目を閉じていればよかったのかもしれない。耳を塞いでしまえばよかったのかもしれない。
アイリスは、身体に響く鈍い音に少しだけ顔をしかめながら、目の前の床に剣が突き立てられるのを見ていた。すんなりと伸びた、均整のとれた銀色の刃。何よりもその柄の先端に戴く鮮やかな紅い玉が目を惹く。華美な装飾があるわけではないが、品のある美しさをまとった剣は、その外見とは裏腹に、あまりにも惨い記憶を呼び起こす。忘れようにも忘れられない、血の記憶。そして、失われた同胞たちの想い。
少女は明らかな怯えを顔に貼付け、細い刀身を辿るように視線を持ち上げる。その先に行き着いた師の瞳に昏い光が宿っているのを認めて、少女は再び息を呑んだ。身体中が呪縛されたかのように凍り付く。
視線を逸らすこともできず、ただ見つめた師の口元が静かに動き、氷のように冷たく重い声が漏れ出る。
「人の世なんて……人の秩序なんて、壊してしまえばいい……。己の恩恵も知らず、全ての理不尽を魔女に押し付けてぬくぬくと暮らしている人の世なんて……。この剣にはそれだけの力があるし、貴女にはそれを扱う資格がある。」
「アリア、師?」
師は何を言っているのだろう。今起こっていることが信じられずに、アイリスは震える瞳でアリアを見上げた。
こんなアリアは見たことがない。師のこんな声は聞いたことがない。アリアがこんなことを言うはずがない。少女は、ほとんど泣き顔でアリアを見上げた。何かを言おうと唇を動かすが、喉が引き攣って声が出ない。視線に乗せた彼女なりの必死の訴えも、表情を消した師には届かない。
「貴女なら……、渾沌の中でも自分の身一つと、ついでにその子くらいは守れるはずよ。」
「……。」
何が。どうして。どうなって。どこで。嘘。何故、何故、何故。
頭の中が真っ白になる。膝が、震える。冷たい汗が、首筋を流れる。地面が揺れるような錯覚を覚える。少女は夢中で、ただ夢中で、ちぎれるくらいに首を左右に振った。それで悪夢を追い払おうとしているかのように。ただ、早く醒めてくれることだけを願って。いつもの師の、少し呆れたような溜息が振ってくることを望んで。
「魔女は、その力のせいで、人に疎まれ、嫌われ、憎まれる。魔女の末路なんて……決まってるのよ。」
「あ……。」
その言葉は、あまりに乾いていて、投げやりで、そしてひどく重く、哀しくて。あたかも、全てを拒む落し戸のように。
乾いた頬を、涙がひと粒こぼれ落ちる。それが合図であったかのように、何かが音をたてて崩れ落ちる。身体中の力が、急激に抜ける。それを絶望と呼ぶことも知らず、少女はただ目を見開く。見慣れたはずの小屋の中。視界に映る人が、調度品が、急激に輪郭を失っていく。
「アイリス、ダメ、抑えて!」
耳もとで必死に叫ぶ、精霊の小さな声も、もはや少女の頭の中で意味を結ばない。信じられない現実に、少女は自らの主体性をほとんど放棄してしまっていた。その揺らぐ心そのままに、乱れる彼女の魔力を律するものは、なにもない。
「ダメ! 暴走しちゃう、抑えて!」
相棒の叫びを、どこかひどく遠いところで聞いたような気がした。そこここで何かが軋むような音が響いているようにも思われる。けれど、ますます遠ざかるそれを引き止める術もなかった。少女の記憶は塗り込められた白の中へと押し流されて消えて行った。
張り詰めた空気に細かく震えていた板壁が、ついに耐え切れず、甲高い音を立てて裂ける。弾けるようなその破裂音は、急速にアリアを現実へと引き戻した。未だ頭にぼやりとした靄のような感覚は残っているが、突き上げてくるような熱を持った黒い塊は、冷めたように引いていく。アリアは考えを巡らせるかのようにわずかに視線を泳がせ、が、すぐに異様な雰囲気に気付いて眉を寄せた。
色を失って立ち尽くした少女の周りに、コントロールを失った彼女の魔力が渦巻き、膨れ上がっている。それはアイリス自身のみならず、既に周囲を巻き込もうとしていた。床も、壁も、テーブルも、悲鳴をあげるかのように震え、軋み、ついには裂け目を走らせる。
「私は……何を……。」
唐突に、あまりにも鮮明に自分の心を把握して、アリアは困惑せずにはいられなかった。それがさらに戸惑いを呼び、表情を繕うことさえままならない。
そう、自分はこの少女を失うのが、他の誰かに奪われるのが、怖かったのだ。彼女が、自分の元を離れてどこかに行ってしまうのが。
にわかには信じがたく、かといって否定するには、それはあまりに鮮烈で鮮明だった。恐怖にも似た感覚に囚われて、アリアは思わず眉間を押さえた。それが一瞬、彼女の反応を遅らせる。
不意に鋭い衝撃が走り、黒髪が一筋切れて宙に舞う。弾かれたように慌てて顔を上げて、弟子を見遣る。無気味な静寂を孕んで限界にまで膨れ上がった魔力の渦が、ところどころ綻び始めていた。その綻びの一端が自分を襲ったのだとすぐに理解する。
「アイリス?」
まずい。止めなければ取り返しのつかないことになる。そう思ったアリアは反射的に手を伸ばしていた。自分の魔力を整えることも忘れて。
「……っ。」
形にならない悲鳴にも似た声を漏らしたのは、誰だったのか。強い目眩と耳鳴りに似た感覚に覚えた次の瞬間、空間が避けたかのような衝撃と目も眩むような光に、全てが呑み込まれた。
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