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 2、Desire

 それは、青年の掌に収まってしまう程の、小さな鈍い金色の短剣だった。その小ささもさることながら、刃自体も決して鋭くはなく、切れ味などたかがしれているだろう。実用に堪える代物にはとうてい見えない。ただ、施された細工は見事なもので、小さな柄や刀身に、蔦のような細い帯が優雅な曲線を描いて何本も複雑に絡み付いていた。そして、その刃に刻まれた銘はLeviathan。
 こんなに小さいのにリヴァイアサンとは何の皮肉か。そう思いたくなるほどに、あまりにも似つかわしくない、貪欲な海の魔物の名を与えられた短剣。しかしこれこそが、密かに長の家に伝えられてきた『対の魔剣』でもある。昔話の懐かしさにほだされたせいか、それとも独り背負い込む裏の秘密の重さに耐えかねたせいだろうか。話の中でぽろりと漏らした叔父によると、始祖グレイグが、魔剣ブラッドペインに対抗するために造った遺物だという。もちろんその時、いくら口を滑らせたとはいえ、レイノルドはその在り処までは明かさなかった。けれど数日前、何故か曵かれるように、リヒァルトは叔父の家の地下室に隠されていたこの短剣へと辿り着いていた。
 ――始祖サマ、アナタはズルいよ。
 手の中の小さな小さな先祖の形見へ、リヒァルトは物憂気な視線を落とした。
 『自分の我が侭で』だなんていう言い分はずるい。世の為だとか、人の為だとか、そういうおおよそ立派な大義名分をたててくれたなら、自己犠牲を声高に唱えてくれたなら。自分はどんなに彼を貶め、蔑み、あるいは憐れみ、嘲ることができただろう。けれど、ただの我が侭だと言われてしまえば、リヒァルトにはグレイグを責める言葉はない。何しろ、今から自分がしようとしていることこそ、我が侭以外の何ものでもないのだから。
 リヒァルトは視線を上げて、忌わしい漆黒の竜を見つめた。相も変わらず禍々しい空気を放つそれは、紅い瞳で虚空を見つめていた。そこに何らかの意志が宿っているのかどうかはよくわからない、ぼんやりとした視線。
 不思議なことに、心は澄み通っていると言える程に穏やかだった。全ての元凶を前にしたら、きっとどうしようもない程の感情が押し寄せてくるのだとばかり思っていたのに。今青年は、戸惑うくらいに冷静な眼差しで魔剣を見つめている自分を感じていた。
 が、掌に短剣が食い込む感覚に、はじめてリヒァルトは自分が両の拳を握りしめていたことに気付く。ついでに唇も強く噛んだままで。本当は胸の中に有り余る程の思いを抱えていたことを知って、リヒァルトは苦笑し、そして短剣を握った手にさらに力を込めた。鈍い刃が掌の皮を破る痛みに、顔をしかめて耐える。痛みを追うように、熱いものが吹き上げてくるような感覚がリヒァルトを襲う。強い力を注ぎ込まれたようなその感触に、青年は思わず目を見開いた。
『始祖が魔剣を使った結果……。』
 対の魔剣の存在を明かしてしまったことに気付いたレイノルドは、あの時、宙をぼんやりと眺めながらこう話した。その口調には若干の諦めと覚悟が含まれていたが、この時の彼にその話の導く結果にまで気が及んでいたかどうかわからない。
『私たちの血には、特別な力が与えられたんだよ。何度も外を見てきたならお前ももう気付いているだろう? 短い期間で道もないような険しい山を越えられたり、ごくごく微かな感覚を感じ取ることができたり……。対の魔剣というのは、その、ブラッドペインに与えられた魔力とも呼ぶべき力を貯える媒介なんだ……。魔剣に与えられた力、それをもって魔剣に対抗しようと始祖は考えたんだろうね……。一人の力じゃ足りなくても、たくさんの、何代分もの力を合わせたら対抗できるかもしれない……。死者の血はブラッドペインに捧げる、けれどその前に力をリヴァイアサンへ預ける……これがこの村の葬儀、なんだよ。いつか……この鎖を断ち切る子孫のために。……だからリヒァルト、前にも言ったが、あの魔剣のことは私に任せて欲しい。』
 リヒァルトの瞳を真直ぐに見つめて放たれた最後の一言は、切実なまでに真摯な願いだった。叔父の心の底からの頼みは、確かに青年の胸を揺らした。それでも、大好きな叔父の切望を受け入れる気には全くなれなかった。それは叔父の言葉が気に入らなかったわけではない。むしろ、きっと、一番許せないのは、何も知らずに妹に全てを背負わせてしまった自分。だから、だからこそ、レイノルドの言い分に与(くみ)することだけはできない。知らずに無邪気な日々を過ごしていた罪の代償に、どうしても自分の手で、決着を。今、この魔剣を壊してしまえば誰も−−否、アイリスだって−−自分の宿命に傷付かずに済む。
 リヒァルトはゆっくりと、黒い竜の方へ足を一歩踏み出した。ともすれば乱れそうな、身体中に溢れんばかりの力を零さないように。研ぎすまされた感覚が冴え渡る。背後の空気の揺らぎ一つ逃さない程に。
 ――これなら。
これならきっと大丈夫。そう言い聞かせて、一つ静かに息をつき、魔剣の柄へ、竜の頭へと手を伸ばし、しっかりとそれを掴んだ。そしてゆっくりと上へと持ち上げる。強い抵抗を予想していたのに、気が抜けそうになるほどに、その手ごたえは軽い。
 どくん、といびつな形をしたその剣が脈を打ったように思えた。軽く開いたままの口元から小さな呻きが漏れたようにも。覚醒。そんな言葉が頭をよぎる。気のせいか、血の色をした瞳に、妖しい艶やかな光が宿ったような感覚を覚える。リヒァルトはそれでも、ゆっくりゆっくりと静かに剣を引き抜いていった。


