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2、凍れる時間 

 少女の後ろについて入ってきた女の子を見た途端に、アリアは思わず眉を寄せていた。その気配を察してか、幼子の顔が強張る。慌ててアイリスが幼子をかばうように前に進み出た。
「あ、あの、この子、行くとこ……ないんです。ほ、ほら、もう暗くなっちゃいましたし……。」
 勢いで前に出たまではいいが、アリアの鋭い視線に射抜かれて少女は口籠った。上目遣いで師の顔色を伺いながら、語尾を濁す。
「ね、だから今夜は……。」
 ごまかすように視線を泳がせながら、師の返事を待たずに幼子の方に向き直る。女の子は、しがみつくようにアイリスの腕をしっかりと掴み、まっすぐな視線で少女を見上げた。はしばみ色の大きな瞳が、不安の色を映し出す。
「もう疲れちゃったよね? あたしのベッドこっちなの。」
 アイリスが自分の部屋へと続くドアを差すと、女の子は無言のままで小さく頷いて、素直にそれに従った。
「……。」
 弟子に促された幼子の姿が扉の向こうに消えるのを、アリアは黙って見つめていた。アイリスは幼子を見送り、扉を閉めて、おそるおそるといった風情で振り返る。堅い表情のままで師の前まで来ると、その向かいに小さくなって腰を下ろした。
「……ごめんなさい、アリア師。」
 膝の上で拳を握りしめ、少女は身を硬くして俯いた。
「アイリス。」
 師の容赦ない冷厳な声に、ますます小さくなる。
「ここがどういう場所か、話したわね。」
「はい……。わかってます……。それは……わかってるんです……。」
 少女はうなだれたままで、呻くように言葉を絞り出す。
 幼い頃、初めて訪れた街で、魔女として石で追われたことは決して忘れられようはずもない。魔女が人に仇なす存在として目の敵にされていることも、そのためにアリアがこの一帯に結界を敷いて決して人目に触れないようにしていることも、承知している。そしてもちろん、自分のしたことがその師の心に反することも、充分。
「それでも……。放っとけないんです……。あの子も、還る場所がないんですから……。」
「……。」
 アリアはぴくりと片眉を跳ねあげた。もし手許に書物でもあったなら、とっさにそれを少女に向かって投げ付けていたかもしれない。それほどの衝動を確かに自覚して、それでもその理由もわからなくて、アリアは少なからぬ戸惑いを覚えずにはいられなかった。しかし、何より彼女を戸惑わせたのは、伏し目がちに憂いを浮かべた少女の表情だった。床に落とされた、少女のどこか大人びた視線は、明らかにアリアの知らない世界を見ていた。
 あたかも見も知らぬ他人を目の前にしているかのような錯覚を覚えて、きつく眉を寄せる。何とも言えない黒い違和感の塊が、胸の中に渦巻き始めていた。
 そのアリアの表情を咎めととったのだろうか。少女はやや蒼ざめた顔で、唇を噛む。けれど、そこには一種思いつめたような決意が宿っていた。
「ごめんなさい……。でも……。あの子の面倒はあたしが見ますから……。」
「面倒を見る? あなたが?」
 覚えず氷のような棘を含んだアリアの口調に、少女はびくりと肩を震わせた。
「だって……。あの子は、あたしの妹になってくれるって言ったんです。だから……。もちろん、普通の子をここに置いてちゃいけないっていうのはわかってます。だから……。」
 −−その時には、あたしも一緒に……。
 消え入るような最後の言葉は、実際に囁かれたのかどうか。少女は曖昧な表情を浮かべたままで、おもむろに立ち上がった。
「あたしも今夜は休みます……。おやすみなさい、アリア師。……ごめんなさい。」
 張り詰めた空気から逃れるかのように、アリアに一礼して、自分の部屋へと引き上げて行く。見慣れたはずのその背中が何故か急速に遠ざかっていくように思えて、アリアは大きな溜息をついた。なのに、胸中のわだかまりは吐き出されることなくそこに残る。しかもただ残るだけではなく、徐々に大きく膨らんでいく。それはまるで、自分の胸の中に知らない生き物が住み着いて、むくむくと育っていくようでもあり、言い様のない不気味さと不快感を引き起こした。
「もう……。寝ようかしら。」
 その感覚を振り払おうとするかのように、小声に出して呟き、立ち上がる。呼吸を整え、軽く頭を振ってから自室への扉を押す。
 しかしそんな試みも虚しく、結局アリアは翌朝までまんじりともできなかった。

