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1、すきま風


「……アリア師?」
 控えめな呼び声に気付いて、アリアはゆっくりと顔をあげる。ずっと頬杖をついていたせいか、右の頬がわずかに熱い。なのに、机の上の開きっぱなしの書物の内容は、ほとんど頭の中には入ってきていない。どうやら、ぼんやりとした思考とも言えないような物思いに囚われていたらしい。今までならまず考えられない。
 聞こえないくらいの小さな舌打ちをしながらも、声の主の方へと身体を向ける。途端、上目遣いでこちらを伺うような少女と視線がぶつかって、わずかに眉を寄せる。
 頭の奥が、ずきりと痛んだ。同時に、胸の中に黒い重い靄のようなものが立ち始める。それは見えない蛇に、きつくきつく締め上げられているかのようでもあり、じりじりと焼け付くような、言いようのない息苦しさでもあった。
 またかとばかりに、アリアは額を押さえた。近頃は、少女の顔を見る度にこのなんとも言えない苦痛に襲われる。特に、今のように心配そうな顔を向けられた時。そして、あの村の一件以来しばしば見られるようになった、虚空を眺めて物思いに耽るような表情を目の当たりにした時。
 最初に、この感覚を感じたのはいつ頃だったろうか。はっきりそうだと思い出せるのは、あの村で少女が母親の幻影に甘えているのを見た時。けれども今から思えば、それよりずっと前から、じくじくするような奇妙な違和感は常に胸のどこかで疼いていたような気にもなる。
 その正体の見えない感覚だけでも充分厄介なのに、さらにアリアには、この弟子のことで頭の痛い問題があった。
 アイリスを預かった時、彼女の母親とは「18になったら迎えに来る」との約束だった。だから、18までは魔法を教え込んで、母親に引き渡せばそれで全てが済むはずだった。後に必要であれば彼女の魔力を封じて、ただの少女に戻すことも含めて。
 なのに、あの一件で少女は還るべき場所を失ってしまった。それまでの見通しを砕かれて、アリアは正直、途方に暮れていた。あの一族が抱えていた業とは一応の決着はついた形になっている。とはいっても、結局形を変えた魔剣は少女の手元に残ってしまった。ある意味、一族で背負っていたものを、若干無害になったとはいえ、アイリス個人で負うことになったと言ってもよいだろう。彼女にとって魔女としての力が必要なくなったとはとうてい思えない。むしろ、逆に一般人としての生活に戻る道は、完全に絶たれたと言ってもよいかもしれない。
 それでもやはり、あの一件を乗り越えたことで、そして、先が見えなくなったことで、二人ともどこか緊張の糸が弛んでいるのは否めなかった。魔法の修業をしていても何か張り合いがない。もちろん、応用力に長けた弟子に、技術面では教えるべきことが少なくなってきたというのもあるにはあるが。
 ともかくも、なんとも宙ぶらりんな状態が続いているというのに、時間だけは己の役目に忠実で、恐ろしい程に静かに、そして足早に過ぎていく。いつしか季節は一通り巡り、さらに、深まる秋に冬の気配が混じり始めていた。
「あたし、きのこを取りに行って来ますね……。」
 静かに告げられた声が、アリアを現実に引き戻す。その顔に懸念に似た色をわずかに浮かべたアイリスが、遠慮がちに手に持ったかごを示していた。
「……そう。いってらっしゃい。」
 アリアは普通に答えたつもりだった。しかし気付かぬうちに、その言葉にも、そしてじっと弟子を見つめる視線にも、棘が含まれていたらしい。それとも少女の方が過敏にすぎたのか。
「早く……、戻ってきます、ね。」
 アイリスは、ほんの少し引き攣ったような、曖昧な笑みを浮かべて、師の機嫌を伺うように軽く首を傾げた。
「……。」