「……っ。」
 少女はがばり、と簡素なベッドの上に起き上がった。胸元で強く拳を握りしめ、爛々と輝く翡翠の双眸をゆっくりと沈んだ夜の闇に漂わせる。
 額に嫌な汗をかいていた。喉がからからに乾く。胸で、こめかみで、首筋で、煩い程に脈が騒ぐ。
「ステラ……、ステラ!」
少女の掠れた呼び掛けに、ぼんやりとした光をまとった精霊が姿を現した。
「胸がどきどきして……ざわざわするの。どうして……どうしてだろう?」
両の瞳を見開いたままで、まるでうわ言のように。自分で呼んだ精霊に語るともなく、少女は焦燥に押されるように口走った。

「……アイリス? どうかしたの?」
 ただならぬ気配を察して顔を出した師に、少女は困惑に近い表情を向けた。
じっとしていられない程に、ざわつくような嫌な感触が身体中を駆け巡るのは確かなのに、それを表す言葉が思い付かない。
「……なんだか、行かなきゃいけない……気がします。」
両のこめかみに手を当てて、澄んだ翡翠の瞳を宙に泳がせながら、少女はゆっくりとそう紡いだ。胸の中を時折飛来するものの尻尾を捕まえようとするかのように、探るように慎重に。
「呼ばれて……る?」
 訝るように眉を寄せる。と、不意にまっすぐに顔をあげた。
「ステラ、導いて! 座標をお願い。」
「アイリス? 落ち着きなさい。」
「行かなきゃ、行かなきゃいけないんです。」
 怪訝な顔をしたまま、弟子を諌めるアリアに、アイリスは真剣な顔をして訴える。かと思うと、師の返事も待たずに、一心に呪文を口ずさみ始める。
「星の座よ、銀の光は導きの光。彼の地と此の地を瞬きの道で繋げ……。」
まっすぐ前方に伸ばされた少女の手の前の空間が、少女の声に応えるように、ゆっくりと揺らぎ始める。それはしだいに扉の形をとり始めていた。