「……お早う、ございます。」
 翌朝。彼女もまた眠れなかったのだろうか。起きてきたアイリスのまぶたも赤く腫れ上がっていた。傍らには昨日の幼女が、昨夜と同じようにしっかりとすがりついていた。
「あの……。アリア師……。あたし……。」
 少女は言い淀み、視線を宙に泳がせる。対照的に、傍らの幼子の方は睨むような視線を真直ぐにアリアに向けていた。
「……。」
 どくり、と音がして、胸の中の得体の知れないモノがまた膨れあがる。目をすがめてみても耐え切れず、そのまま二人に背を向ける。
『あの子は生まれながらの魔女じゃない……。なのに草木と心を通わせ風の声に耳を傾ける。これだけの感性を持った子が人の世界に耐えられると? 悪意や邪念、嫉妬、羨望の渦巻くあの世界になじめると、本当にお考えですか?』
 いつかの吸血鬼の言葉が蘇って来て、頭の中をかき乱す。そう、彼の言葉は正しかった。この少女が、ここを出て行って、それも普通の人間と一緒に、無事に生きていけるはずもない。
 額から血を流して、身体のあちこちに擦り傷を作って、濡れた瞳を見開いて、必死に涙をこらえて自分を見上げた、いつかの少女の顔。まざまざと思い出して、大きく息を吐く。
 ――苦しい。
 圧し潰されそうな程に、息苦しい。膨れ上がった何かが、黒く黒く胸を塗りつぶしていく。眉間を押えながら、何とか逃れようと部屋の隅に投げた視線が、ふと鮮やかな紅玉を捕らえる。均整のとれた細い刀身の上で、艶やかに輝く紅玉。今の姿からは想像もつかないような、忌々しい漆黒の竜の瞳。それに秘められた力は計り知れない……。
 ――壊してしまえばいい。
 頭の中のどこか遠いところで唐突に湧いて出た言葉は、何故か奇妙な程に魅惑的に響いた。
「全て、壊してしまえばいい……。」
 小さく言葉に出してみると、すっと胸が軽くなった気がした。あたかも永年迷い込んでいた迷宮の出口を見つけたかのように。疲れ切った頭のどこかで、何かが、ゆっくりと、音もたてずに狂い始めていた。いつしか、アリアの右手は惹かれるように紅玉へと伸びていた。

 目を閉じていればよかったのかもしれない。耳を塞いでしまえばよかったのかもしれない。
 アイリスは、身体に響く鈍い音に少しだけ顔をしかめながら、目の前の床に剣が突き立てられるのを見ていた。すんなりと伸びた、均整のとれた銀色の刃。何よりもその柄の先端に戴く鮮やかな紅い玉が目を惹く。華美な装飾があるわけではないが、品のある美しさをまとった剣は、その外見とは裏腹に、あまりにも惨い記憶を呼び起こす。忘れようにも忘れられない、血の記憶。そして、失われた同胞たちの想い。
 少女は明らかな怯えを顔に貼付け、細い刀身を辿るように視線を持ち上げる。その先に行き着いた師の瞳に昏い光が宿っているのを認めて、少女は再び息を呑んだ。身体中が呪縛されたかのように凍り付く。
 視線を逸らすこともできず、ただ見つめた師の口元が静かに動き、氷のように冷たく重い声が漏れ出る。
「人の世なんて……人の秩序なんて、壊してしまえばいい……。己の恩恵も知らず、全ての理不尽を魔女に押し付けてぬくぬくと暮らしている人の世なんて……。この剣にはそれだけの力があるし、貴女にはそれを扱う資格がある。」
「アリア、師?」
 師は何を言っているのだろう。今起こっていることが信じられずに、アイリスは震える瞳でアリアを見上げた。
 こんなアリアは見たことがない。師のこんな声は聞いたことがない。アリアがこんなことを言うはずがない。少女は、ほとんど泣き顔でアリアを見上げた。何かを言おうと唇を動かすが、喉が引き攣って声が出ない。視線に乗せた彼女なりの必死の訴えも、表情を消した師には届かない。
「貴女なら……、渾沌の中でも自分の身一つと、ついでにその子くらいは守れるはずよ。」
「……。」
 何が。どうして。どうなって。どこで。嘘。何故、何故、何故。
 頭の中が真っ白になる。膝が、震える。冷たい汗が、首筋を流れる。地面が揺れるような錯覚を覚える。少女は夢中で、ただ夢中で、ちぎれるくらいに首を左右に振った。それで悪夢を追い払おうとしているかのように。ただ、早く醒めてくれることだけを願って。いつもの師の、少し呆れたような溜息が振ってくることを望んで。
「魔女は、その力のせいで、人に疎まれ、嫌われ、憎まれる。魔女の末路なんて……決まってるのよ。」
「あ……。」
 その言葉は、あまりに乾いていて、投げやりで、そしてひどく重く、哀しくて。あたかも、全てを拒む落し戸のように。
 乾いた頬を、涙がひと粒こぼれ落ちる。それが合図であったかのように、何かが音をたてて崩れ落ちる。身体中の力が、急激に抜ける。それを絶望と呼ぶことも知らず、少女はただ目を見開く。見慣れたはずの小屋の中。視界に映る人が、調度品が、急激に輪郭を失っていく。
「アイリス、ダメ、抑えて!」
 耳もとで必死に叫ぶ、精霊の小さな声も、もはや少女の頭の中で意味を結ばない。信じられない現実に、少女は自らの主体性をほとんど放棄してしまっていた。その揺らぐ心そのままに、乱れる彼女の魔力を律するものは、なにもない。
「ダメ! 暴走しちゃう、抑えて!」
 相棒の叫びを、どこかひどく遠いところで聞いたような気がした。そこここで何かが軋むような音が響いているようにも思われる。けれど、ますます遠ざかるそれを引き止める術もなかった。少女の記憶は塗り込められた白の中へと押し流されて消えて行った。

