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3、魔女たる者
深い闇の中を、どこまでもどこまでも墜ちていく。上も下も右も左もわからない暗闇の中なのに、何故か「墜ちる」感覚だけは、はっきりしていた。
それを不思議に思う間もないうちに、とぷりと重たい水音がする。温い、ねっとりとした水の中に、身体が頭の先まで呑み込まれる。
ゆっくりと身体を起こす。深いと思われた水の深さは、なぜか膝程で留まっている。濡れた手の甲を、闇の中にかざす。とろりと、指の間から肘の方へと液体が流れ出す。ねっとりと、重たい匂いが鼻孔へ届く。
ああ、これは。
何故、それとわかるのか、疑問は湧いてこない。不快感も、畏怖も、嫌悪も。まるでどこかが麻痺したかのように。
これは、同胞たちの、血……。
白々しい、と表現したくなる白。目に眩しいわけではない、けれど、温もりの感じられない、灰色に近い白。 薄く開いた瞳に飛び込んで来たのは、ただの色だった。痺れたような頭より先に、ひどく重たい四肢にわずかばかりの感覚が戻ってくる。滑らかで柔らかい、布の感触。
やがて、少しずつ視界が鮮明になる。やや煤けた灰色の天井。色褪せた壁紙には、かつて花が描かれていたと思われる、ぼやけた紅い斑点。そして、壁中にいくつも並べられた大きな窓からは、レースのカーテン越しに白い陽光が射し込んでいる。間近に落とした視線が白いシーツを認識するに至って、ようやく自分がベッドに寝かされていることを認識する。
未だ夢の中にいるのか、目醒めているのかさえ曖昧で、けれどもそれをはっきりさせるのも、この上なくおっくうに感じられた。
それでも、何とはなしに身体を起こそうとする。その途端、身体中に鋭い痛みと鈍い痺れが走る。まるで身体がばらばらになってしまったかのように。自分の手足がどこにあるのか一瞬わからなくなって、思わず眉を寄せた。ただ、それだけの動作でさえ、何とも言えない痛みを伴う。
「お目覚めですか、アイリス。」
唐突にかけられた声に、ゆっくりと顔を向ける。身体中が軋み、胸が引き攣るように痛む。わずかに目を細めながらも、上体だけはどうにか起こして、声の主を伺う。
見覚えはあっただろうか。長い銀髪を揺らした、この世のものとも思えぬほどに端正な顔だちをした男。が、せっかくのその美貌も、白い陽光に満たされたこの部屋では、どこか薄く白んで見えた。一見して人外の者であることは明らかで。疑問を口にしようとして、唇をほんの少し動かす。しかし、とっさに声の出し方を思い出せない。
「4ヶ月しかたってないのにもう動けるんですね……。やはり、こういった点では人間の方が丈夫なのですね。これが私なら、数十年は動けないところなんですがね。いえ、ひょっとすればもう二度と……。」
男は、憂いにも似たなげやりな笑みを浮かべて、言葉を継ぐ。それでも、少女に向けられた視線だけが、鋭さを失っていない。
「……あなた、は……?」
今度はどうにか掠れた声が出て、少女の胸に一抹の安堵にも似た感覚が、じわりとしみこむ。
「おや。」
男は片眉を跳ね上げて軽く首を傾げた。
「覚えておられませんか? まあいいでしょう。無理もないことですし……。私はミシェル・ハインリッヒと申します。以後、お見知りおきを。」
「……ここは?」
恭しく一礼して見せたミシェルの様子が目に入ったのか入らなかったのか。アイリスはそれに反応することなく、無感情に短く尋ねた。
「私の城ですが……。ついでに言えば、ここはアリアの育った部屋ですよ。」
ミシェルは別に気を悪くしたふうでもなく、さらりと答えた。ただ、その言葉にほんのわずかの含みを込めて。
「……アリア師……。」
それまで、全くの無表情だった少女の顔がわずかに曇る。その様子をどこか複雑な表情で見下ろして、ミシェルは小さく嘆息した。
「気にして、いるんですか?」
「……。」
少女は、俯いたまま答えない。ミシェルはそんな少女をじっと見つめる。
「私の目が何色に見えますか?」
唐突な、脈絡のない問いに、それでも少女はゆっくりと視線を持ち上げた。それを静かにミシェルへと向ける。透徹した翡翠の眼差しは、澄み切っているようでいて、底が見えない。それはあたかも死せる湖のように冷涼で、全てを見透かすのではないかと思わせる程に伶俐だった。
「……灰色に。」
アイリスの答えを聞いて、ミシェルは視線を宙へと逃がした。軽く両目を瞑り、再び溜息をつく。
「……魔女の巣立ちだとか継承だとかは、だいたいあんなものです。貴女が気に病む必要はありませんよ。……アリアは貴女が大切で仕方なくなった、それが魔女としてあってはならないことだった、ただそれだけです。」
後半部分は口籠るように呟いて、ミシェルはアイリスの目の前にスープの入った皿を突き出した。質問も反論も封じるかのように。少女は、薄い湯気をあげる皿に視線を落とし、次に訝るようにミシェルを見上げる。
「心配は要りません。私だってきちんと人の食するものは心得ています。」
ミシェルがどこか茶化すように言い放つと、少女は眉を寄せた。ほんのわずか、唇を動かす。食欲など湧こうはずもないのだろう。
「食べなさい。」
アイリスが「要らない」と口にするより早く、断定的にそう言うと、ミシェルは少女に皿を押し付けた。彼女が仕方なくスプーンを手にとるのを確認すると、さっさと踵を返す。
「どうも私は、日の当たるところは好きになれませんのでね。失礼させて頂きます。……ここには、いつまでいてくれても構いません。もちろん、出て行くのも貴女の自由です。ゆっくり考えるといいでしょう。どうせ、時間は腐るほどあるでしょうから。」
どこか物言いたげな少女の視線を感じながらも、振り向くことなくミシェルは部屋を後にした。かちり、とスプーンが皿に当たる小さな音が、静かに響いた。
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