 血が、騒ぐ。
 そうとしか形容のしようのない感覚を感じて、レイノルドは眉を寄せた。じりじりと皮膚の浅いところが疼く。何かに急き立てられるかのような焦燥感。そして、自分と同じ血を持つ者たちも、同じ感覚を覚えているだろうという、奇妙な確信。
 振り払っても振り払っても、頭から嫌な考えは離れない。それに突き動かされるかのように、足は地下室へと向かう。
 扉を開ければ、湿った深い闇がぽっかりと口を開けた。手に持ったランプの灯が、頼りなげに揺れる。足を踏み出す度、階段はぎしぎしと不吉な音をたてた。床に辿り着いたのを、足で確かめ、ランプを高く掲げる。小さな赤い光はぼんやりと広がって、闇を柔らかく周囲へと押しやった。レイノルドは、おそるおそる視線を巡らせる。そして、ある一点に目を留めて、深い深い溜息を漏らした。そこに鎮座したはずの短剣は、その姿を消していた。

「リヒァルト……。」
 湿った闇を後ろ手に封じ込めて、レイノルドは力なく呟いた。そして、再び大きな溜息を吐く。見慣れた自分の部屋が、奇妙な程に白々しく見えた。もっとも望まなかった形に、点は結ばれて線を描いた。
「ああ、何故……、私は……。どうすればよかったのだ……。」
 ゆっくりと、その場に崩れるようにしゃがみ込む。
 全てをこの身に背負うつもりだったなど、何と愚かしい。あの素直な子は、人を犠牲にして黙っていられるような子じゃない。あの子ならこうすると、よく考えればわかっただろうに。あの子を酷な宿命から守るつもりで、全てを隠し通そうとしたけれど。それはただ、あの子を傷つけるのが怖くて、否、あの子の叔父でいられなくなるのが怖くて、そして、「長」の威厳を失うことも怖くて。結局、自分可愛さに、ただ黙っていたに過ぎなかった。いたずらにあの子を子ども扱いして、彼の心から目を逸らしていた。その結果が、これだ。ああ、もしも後悔して時が戻るなら、この身が全て朽ち果てるまででも悔やみ続けるのに。
 胸に抱いた鉛のような思いが、ひどく苦い。いつしか、自分の瞳から涙がこぼれていることに、レイノルドは気付かなかった。
「まだ……、たぶん、まだ早いんだよ……。リヒァルト……。」


 ゆっくりと、ゆっくりと、漆黒の魔剣を引き抜いて行く。台座に隠れていたその刀身がしだいに露わになってくる。その幅広の刃は、醜い竜の胴体をかたどって、不規則に波打ち、ところどころで枝分かれをしているらしい。
 鼓動が速くなる。額から汗が一筋、二筋と流れて落ちる。リヒァルトは、それまで短剣を握ってた右手をそっと開いた。錆びた鉄に似た匂いが立ち上り、短剣は、湿った掌にわずかにひっかかって床に落ちる。乾いた、高い音は、剣の大きさに不釣り合いなまでに響き渡る。
 リヒァルトはほんの一瞬、その音に目を見開いて、それでもすぐに口元を締めて、空いた右手を竜の頭に添える。途端、血の香に目醒めたか、竜の真紅の瞳がぎらりと光った。
 今度は錯覚などではない。そう悟ったリヒァルトが息を呑む間に、呪われた竜はその全身を露わにしていた。両手に伝わる不吉な鼓動は、既に自分のものか竜のものかわからない。リヒァルトはそれを抑え込むかのように、白くなる程に拳に力を込めた。
「う……っ。」
 不意に、手首に鋭い痛みを感じて、リヒァルトは呻き声を漏らした。見れば、竜の首筋のあたりから、数本の触手が伸びて、手首に食い込んでいる。が、悠長に見ている間もなく、それは手首から肘へ、肘から二の腕へと、貪欲なまでの凄まじい勢いで、腕の中を登ってくる。
「う……あ……。」
 血が、逆流する。激しい痛みの後に襲ってくるのは、この上ない程の恍惚。憎しみにも渇望にも似たような感情が渦巻き、押し上げてくる。気を抜けば押し流されてしまいそうな程の奔流に圧倒されて、リヒァルトはただ歯を食いしばって耐えるしかなかった。無遠慮に侵入してくる魔剣を、何とか押し戻そうとするも、ほとんど無駄にしか思えなかった。
「リヒァルト。」
 唐突にかけられた声に振り向くと、いつの間にかそこにレイシアが立っていた。その顔面は蒼白で、驚愕とも不安ともつかない表情が張り付いている。固く握りしめられた拳は、動揺を鎮めようとするかのように、強く胸元に当てられていた。
「母さ……?」
 突然現れた母親に気をとられたのか。辛うじて保たれていた均衡は一気に瓦解した。
 漆黒の竜が、空を裂くかのような、おぞましい咆哮をあげる。空気が、大地が激しく揺れる。巨大な衝撃が、頭を突き抜けるかのような感覚を覚えた青年の耳を、大音響が揺さぶる。押し流されゆく意識の中、濡れたような赤い月が目に入る。慰めるかのように、頬を撫でた夜風を、もはや彼は感じていなかった。