 張り詰めた空気に細かく震えていた板壁が、ついに耐え切れず、甲高い音を立てて裂ける。弾けるようなその破裂音は、急速にアリアを現実へと引き戻した。未だ頭にぼやりとした靄のような感覚は残っているが、突き上げてくるような熱を持った黒い塊は、冷めたように引いていく。アリアは考えを巡らせるかのようにわずかに視線を泳がせ、が、すぐに異様な雰囲気に気付いて眉を寄せた。
 色を失って立ち尽くした少女の周りに、コントロールを失った彼女の魔力が渦巻き、膨れ上がっている。それはアイリス自身のみならず、既に周囲を巻き込もうとしていた。床も、壁も、テーブルも、悲鳴をあげるかのように震え、軋み、ついには裂け目を走らせる。
「私は……何を……。」
 唐突に、あまりにも鮮明に自分の心を把握して、アリアは困惑せずにはいられなかった。それがさらに戸惑いを呼び、表情を繕うことさえままならない。
 そう、自分はこの少女を失うのが、他の誰かに奪われるのが、怖かったのだ。彼女が、自分の元を離れてどこかに行ってしまうのが。
 にわかには信じがたく、かといって否定するには、それはあまりに鮮烈で鮮明だった。恐怖にも似た感覚に囚われて、アリアは思わず眉間を押さえた。それが一瞬、彼女の反応を遅らせる。
 不意に鋭い衝撃が走り、黒髪が一筋切れて宙に舞う。弾かれたように慌てて顔を上げて、弟子を見遣る。無気味な静寂を孕んで限界にまで膨れ上がった魔力の渦が、ところどころ綻び始めていた。その綻びの一端が自分を襲ったのだとすぐに理解する。
「アイリス?」
 まずい。止めなければ取り返しのつかないことになる。そう思ったアリアは反射的に手を伸ばしていた。自分の魔力を整えることも忘れて。
「……っ。」
 形にならない悲鳴にも似た声を漏らしたのは、誰だったのか。強い目眩と耳鳴りに似た感覚に覚えた次の瞬間、空間が避けたかのような衝撃と目も眩むような光に、全てが呑み込まれた。
 



