「……アイリス? どうかしたの?」
ただならぬ気配を察して顔を出した師に、少女は困惑に近い表情を向けた。
じっとしていられない程に、ざわつくような嫌な感触が身体中を駆け巡るのは確かなのに、それを表す言葉が思い付かない。
「……なんだか、行かなきゃいけない……気がします。」
両のこめかみに手を当てて、澄んだ翡翠の瞳を宙に泳がせながら、少女はゆっくりとそう紡いだ。胸の中を時折飛来するものの尻尾を捕まえようとするかのように、探るように慎重に。
「呼ばれて……る?」
訝るように眉を寄せる。と、不意にまっすぐに顔をあげた。
「ステラ、導いて! 座標をお願い。」
「アイリス? 落ち着きなさい。」
「行かなきゃ、行かなきゃいけないんです。」
怪訝な顔をしたまま、弟子を諌めるアリアに、アイリスは真剣な顔をして訴える。かと思うと、師の返事も待たずに、一心に呪文を口ずさみ始める。
「星の座よ、銀の光は導きの光。彼の地と此の地を瞬きの道で繋げ……。」
まっすぐ前方に伸ばされた少女の手の前の空間が、少女の声に応えるように、ゆっくりと揺らぎ始める。それはしだいに扉の形をとり始めていた。
血が、騒ぐ。
そうとしか形容のしようのない感覚を感じて、レイノルドは眉を寄せた。じりじりと皮膚の浅いところが疼く。何かに急き立てられるかのような焦燥感。そして、自分と同じ血を持つ者たちも、同じ感覚を覚えているだろうという、奇妙な確信。
振り払っても振り払っても、頭から嫌な考えは離れない。それに突き動かされるかのように、足は地下室へと向かう。
扉を開ければ、湿った深い闇がぽっかりと口を開けた。手に持ったランプの灯が、頼りなげに揺れる。足を踏み出す度、階段はぎしぎしと不吉な音をたてた。床に辿り着いたのを、足で確かめ、ランプを高く掲げる。小さな赤い光はぼんやりと広がって、闇を柔らかく周囲へと押しやった。レイノルドは、おそるおそる視線を巡らせる。そして、ある一点に目を留めて、深い深い溜息を漏らした。そこに鎮座したはずの短剣は、その姿を消していた。
「リヒァルト……。」
湿った闇を後ろ手に封じ込めて、レイノルドは力なく呟いた。そして、再び大きな溜息を吐く。見慣れた自分の部屋が、奇妙な程に白々しく見えた。もっとも望まなかった形に、点は結ばれて線を描いた。
「ああ、何故……、私は……。どうすればよかったのだ……。」
ゆっくりと、その場に崩れるようにしゃがみ込む。
全てをこの身に背負うつもりだったなど、何と愚かしい。あの素直な子は、人を犠牲にして黙っていられるような子じゃない。あの子ならこうすると、よく考えればわかっただろうに。あの子を酷な宿命から守るつもりで、全てを隠し通そうとしたけれど。それはただ、あの子を傷つけるのが怖くて、否、あの子の叔父でいられなくなるのが怖くて、そして、「長」の威厳を失うことも怖くて。結局、自分可愛さに、ただ黙っていたに過ぎなかった。いたずらにあの子を子ども扱いして、彼の心から目を逸らしていた。その結果が、これだ。ああ、もしも後悔して時が戻るなら、この身が全て朽ち果てるまででも悔やみ続けるのに。
胸に抱いた鉛のような思いが、ひどく苦い。いつしか、自分の瞳から涙がこぼれていることに、レイノルドは気付かなかった。
「まだ……、たぶん、まだ早いんだよ……。リヒァルト……。」
ゆっくりと、ゆっくりと、漆黒の魔剣を引き抜いて行く。台座に隠れていたその刀身がしだいに露わになってくる。その幅広の刃は、醜い竜の胴体をかたどって、不規則に波打ち、ところどころで枝分かれをしているらしい。
鼓動が速くなる。額から汗が一筋、二筋と流れて落ちる。リヒァルトは、それまで短剣を握ってた右手をそっと開いた。錆びた鉄に似た匂いが立ち上り、短剣は、湿った掌にわずかにひっかかって床に落ちる。乾いた、高い音は、剣の大きさに不釣り合いなまでに響き渡る。
リヒァルトはほんの一瞬、その音に目を見開いて、それでもすぐに口元を締めて、空いた右手を竜の頭に添える。途端、血の香に目醒めたか、竜の真紅の瞳がぎらりと光った。
今度は錯覚などではない。そう悟ったリヒァルトが息を呑む間に、呪われた竜はその全身を露わにしていた。両手に伝わる不吉な鼓動は、既に自分のものか竜のものかわからない。リヒァルトはそれを抑え込むかのように、白くなる程に拳に力を込めた。
「う……っ。」
不意に、手首に鋭い痛みを感じて、リヒァルトは呻き声を漏らした。見れば、竜の首筋のあたりから、数本の触手が伸びて、手首に食い込んでいる。が、悠長に見ている間もなく、それは手首から肘へ、肘から二の腕へと、貪欲なまでの凄まじい勢いで、腕の中を登ってくる。
「う……あ……。」
血が、逆流する。激しい痛みの後に襲ってくるのは、この上ない程の恍惚。憎しみにも渇望にも似たような感情が渦巻き、押し上げてくる。気を抜けば押し流されてしまいそうな程の奔流に圧倒されて、リヒァルトはただ歯を食いしばって耐えるしかなかった。無遠慮に侵入してくる魔剣を、何とか押し戻そうとするも、ほとんど無駄にしか思えなかった。
「リヒァルト。」
唐突にかけられた声に振り向くと、いつの間にかそこにレイシアが立っていた。その顔面は蒼白で、驚愕とも不安ともつかない表情が張り付いている。固く握りしめられた拳は、動揺を鎮めようとするかのように、強く胸元に当てられていた。
「母さ……?」
突然現れた母親に気をとられたのか。辛うじて保たれていた均衡は一気に瓦解した。
漆黒の竜が、空を裂くかのような、おぞましい咆哮をあげる。空気が、大地が激しく揺れる。巨大な衝撃が、頭を突き抜けるかのような感覚を覚えた青年の耳を、大音響が揺さぶる。押し流されゆく意識の中、濡れたような赤い月が目に入る。慰めるかのように、頬を撫でた夜風を、もはや彼は感じていなかった。
覚醒した魔剣の前に、小さな村は成す術もない。血に沈みゆくのに、それほどの時間はかからなかった。
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