 そのしぐさが、さらにアリアの胸に小さな棘を突き刺した。濡れた布に染みがじわりと広がって行くように、苦い毒がじわじわと自分を侵していく。そんな思いに囚われて、アリアは無言で少女の背中を見送った。少女は振り向くことなく、音をたてないようにゆっくりと扉を開けて出て行った。
 ――いつまでこんなことが続くのだろう。
 げんなりする程の疲労を感じて、アリアは両手で顔を覆った。身体を預けた椅子が、大袈裟に軋んだ。
 

 柔らかな落ち葉の積もった地面を、穏やかな木漏れ陽がまだらに染めていた。木々の間を渡る風には、わずかながら冷たい刃のような鋭さが含まれており、時々笛のように高い音を響かせる。
 アイリスは、木の根元や落ち葉の陰に注意深く視線を巡らせながら歩いていた。けれど、手に持ったかごの中身はなかなか増えない。時期を外したわけでも、場所が悪いわけでもない。なのにこんなにきのこが見つからないことなんて、めったにない。少女は溜息をつくと、地面に腰を下ろした。乾いた落ち葉が、かさりと心地よい音をたてる。
「……。」
 少女は、そっと胸に手を当てた。胸のどこかが、なぜかざわざわする。まるでぽっかりと空いた空隙に、風が入り込んで騒いでいるかのように。
「あたしのこころ、こんなに大きかったかなぁ……。」
 ぽつりと呟く。今までは、魔法の修業だとか日々の暮らしだとかで頭が一杯で、じっくり考えたり、思索をめぐらせる余裕などなかったし、そうする必要も意志もなかった。なのに。
 おもむろに懐をさぐり、金色の小さな塊を取り出す。軽く唇を噛んで、あの一件以来ずっと身につけている短剣に視線を落とす。それはあの魔剣の魔力をふんだんに吸い込んだせいか、秋の陽光をその身に映してきらりと光った。
 瞳に宿る色は穏やかながら、凄惨な最期の笑みを向けた兄。幻影の身ながら、会いに来てくれた母。切々と兄の気持ちを語ってくれた青年。そして、この身に流れる血に刻まれた忌むべき宿命。
 失ったものがあまりに重すぎたせいだろうか。あるいは、それまで知りもしなかったことをあまりに唐突に突き付けられせいだろうか。それで実感が湧かないのだろうか。
 思いを巡らせることは抱え切れないくらいにたくさんあるのに、それでもまだ胸の中には、埋められない隙間が黒々と口を開けているように思えた。
 あの時圧倒された幼い記憶は、あれ以来急速に薄れていった。今では、贄に供されそうになった時の情景を思い出すには思い出せても、心の方はどこか片隅がじわりと揺れる程度でしかない。本来、旧い記憶というのはそういうものかもしれないが。
 家族。血統。同胞。
 あの時はとにかく何が何だかわからなくて、無我夢中で示されたままに受け入れていたけれど。今考えてみれば、自分にそういうものがあった、というのはどこか曖昧で、どうしてもしっくりこない部分もある。むしろ、恐ろしい程に実感を持って迫ってくるのは、自分は初めからここにいたわけではないという事実。
「あたし……。いつまでこうしてられるんだろう。」
 小さく声に出してみれば、戦慄にも似た思いが背中を走る。今まで、欠片ほども疑ったことも考えたこともなかったけれど、アリアはいつまで自分を傍に置いてくれるのだろうか。それは、考えはじめると、自分の立つ足元が崩れさるのではないかという程の恐怖を呼び起こした。
 思索から逃れるように、堅く目を閉じて落ち葉の上にそのまま背中を預ける。そうっと再びまぶたを持ち上げれば、緑の梢に切り取られた、抜けるほどに蒼い空が目に入る。その空が、風に揺れる木々が、辺りを満たす音までもが、他人行儀になって、すぅっと自分から遠ざかっていくような感覚に襲われる。
 空も、今背中を預けている大地も、どこまでも続いている。この、広い広い世界に、ひょっとしたら自分はただ独りきりなのかもしれない。
 そう思うと、無性に叫びたい気分になって、少女は身体を起こした。喉の奥から振り絞った声は、あっけない程にあっさりと、遠い空に吸い込まれていく。
「……。」