 ちょろちょろと、水の湧き出る音が聞こえる。頬を撫でていく風は、こころなしか粗い。指に、乾いた砂が触れる。身体が、泥のようにだるい。
 重いまぶたを持ち上げる。ぼんやりとした茶色が、一面に広がっていた。見覚えがあるかどうかも覚束ない。 頭がひどく鈍い。
 ゆっくりと上体を起こす。痛みともつかぬ倦怠感に、覚えず顔をゆがめる。ばさりと落ちて来た細い髪を、けだるげにかきあげる。
「これ……は?」
 次第に視界が像を結び、少女は呆然と声を漏らした。
 そこには、何もなかった。目の前に突き立った細身の剣一振りを除いて。ただ、荒れた土だけが広がっている。木も、草も、水車小屋も、他にあるはずのものは、何一つなかった。そしてもちろん、人影も。
 休みなく聞こえる水音が、残酷にもそこが少女のよく知った場所であることを告げていた。
 朧げながら、記憶が蘇ってくる。
 そう、今までになく師が怖い顔をしていた。そして、この剣を持ち出して、そう、とても恐ろしいことを言って、それで……?
「アリア師?」
 おそるおそる呼んでみるも、返事はない。代わりに、嘲るように風が鳴る。
 ゆっくりと、錆びた歯車が軋むように、頭が働きはじめる。
 師に迫られて、頭の中が真っ白になった。そして、抑えきれなくなった何かが、自分の身体の中で膨れ上がり……、弾けた……。違う、自分が抑えるのを放棄したのだ。魔女として、最低の行為なのに。
 これがその結果なのだろうか。背筋が寒くなるような恐怖を覚えながらも、視線を巡らせるのを止められない。ふと、その目が少し離れた土の上に釘付けになる。
「あ……。」
 震える手で、それを拾い上げる。小さな翡翠の石。見まがうはずもない、いつも師の胸元で揺れていた、主人の瞳と同じ色の石。憑かれたように返したその石の裏側に、予想通りARIAの文字を見つけて、少女は掠れた悲鳴をあげた。
「あたしが……。」
 小さな手で、強く強く石を握りしめる。どんなにきつく瞳を閉じても、唇を噛んでも、胸が潰れてしまいそうに、息苦しい。
「あたしが、やったの? あたしが……これを……。」
 絞り出すように、呟く。頭の中がじんじんする。
 今度こそ、全て失ってしまったのだ。一番信じていた育ての親も、自分を頼ってくれた小さな存在も。自分が育った場所も。自分が魔力をコントロールできなかったせいで、この手で。
 よろよろと立ち上がろうとして、懐から落ちた何かに目を留める。それは、同胞たちの形見とも呼べる金色の短剣だった。それを虚ろな目で見下ろし、再び座り込んで、拾う。
「こんな……、こんなことなら……。こんな力なんか……。」
 しばらくその剣を絶望の瞳で見つめ、おもむろにそれを自分の胸へと突き立てる。鈍い衝撃と痛みが、身体中に響く。
「こんな力なんか要らない……。要らない、要らない!」
 その感覚に、正確には痛みを感じることに、わずかばかりの救いにも安らぎにも似た錯覚を覚え、少女は何度も何度も突き立てた。涙は、既に涸れていた。


 躙った砂が足の下で音をたてるのは、自らの存在の証明になるのだろうか。
 荒れた風が、繊細な銀髪を嬲るように吹き付ける。男は唇の端に苦い笑みを浮かべて、自らの血に染まり、うつ伏せに倒れたまま動かない少女を見下ろした。その脇にかがみこみ、少女の白い首筋に、細い指で触れる。
「まだ息があるのですね……。さて、どうしましょうか。」
 長く伸びた鋭い爪を少女の首に当てたまま、小さく独りごちる。それが、己の困惑を隠し切れない故と知って、再び苦笑を漏らす。
 旧い友人の、ただ1人の直系の血族。自ら育てた魔女の、唯一の弟子。そして、友人が呪われた血を遺すきっかけを作った女の名を継ぐ少女。苦労して育て上げた魔女を、追い落とした者。
 ここで一思いに終わらせてやるのが、情け。
 ここで死なせるには、忍びない。
 生かしておく義理などない。
 こんなところで、楽になどしてやれない。
 何故、これほどまでに交錯するのか。「生かすか殺すか」の単純な選択のはずなのに。それも、まったく反対の理由で、同じ結果を導き、同じ判断が反対の結果と繋がる。まるで蜘蛛の巣にでもからめとられたように。これでは、身動きができはしない。
「困りましたね……。」
 ごまかすように、ミシェルは再び呟いた。ふと、血の香が鼻孔をくすぐる。急に、永年忘れていたはずの渇きを覚えて、吸血鬼は額を押さえた。獲物として見るならば、この少女はこの上ない存在であることは充分に知っている。
 いっそ、このまま欲望に身を任せてしまえば。
 ふと浮んだそんな考えに、唇を歪める。本能のままに血を口にしてしまえば、もうこのような益のない思考に煩わされずにすむ。もう、何も考える必要もない。
 何かに命じられたかのように少女の肩に手をかけ、仰向けに抱き起こす。わずかに顔を歪めた少女の唇から、小さな呻きが漏れる。熱に冒されたような視線を、少女の首筋から外せない。
 それは戸惑いだったのか、強迫だったのか。呪縛されたかのように硬直していたミシェルの視線が、ふと少女の胸元を捕らえる。未だに鮮やかな血を流す傷を認めた瞬間、あの熱病にも似た呪縛は、すっと引いていた。
 地面に視線を落とす。少女の血に濡れた短剣を目に留めて拾い上げる。それを注意深く眺めて、深い深い溜息をつく。
「……愚かですね。」
 おもわず零れた言葉は、己に向かって言ったものか、それとも少女に向けてのものか。
 どちらにせよ、もとより選択の余地などなかったのだ。自らの儚い願いを、虚しい望みを捨てられない限り。もはや、自分の名を知りうるのはこの少女しかいないのだから。
 それにしても、とミシェルは長い溜息を落として、目を伏せる。もしも運命を紡ぐ、神とでも呼ぶべきものが存在するのなら。どこまで人を弄べば気が済むのだろうか。
「残念でしたね……。貴女は……、こんなことでは、死ねませんよ。」
  

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