柔らかな落ち葉の積もった地面を、穏やかな木漏れ陽がまだらに染めていた。木々の間を渡る風には、わずかながら冷たい刃のような鋭さが含まれており、時々笛のように高い音を響かせる。
アイリスは、木の根元や落ち葉の陰に注意深く視線を巡らせながら歩いていた。けれど、手に持ったかごの中身はなかなか増えない。時期を外したわけでも、場所が悪いわけでもない。なのにこんなにきのこが見つからないことなんて、めったにない。少女は溜息をつくと、地面に腰を下ろした。乾いた落ち葉が、かさりと心地よい音をたてる。
「……。」
少女は、そっと胸に手を当てた。胸のどこかが、なぜかざわざわする。まるでぽっかりと空いた空隙に、風が入り込んで騒いでいるかのように。
「あたしのこころ、こんなに大きかったかなぁ……。」
ぽつりと呟く。今までは、魔法の修業だとか日々の暮らしだとかで頭が一杯で、じっくり考えたり、思索をめぐらせる余裕などなかったし、そうする必要も意志もなかった。なのに。
おもむろに懐をさぐり、金色の小さな塊を取り出す。軽く唇を噛んで、あの一件以来ずっと身につけている短剣に視線を落とす。それはあの魔剣の魔力をふんだんに吸い込んだせいか、秋の陽光をその身に映してきらりと光った。
瞳に宿る色は穏やかながら、凄惨な最期の笑みを向けた兄。幻影の身ながら、会いに来てくれた母。切々と兄の気持ちを語ってくれた青年。そして、この身に流れる血に刻まれた忌むべき宿命。
失ったものがあまりに重すぎたせいだろうか。あるいは、それまで知りもしなかったことをあまりに唐突に突き付けられせいだろうか。それで実感が湧かないのだろうか。
思いを巡らせることは抱え切れないくらいにたくさんあるのに、それでもまだ胸の中には、埋められない隙間が黒々と口を開けているように思えた。
あの時圧倒された幼い記憶は、あれ以来急速に薄れていった。今では、贄に供されそうになった時の情景を思い出すには思い出せても、心の方はどこか片隅がじわりと揺れる程度でしかない。本来、旧い記憶というのはそういうものかもしれないが。
家族。血統。同胞。
あの時はとにかく何が何だかわからなくて、無我夢中で示されたままに受け入れていたけれど。今考えてみれば、自分にそういうものがあった、というのはどこか曖昧で、どうしてもしっくりこない部分もある。むしろ、恐ろしい程に実感を持って迫ってくるのは、自分は初めからここにいたわけではないという事実。
「あたし……。いつまでこうしてられるんだろう。」
小さく声に出してみれば、戦慄にも似た思いが背中を走る。今まで、欠片ほども疑ったことも考えたこともなかったけれど、アリアはいつまで自分を傍に置いてくれるのだろうか。それは、考えはじめると、自分の立つ足元が崩れさるのではないかという程の恐怖を呼び起こした。
思索から逃れるように、堅く目を閉じて落ち葉の上にそのまま背中を預ける。そうっと再びまぶたを持ち上げれば、緑の梢に切り取られた、抜けるほどに蒼い空が目に入る。その空が、風に揺れる木々が、辺りを満たす音までもが、他人行儀になって、すぅっと自分から遠ざかっていくような感覚に襲われる。
空も、今背中を預けている大地も、どこまでも続いている。この、広い広い世界に、ひょっとしたら自分はただ独りきりなのかもしれない。
そう思うと、無性に叫びたい気分になって、少女は身体を起こした。喉の奥から振り絞った声は、あっけない程にあっさりと、遠い空に吸い込まれていく。
「……。」
叫ぶ声も涸れて、少女は大きく肩を上下させた。まだもの足りず、再び息を大きく吸い込んだ時、その耳にか細い声が届く。
