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エピローグ

「……けどね、そうそう『命と引き換えに』なんて願っちゃいけないよ。人の領分を超えることには手を出すもんじゃない。」
 長い話を終えて、老人が最後にそう付け足すと、傍らで聞いていた幼い少女はこっくりとうなずいた。しかし、隣に立つ年嵩の少年は、難しい顔をして考え込んでいる。
「でも……、それでも守りたいものがあったら? 命より大事なものがあったら?」
 まっすぐな視線を向けてそう言った少年に、老人は軽く目を見開き、そして優しげに微笑んだ。節くれだった手で、少年の柔らかな髪を撫でる。
「……そうだな。でも、これだけは忘れちゃいけない。お前がいなくなったら悲しむ人もいるんだから。」
 言って、老人は少女の方へ柔らかな視線を向けた。少女は、不安げなまなざしで兄を見上げる。聡明な少年は、少し照れたような顔をして妹を見返し、その小さな肩を抱き寄せた。途端、少女はにっこりと微笑む。老人は、深いしわの奥の目をさらに細めて、その様子を眺めていた。
「さ、寒くなってきたから、お前たちはもう帰りなさい。お母さんが待ってるだろう?」
「おじいちゃんは?」
 老人の促しに、少女が小首を傾げて問い返す。
「私はもう少し、ここにいるよ。」
 含んだような老人の笑みに、少女は2、3度目を瞬かせた。が、素直に頷き、兄と連れ立って帰っていく。きゃあきゃあとふざけあう二人の背中を、老人は微笑みで見送った。
 ふいに、静寂が訪れる。冬の気配が色濃くなってきた街の夕暮れ。行き交う者もいない。老人はそっと空を見上げた。厚い灰色の雲がたれ込め、今にも泣き出しそうな空だった。
 街はずれ。今は使われていない小屋の前の石段に、来る日も来る日も老人はぽつりと座っていた。まるで誰かを待っているかのように。その髪もひげも真っ白で、顔には深いしわがいくつも刻まれている。背筋もすっかり曲がっていたが、しわの奥に隠れた濃い茶の瞳は、いつも深い光を湛えていた。

 ふと、人の気配を感じて老人は顔を上げた。いつからそこにいたのだろうか。旅用の重い外套を着込んだ小柄な人影が静かに佇んでいた。その手には、布を巻き付けた長い棒状の荷物を持っている。その端に、鮮やかな赤の宝玉が覗いているのに気付いて、老人は目を見開いた。
 老人の表情が変わったのを認めて、その人物はゆっくりと頭にかぶっていたフードを払った。亜麻色の長い髪がはらりとこぼれ落ちる。それは、まだ年端もいかぬ少女だった。が、その表情はおよそ少女らしい愛らしさとは無縁で、凪いだ湖面のような静けさを保っていた。
 老人の顔に、驚嘆とも悔恨とも、懐古ともつかぬ表情が浮ぶ。それを少女は無言のままで、澄んだ静謐の眼差しで眺めていた。
「……私を、迎えにきてくれたのかい?」
 果てなく続くかと思われた沈黙の後に、とりつくろうように、老人は何とか言葉を探し出して口にした。
「……。」
 少女は表情を変えることなく、軽く瞳を閉じて静かに首を左右に振る。
「それでは……。君は……。」
 老人は、息詰まったかのような掠れ声をあげた。その苦しげな表情に、少女は微かに目を伏せた。静かに口を開く。
「……もう、これ以上の犠牲は必要ない。いつか、あなたが言ったように……。これは、わたしの業。あなたが気にすることではない。」
「しかし……。私は何も知らずに……。私は、君の苦労も知らずに……。私は、妻も子も孫さえも得て……。なのに……。」
 うつむいて肩を震わせる老人に、少女は小さな溜息をついた。
「あなたが……自分の人生を幸せだと思ってくれたなら、それでいい。あなたが、満足できる生を過ごしてくれたなら、それで、報われるというもの……。それに……、そう悪いことばかりでもないさ。例えば、今こうやって、あなたを見送ることもできる。」
 少女の言葉に、老人はぽかりと口を開けたままで顔をあげた。少女は、ほんの少し唇を持ち上げて、小さな笑みを形作った。わずかに強張ったそれは、彼女が慣れない表情を努めて作っていることを物語っていたけれど。
「わたしは見届けに来たんだ、あの人の代わりに。」
 言って、少女は老人の隣に腰を下ろした。老人の両の瞳から涙がとめどなく溢れ出す。ともすれば嗚咽と共に口から出そうになる詫びの言葉を、彼は必死で呑み込んだ。いかに心を込めていようとも、それは、彼女に対する侮辱にしかなりえないと感じたから。
「……私が……眠ったら……、仲の良い兄妹の夢を見ても構わない……だろうか……。」
 一言一言、躊躇うように老人は言葉を選ぶ。少女はゆっくりと空を仰いだ。
「好きにするといい……。もう、いや、元より、あなたを縛るものは何もないはずだから。ただ……。」
 抑揚のない口調で淡々と言いながら、少女は一度言葉を切った。乱れているというわけでもないが、呼吸を整えるかのように、小さく息をつく。
「ただ、その前に……。もしも覚えているのなら、名前を……。わたしの名を、呼んではくれまいか……。」
 もう他に呼んでくれる人はいないだろうから。
 聞こえるか聞こえないかの声でそう続け、少女は顔を伏せた。
 老人は、泣き顔にも笑い顔にも似たくしゃくしゃの顔を、少女へと向ける。
「忘れるはずなどない……。君は、私の大切な友人の妹なのだから……。忘れるものか、忘れるはずなどないよ、アイリス。」
 節くれだった手を、少女の白い頬へと伸ばす。柔らかな肌は冷えきって、それでも老人の指先を濡らす雫だけが温かい。

 灰色の空から、綿毛のような雪がひらひらと舞い降りる。
 少女は、ゆっくりと立ち上げる。石段に残っていた温もりは、冷えた空気に溶け込んでいく。少女は身を包んでいた外套を脱いで、安らかに瞳を閉じた老人に、そっとかけてやった。彼は、今頃、望んだ夢でも見ているのだろうか。
「……ありがとう、クラウス。」
 少女は小さく囁くと、唇だけで微笑んだ。ほんの少しだけ名残惜しげに目を伏せて、寒空に華奢な肢体が晒されるのを気にする様子もなく、踵を返す。
 折りから、雪が勢いを増した。風のない灰色の空に、大きな雪が、音も無く浮ぶように舞う。大粒の雪は、やがて少女がそこにいた微かな痕跡を静かに呑み込んで、尚しんしんと降り続いていた。

あとがきへ

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