ウォルタ村。村はずれの小屋。
バタン、とそれなりの重みのある音をたてて、分厚い本は閉じられた。長い年月を思わせる埃が小さく舞い上がり、夜の闇を赤く照らしているランプの炎は、ほの揺れる。よっぽど苛立ったのか、その表紙の上に手をおいたままで、クラウスは苦りきった顔をした。
「何語で書いてあるんだよ、これは……。もう少し子孫のことを考えて残してくれよ。こんなん読み終わる頃には俺たちジジイになっちまう。」
「ジジイって……。」
小さな机を挟んで彼の正面に座っていたリヒァルトはぱちぱちと両目を瞬かせた。彼の前にも古びた書物が置かれている。
魔剣について、村に伝わる伝承以上のことが何かわからないかと考えた二人がまずとりかかったのが、古書漁りだった。しかし、これがいざ始めてみるとすぐにとんでもない難作業であることが判明した。まず、古書自体が大量にあったのに加えて、その中身はほぼ間違いなく、この上なく難解な代物だった。何が書いてあるか見当さえつかないことも珍しくない。やっとのことで輪郭がつかめたと思ったら、それは植物の生態や薬効を記したものであったり、意味不明の錬金術の実験の手引きと思しきものであったり、果ては異国の古い歴史の記録らしきものであったりもした。全く、ウォルタ村の始祖、グレイグという人間はどんな趣味の持ち主だったのだろうか。
もともと頭より先に身体の動くタイプのクラウスにとっては、それは苦行にも等しい作業であった。かといって表立って誰かに聞くわけにもいかず、他に方法も思い付かないとあっては、はがゆい思いをしながらも、読みにくい文字の海にまみれるより仕方ない。あまり村びとに怪しまれるわけにもいかないので、人目につかぬよう、夜を選んでいるというのも効率の悪さに拍車をかけた。それでも時間はたくさんあると思っているうちはまだ耐えられた。
しかし、1年、2年と矢のように時間が飛んで行き、いつしか残り時間が半分になっているのにめぼしい収穫はない、ということになると、彼の焦りも苛立ちも、尤もだと言えた。
ぶつぶつと文句を言いながら、再び本を開こうとして青年は手を止めた。相方の青年が、くすくすと笑い出したのに気付いたのだ。
「何かおかしいか、リッヒ。」
クラウスは憮然とした顔でで抗議する。リヒァルトはほんの一瞬、驚いたかのように悪戯っぽく目を見開いてみせ、再びくすりと微笑んだ。
「だって、そんなクラウス、久し振りに見た。成人してから急に物静かになっちゃったんだもん。僕、ちょっと寂しかったんだからね。」
「……。」
本気なのか冗談なのか。からかうような、そして少し甘えるようなリヒァルトの口調に、クラウスは思わず閉口した。
確かに、一族の秘密を知ってから、幼馴染みに対して重すぎる秘密を持ってしまってから、クラウスの口数はめっきりと減った。リヒァルトと顔を合わせることも格段に少なくなった。何も知らない無邪気な彼に会うのは、気が重すぎたから。知らず知らずのうちに、彼を避けていたというのが正確だろう。
リヒァルトにあの出来事を話すのは、この上なく苦く、重苦しかったが、同時にやっと秘密の呪縛から解放されて、クラウスは少しずつ彼本来の闊達さや屈託のなさを取り戻していた。
「まあ、メイラはまめに相手してくれたし、交易のついでに山あいの村で教えてもらって銀の鋳造覚えたんだけどね……。知ってる? メイラはああ見えて髪飾りとか作るのうまいんだよ。特に石の使い方が上手なんだ。」
リヒァルトの珍しい饒舌に、クラウスはふと、以前彼が作っていた銀の髪飾りを思い出した。そういえば彼の感性はかなり女性的かもしれない。寄木細工を好んだラトキスも、繊細で柔らかく、暖かみのある作品をよく作っていたけれど、リヒァルトの作るものは繊細さに加えてどこか清廉で儚く、透き通るような少女を思わせる。
「……それはそうとさ。」
クラウスはおもむろに口を挟んだ。いつもは飽きる様子もなく、真剣な顔をして古書とにらみ合っているのに、今夜はにこにこと笑いながら雑談に花を咲かせるリヒァルトに、少しばかりの訝しさが胸の中にわき上がる。
「結局、長さまから例の話は聞いたんだったよな?」
「……うん、聞いたよ。」
無邪気な笑顔を浮かべていたリヒァルトの表情に、少しばかりの陰がさす。
「前から思ってたんだけどさ、こういうのって長の家系に口伝で伝えられたりするもんじゃないのか? リッヒは一応れっきとした跡継ぎだろ? もう成人もしてる。長さまから何かそういう話は聞けなかったのか?」
「僕もそう思って何度もそれとなく聞いたんだけど……、結局教えてもらったのはクラウスに聞いたことと同じで……。それ以上のことは『お前は何も心配することはない』の一点張り。」
「そうか……。」
小さく溜息をついたリヒァルト以上に、クラウスは肩を落として落胆を露わにした。
「じゃあ仕方ないな。これと取っ組み合うしかないのか……。」
眉をへの字に曲げて、忌わしき古書の表紙をつまみあげる。
「ふふふ。」
その様子に、リヒァルトは今度は小さいながらも声をたてて笑う。
「よかった。」
「?」
友人の口から突然涌いて出た、およそふさわしくない言葉に、クラウスは思わずぽかんと口を開けていた。
「……そっちの方がよっぽどクラウスらしい。」
「おい……。」
「僕は難しい顔して押し黙ってるクラウスより、今のクラウスの方が好きだよ。」
クラウスが唖然としているのを気にとめる様子もなく、リヒァルトはにっこりと笑う。
「今日はもう遅いから帰るね。おやすみなさい。」
言うが早いが、もう立ち上がって扉に手をかけている。
「ちょっとリッヒ……。」
事態が飲み込めないままに腰を浮かせたクラウスを制するかのように、リヒァルトは「おやすみなさい」と繰り返した。彼の開けたドアの向こうに顔を出した満月は、異様に大きく、血のように赤い。見慣れたはずの幼馴染みの笑顔に、言い様の知れない不吉さを感じながらも、クラウスはその背中を見送ることしかできなかった。
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