アイリスは一瞬、呼吸を止めて注意を辺りに巡らせた。弾かれたように立ち上がると、足元を確認しながら山の斜面を降りていく。きのこを探しながら、気付かないうちにだいぶ歩いていたらしい。少し歩けばすぐに石畳の街道に辿り着いた。今は辿る者も少ないのだろう、あちこちの石畳の隙間から、少女の膝丈くらいの草が生えているが、道幅自体はかなり広い。かつてはさかんに往来があったのかもしれない。
わずかに緊張した面持ちで、素早く周囲を見回す。人影は見当たらない。少女はほんの少しだけ警戒を緩めると、かすかに聞こえる声の方へと、ゆっくり足を進めた。それは、子どもの啜り泣く声のようだった。
「……ひっく、誰、か……。ひっく、ひっく、だれ、ひっく……。」
声は、次第に大きく、はっきりしたものへと変わる。間もなく少女の視界に、道の真中に立ち尽くして泣いている幼い子どもの姿が現れる。年の頃は、6、7歳くらいだろうか。痩せた、小さな女の子だった。
「……どうしたの?」
躊躇いを感じながらも、声をかける。小さな肩はびくりと震え、幼子は大きなはしばみ色の瞳を見開いた。
「あ、あ、あ……。」
瞬きを忘れた瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちる。驚きのあまり言葉も出てこない様子で、幼子はただ口をぱくぱくさせていた。
「……どう、したの?」
アイリスは、女の子と視線が合うくらいにかがみこみ、できるだけ柔らかい口調で繰り返した。幼子は小さな唇を歪め、2、3度しゃくりあげる。
「ひっく、おと、さんと、ひっ、おか、さん、ひくっ、かくれ、なさい、って……ひっく。」
女の子は気丈にも、嗚咽の合間に懸命に言葉を紡ぐと、道の先を指差した。その小さな指先の示した方に顔を向けて、アイリスはわずかに顔をしかめた。微かではあるが、何とも言えない、しかし覚えのある、そして不快感を感じさせる臭いが漂ってくる。
脳裏にこびりついた嫌な記憶が、何故か疼く。不吉な予感に突き動かされたかのように、少女は幼子の手を引いて歩き始めた。緩いカーブを描く街道を道なりに曲がる。それが目に入った瞬間、少女はただ立ち尽くしていた。
そこにあったのは、砕けた木の塊や、裂けた布。かつては車輪や幌を形作っていたと辛うじて判るくらいに、それらは無惨に引き裂かれていた。そして、そのそこここにこびりついた、赤黒い、ねばっこい、乾きかけた、染み……。
先ほどまで感じていた臭いが血の香であることを悟って、少女は口元を押さえた。急に込み上げてくる強い吐き気を辛うじて抑え込む。
「馬車のね、隠し部屋のね、隙間からね、見てたの。怖い人たちがね、大きい声でね、ぎらぎら光ったもの持ってね……。」
幼子の必死の説明も、左の耳から右の耳へと抜けていく。アイリスはただきつく唇を噛んで、馬車の残骸を、その隙間からちらりと見える、地に落ちた腕を、呆然と眺めていた。ぼんやりとした脳裏に、あの夜の出来事がちらつく。初めて知った家族が、故郷が、目の前をかすめて消えてしまった、あの夜。
「あなたも、独りになっちゃったんだね……。還るとこ、なくなっちゃったんだね……。」
まっすぐに見つめるはしばみ色の瞳に、少女はぽつりと呟いた。
「あたしと一緒に来る? あたしの妹に、なってくれる?」
思わず口から漏れた「妹」という言葉に戸惑いながらも、アイリスは女の子の前に手を差し伸べた。兄はどんな気分で自分を、――「妹」を――見ていたのだろうか。ふとそんな考えが頭をよぎる。
静かに絡み付いてくる掌の温もりが、胸の奥の方にまでじんわりと沁み込んでくるような気がして、少女はほんの少しだけ視線を伏せた。
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