 覚醒した魔剣の前に、小さな村は成す術もない。血に沈みゆくのに、それほどの時間はかからなかった。

 何故だろう。胸の中に、奇妙な静けさと、その下で疼くような高なりを感じた。
 村中を、湿った生温い風が吹き荒れる中、クラウスは静かに佇んでいた。
 かつて地中に秘された祭壇は、今や主人を失い、虚しくその姿を月光に曝していた。周囲に積った瓦礫を踏み越えて、青年は祭壇へと近付いていく。
 小屋でリヒァルトの背中を見送った時から抱いていた不吉な予感は、いつしかざわめくような胸騒ぎへと変わった。そして、それに押されるように、気付けば床の隠し扉から地下坑道へと降りていた。激しい地響きと揺れに見舞われて、危うく生き埋めになりかけたのがその少し後。目指していた広間にやっとたどりついたと思えば、目に飛び込んで来たのは、竜の去った祭壇と、真っ赤な月。そして闇と見まがう深い藍色の空に散らばる、いくつかの銀の星。あり得ないはずのその光景に、クラウスはただ溜息をつくことしかできなかった。
 漠とした気持ちのまま、導かれたように近付いた祭壇の根元に小さな短剣を見つけ、なんとなく拾い上げる。わずかに血がついているようにも見えるそれに、見覚えはない。が、何故か見過ごす気にもなれず、ほとんど無意識のうちに拾い上げていた。
 掌に落としていた視線を、ふと持ち上げて、遠く集落の方へと馳せる。一見、いつもと変わらぬ静かな夜。ここまでは、血の匂いも、断末魔の悲鳴も届いては来ない。けれど、今そこで起こっていることは。それを察していながら、不思議と、恐怖や焦燥のようなものは涌いてこない。クラウスの心は異様なまでに平静を保っていた。むしろ、一種、達観にも似た心境で、青年はぼんやりと生まれ故郷が滅び逝くのを眺めていた。
 何故、だろう。
 あんなに小さな子を、もっとも弱い者を、犠牲にしないといけないのなら、こんな村なんか無くなった方がいい。確かに、昔、心の底からそう思った。そして大人の分別を知った今でも、その気持ちは残っている。そのせいだろうか。それとも、いつかラトキスが言っていたように、「この村の大人は皆、魔剣に魅入られている」からだろうか。
 考えてみれば、こうなるのが正しかったのかもしれない。人の犠牲の上に成り立つ見せかけだけの平穏は、いつか崩れるのがその定め。歪んだ摂理の上に築かれた村は、もともと滅びを運命付けられていたのだ。本来ならば、始祖が魔剣を握ったその時に、その子孫が生まれる可能性は絶たれていたのだから。歪みはいずれ糺(ただ)される。だからこれは、きっと当然の報いなのだろう。
 それでも、ただ一つ。たった一つ悔やむべきことは。