 叫ぶ声も涸れて、少女は大きく肩を上下させた。まだもの足りず、再び息を大きく吸い込んだ時、その耳にか細い声が届く。
 アイリスは一瞬、呼吸を止めて注意を辺りに巡らせた。弾かれたように立ち上がると、足元を確認しながら山の斜面を降りていく。きのこを探しながら、気付かないうちにだいぶ歩いていたらしい。少し歩けばすぐに石畳の街道に辿り着いた。今は辿る者も少ないのだろう、あちこちの石畳の隙間から、少女の膝丈くらいの草が生えているが、道幅自体はかなり広い。かつてはさかんに往来があったのかもしれない。
 わずかに緊張した面持ちで、素早く周囲を見回す。人影は見当たらない。少女はほんの少しだけ警戒を緩めると、かすかに聞こえる声の方へと、ゆっくり足を進めた。それは、子どもの啜り泣く声のようだった。
「……ひっく、誰、か……。ひっく、ひっく、だれ、ひっく……。」
 声は、次第に大きく、はっきりしたものへと変わる。間もなく少女の視界に、道の真中に立ち尽くして泣いている幼い子どもの姿が現れる。年の頃は、6、7歳くらいだろうか。痩せた、小さな女の子だった。
「……どうしたの?」
 躊躇いを感じながらも、声をかける。小さな肩はびくりと震え、幼子は大きなはしばみ色の瞳を見開いた。
「あ、あ、あ……。」
 瞬きを忘れた瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちる。驚きのあまり言葉も出てこない様子で、幼子はただ口をぱくぱくさせていた。
「……どう、したの?」
 アイリスは、女の子と視線が合うくらいにかがみこみ、できるだけ柔らかい口調で繰り返した。幼子は小さな唇を歪め、2、3度しゃくりあげる。
「ひっく、おと、さんと、ひっ、おか、さん、ひくっ、かくれ、なさい、って……ひっく。」
 女の子は気丈にも、嗚咽の合間に懸命に言葉を紡ぐと、道の先を指差した。その小さな指先の示した方に顔を向けて、アイリスはわずかに顔をしかめた。微かではあるが、何とも言えない、しかし覚えのある、そして不快感を感じさせる臭いが漂ってくる。
 脳裏にこびりついた嫌な記憶が、何故か疼く。不吉な予感に突き動かされたかのように、少女は幼子の手を引いて歩き始めた。緩いカーブを描く街道を道なりに曲がる。それが目に入った瞬間、少女はただ立ち尽くしていた。
 そこにあったのは、砕けた木の塊や、裂けた布。かつては車輪や幌を形作っていたと辛うじて判るくらいに、それらは無惨に引き裂かれていた。そして、そのそこここにこびりついた、赤黒い、ねばっこい、乾きかけた、染み……。
 先ほどまで感じていた臭いが血の香であることを悟って、少女は口元を押さえた。急に込み上げてくる強い吐き気を辛うじて抑え込む。
「馬車のね、隠し部屋のね、隙間からね、見てたの。怖い人たちがね、大きい声でね、ぎらぎら光ったもの持ってね……。」
 幼子の必死の説明も、左の耳から右の耳へと抜けていく。アイリスはただきつく唇を噛んで、馬車の残骸を、その隙間からちらりと見える、地に落ちた腕を、呆然と眺めていた。ぼんやりとした脳裏に、あの夜の出来事がちらつく。初めて知った家族が、故郷が、目の前をかすめて消えてしまった、あの夜。
「あなたも、独りになっちゃったんだね……。還るとこ、なくなっちゃったんだね……。」
 まっすぐに見つめるはしばみ色の瞳に、少女はぽつりと呟いた。
「あたしと一緒に来る? あたしの妹に、なってくれる?」
 思わず口から漏れた「妹」という言葉に戸惑いながらも、アイリスは女の子の前に手を差し伸べた。兄はどんな気分で自分を、――「妹」を――見ていたのだろうか。ふとそんな考えが頭をよぎる。
 静かに絡み付いてくる掌の温もりが、胸の奥の方にまでじんわりと沁み込んでくるような気がして、少女はほんの少しだけ視線を伏せた。

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