。婦人も困ったように小首を傾げた。
「?」
状況がよく読めずに首を傾げていると、2人は頷きあい、同時にマリアの方へと顔を向ける。老人が静かに、それでも意を決したように、口を開く。
「マリア。お前は気立てもいいし、私達に本当によくしてくれている、優しい子だ。私達は、本当にお前のことが好きだし、大事に思っているんだ。だから……、マリアさえよければ、だが……私達の娘になってくれないか?」
「……え?」
今度こそ晴天の霹靂といった風情で、マリアの頭の中は真っ白になっていた。じん、と頭の芯が痺れて、指先が冷たくなっていく。
「ほら、私達には子どもがいないから……。貴女が娘になってくれて、一緒に暮らしてくれたら……どんなにいいかしら……って。」
控えめな夫人の声も、頭の上をただ素通りしていく。
「もちろん、マリアがよかったら、の話だよ。無理をすることはない。返事だって急ぐ必要ないし、何ならこのまま忘れてくれても構わない。急に勝手な話をして、すまなかったね。」
よっぽど呆けた顔をしていたのだろう。老人が苦笑をして話を打ち切った。
「はい……。」
未だ茫然としたままで、マリアが頷くと、夫人が再び上品な笑みを浮かべる。
「ありがとう、マリア。食器の後片付けは私たちがしておくから、今日はもうお帰り。暗くなると足元が危なっかしいからね。……ああ、そうそう、野菜をたくさん頂いたのよ。そこの籠に入れておいたから、持って帰ってちょうだい。神父さまにもよろしくね。」
「はい……。ありがとうございます……。それでは、失礼します。」
少女は、なんとか頭の中からそれだけを紡ぎ出すと、深々と夫婦に頭を下げた。
屋敷の外に出ると、西の空は茜色に染まっていた。少女は天を仰ぎ、大きく溜息をついた。けれど、どんなに大きく息を吐いたところで、胸にわだかまる鈍い違和感はそのままで、出て行ってはくれない。今度は、かるく唇を噛んで、俯く。
何なのだろう、この胸に居座った、石のように硬くて重い感覚は。あの夫婦のことは大好きだし、彼等がそこまで自分のことを大切に思ってくれているのは、掛け値無しに嬉しい。けれど……。
ただそこに止まっているのが苦しくて、マリアは足を進めていた。右手に野菜籠の重みが、ずっしりと響く。薄暗くなってきた足元だけを見つめて、何も考えないように努めながら、マリアは歩いた。
街はずれの小屋の前に来て、少女は足を止める。煙突からは、いつものように煙が昇っている。
何となく、ここに足が向いてしまったらしい。マリアは一瞬躊躇ったが、まだできていない注文の品を取りに来たという口実があったことに気付いて、そっとドアを押した。
「こんにちは。」
ドアは開くが、返事は返ってこない。少女はそっと自分の身体を小屋の中に滑り込ませた。
「こんにちは……あ。」
再び声をかけて、マリアは慌てて手で口を塞いだ。青年は炉の前に座り、険しい顔をして睨むように坩堝(るつぼ)を見つめているところだった。
「ごめんね、今、手が離せないんだ。」
マリアの訪問に気付いてはいたらしい。青年は、振り向きもせずに、緊張感を含んだ声でそう言った。
「頼まれてたのは、そっちの棚に置いてあるから、持って行ってくれる?」
「あ、はい……。」
すっかり気圧されて、マリアはそれだけを答えると、慌てて棚の方へと視線を転じた。ちらりと振り向くと、青年はちょうど炉から坩堝を下ろそうとしているところだった。棚にあったそれらしき包みを、気もそぞろに籠の野菜の合間に押し込む。
再び、青年の方に目を遣ると、熱く溶けた金属を型に流し込んでいるところだった。目を焼くような赤い光が、坩堝から流れ出す。大粒の汗を浮かべた青年の厳しい横顔が、赤く照らし出された。
用事は済んだというものの、そこを立ち去る気にはなれずに、マリアはただ佇んで青年の手際を眺めていた。少女がじっと見つめる中で、ただの溶けた赤い液体だったそれは、青年の手によって、金と銀の双月の髪飾りへと姿を変えていく。どちらかというと無骨な、厚い手の中で、雫を滴らせるのではないかと思わせる程に、艶やかで滑らかな2つの三日月が優しげに寄り添っている。
きっと、これを身につける人は、真直ぐ流れる黒髪の持ち主なのだろう。夜空のような髪の上で、控えめな柔らかい光を放つ双月を夢想して、少女は溜息をついた。そして、自らのくせっ毛の赤毛の毛先をつまんでみて、再び別の意味での溜息をつく。
「おや。」
作業に熱中していた青年は、やっと、まだマリアがそこにいることに気付いたらしい。普段通りの穏やかな顔に、ほんの少しだけ怪訝そうな表情を浮かべた。
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