 血の香を乗せた、湿った風が吹いた。背後に気配を察して、クラウスはゆっくりと振り返る。
「……やあ。」
 胸を衝かれるような思いを辛うじて鎮めて、わざとらしい微笑みを浮かべる。
「抜け駆けはずるいよ、リッヒ。」
 努めて穏やかに続けたはずなのに、声は震えた。あまりに見違えた友人の姿に、初めて痛い程の悔しさと哀しみが込み上げてくる。かつての快活さは見る影もなく、頬はこけ、目は落ち窪んでただ虚ろなだけ。対照的に、その右手の漆黒の竜は、紅い瞳をぎらぎらと輝かせていた。あたかも持ち主の命を貪っているかのように。
 これが、持ち主と仇の両方の命を奪う、復讐者の剣と異名をとった魔剣の本性なのだと、嫌でも思い知らされる。伝承などという不確かなものに頼って、その姿を捉えようとしていた人の愚かさを嘲笑われるかのように、痛烈に。誰もが復讐のためにこの剣を手にとるわけではない。ただこの剣の魔性に圧し流されて、破壊に命を費やされるのみ。この剣を手にして、願いを言うだけの自我を保てる者など、果たしてどれほどいるだろうか。
 今なら、ラトキスの行為の意味がわかる気がした。もしも、この魔剣の本性に気付いていたら、こうなることがわかっていたなら、そして、そうすることでこの未来を避けることができたなら、自分だってあの少女を犠牲にすることを厭わなかったかもしれない。それは決して因習に囚われた村を護るためなどではなく。クラウスにとって、自分の故郷の村が滅亡したことよりも、何よりも今の、友人の姿が痛々しかった。
「……渇いて……、渇いて……、仕方ないんだ……。」
 その口元から漏れた言葉に、クラウスは遣り場のない怒りを覚えて、ただ強く唇を噛んだ。焦点の合わない声。聞き慣れた彼の声とは、とうてい思えない。
「済まない……。俺は、お前に何もしてやれなかった……。ラトキスさんにも頼まれてたのに……。」
強い悔恨と絶望に、胸元で固く拳を握りしめる。
「なのに、今もお前を助けてやれない……。だから……、少しでもお前が楽になれるのなら……。」
ゆっくりと。クラウスは顔をあげて、両手を広げる。きっと自分がこの村の最後の1人。これで大切な幼馴染みが解放されるなら、躊躇いは微塵もなかった。
「クラ……ウス?」
 まるで、重いものの下から絞り出すように掠れていたけれど、それはまぎれもなく聞き慣れた友人の声だった。思わず見開いたクラウスの目に、わずかに光を取り戻した青年の茶色の瞳が映る。
「リヒァルト……。」
「いつか、僕に、聞いた……。命と、引き換えに…何……願う……。今なら、答え……。」
 襲い来る魔剣の意志と闘うように、青年は切れ切れに自分の言葉を紡いだ。
「もう、いいんだ。お前はもうこれ以上苦しまなくていいんだ。頼むから、もう……。俺は……。」
「僕は……クラウスまで、殺したく……なんか……。だから……。」
 クラウスの哀願を聞くことなく、青年は訥々と続ける。そして、それ以上の反論を封じるかのように、静かに微笑んだ。
「ああ……。」
 壮絶と呼んでも、凄惨と形容しても追い付かないその笑み。それは死への畏怖を乗り越えて、己の最期を定めた者のみが浮かべる表情。その前には、全ての言葉が力を失い、霧散する。クラウスはただ、がくがくと膝が震えるのを感じながら、言葉にならない吐息を漏らすより他はない。
「魔剣に流されない、意志の力を。」
 幼馴染みの、宣告の響きにも似た最期の言葉を、クラウスは己の無力を噛み締めながら聞いていた。漆黒の竜の、紅い瞳が妖しげに明滅を始める。強い光が溢れて、場を紅く染めあげていく。
 不意に、傍の空気に水面のような波紋が現れ、そこから人影が二つ現れた。二人の青年は、目もくらむ紅い光の中、思わずそちらに視線を向ける。
「アイ……リス?」
 小柄な少女に目を留めて、リヒァルトは呟くようにその名を呼んだ。少女はまっすぐに青年を見つめて、大きな瞳をさらに見開く。
 ――ごめん、ね。
 強まりゆく光の中で、青年の口元が、確かにそんな形に動いたように見えた。その直後、ひときわ強い光が辺りを染めた。誰もが思わず閉じた瞳を、次におそるおそる開けた時、そこには竜をかたどった剣が地面に突き立っているだけで、青年の姿は影も残されていなかった。
 誰もが呆然とした一瞬の静寂の後に、突き抜けるような少女の甲高い悲鳴が、夜空に響き渡った。

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