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4、 死すべき者
時間というのは深い淵のようなものだ。慌ただしく流れゆくのは水面近くの浅い水だけで、暗く沈んだ水底では、淀み、溜まり、留まり、そして忘れ去られてゆく。
静かに吐いた長い溜息は、冷えた闇の中へと消えて行く。動かぬ時間を持て余してか、ミシェルは軽く瞳を閉じた。思索に耽っているのか、その姿は闇に沈む彫像のようで、凍り付くような静けさを醸していた。
不意に耳障りな羽音が降って来て、ミシェルはそっとまぶたを持ち上げ、あからさまに眉根を寄せた。確認せずとも、招かれざる客の到来は明らかだった。
「よう兄ちゃん、また来たで。」
「……何しに来たのですか、イブリース。」
この黒い鳥の為には、たかだか瞳を上げるのも煩わしいらしい。ミシェルは床に視線を落としたままで、帰れと言わんばかりに不愛想に応えた。
「わざわざ聞かんといてや。そりゃもちろん、わいの可愛い嬢ちゃん見に来たに決まってるやん。」
イブリースの方は、皮肉もあてこすりもどこ吹く風。図々しくそう言い放ち、にんまりと笑うと、闇を映したままの鏡の上にとまった。途端、その面がさざ波を立て、ぼんやりとした光を放ち始める。
「……。」
ミシェルは憮然としたままで、黙って顔を逸らせた。あの少女を見たいなら、わざわざこんな古城の地下にまで来なくともよい。直接見に行けば済むことだ。言ってやるべき嫌味ならいくらでも思い付くが、どうせこの確信犯は、言っても毛ほども感じない。いくら時間や労力が余っているとはいえ、明らかに無駄とわかっていることに使う気はさらさらない。
「何や、兄ちゃんは見ぃひんのかいな。……ほうほう。」
鳥はいちいち余計な軽口を叩いてから、首を曲げて鏡の中を覗き込んだ。なんとも滑稽な格好ではあるが、一向に気にはしていないらしい。
映し出されたのは、見覚えのある師弟。少女の方は、少し瞳を潤ませて、頬を膨らませ、口元をきゅっと結んで、上目遣いで師を見上げていた。師の方は、渋い顔をして溜息をつきながらも、その唇の端にわずかに笑みを乗せている。声までは届かないが、『仕方ないわね』とでも言っているような雰囲気で、軽く少女の髪を撫でる。
「あっちゃぁ……。甘々やん。」
鳥は大袈裟に肩らしきところを竦め、片方の翼で目を覆う振りをした。
「そりゃ見たくもなくなるわな。手塩にかけて育てた魔女が、こ〜んなに甘々になってもうて。わかるで、兄ちゃん。そりゃイライラもするし、機嫌も悪なるんもしゃぁないわ。この分やったら、近いうちに取りかえしのつかへんことになるかもしれんし、せっかくやから食っちまうんやったら早い内に……。」
「イブリース。」
うんうん、と訳知り顔に続ける鳥を、ミシェルは射るような鋭い視線で一瞥した。
「ん?……うわ、あちち、あち、何すんねん、熱いがな!」
途端に、赤い炎がイブリースの身体に絡み付き、鳥は聞くに耐えないだみ声の悲鳴を上げる。
「おしゃべりが過ぎるとどうなるか、すでに言っておいたはずですが。」
ミシェルは冷徹な笑みを浮かべると、冷ややかにそう言ってのけた。
「熱い、熱い、消してぇな、兄ちゃん。……もう。」
イブリースは一通り見苦しく暴れてみせたが、無駄と悟ると、諦めたような、拗ねたような声をあげて大人しくなった。
不意に、ばさり、と大きな音をたて、燃え盛る火球の中から巨大な闇色の翼が生え出る。ついで、褐色の滑らかな手足と漆黒の巻毛。まるで卵から生まれでるかのように、炎を内側からかき消して、背に翼を生やした人の姿したものが現れ出る。
「ふぅ……。綺麗な顔に似合わず手荒なことをする。」
つい先程まで黒い鳥であったそれは、黒曜石のような瞳を数回ゆっくりと瞬かせて、確認するかのように自らの指を闇に透かす。おおぶりな唇にわずかな笑みを浮かべ、ほどよく筋肉のついた身体を覆う布の裾を軽くいじり、前髪をかきあげる。かと思えばちらりと振り返って背の翼を見遣ったりと、自らの姿を点検するのに余念がない。
「品のないものと毛の散るものは嫌いだと言っているでしょう。」
ミシェルの方は興味なさげに他所を向いたままで、その口調は相も変わらず冷たい。
「全く気難しいな、お前は……。ふむ、たまにはこの姿もいいものだな、鳥の方が楽でいいんだが……。いや、どうも鳥の時はつい口が滑って困る。ほら、よく人間も言うではないか、鳥頭というやつか? そういうわけだ。あはははは……。悪いな、まあ許せ。」
イブリースは、悪びれもせずにそう言い放つと、磊落(らいらく)に笑った。その様子が全く悪意というものを感じさせず、むしろ子どものように無邪気な印象さえ受けるのは、中性的でエキゾチックな顔だちのせいだろうか。ミシェルの細部まで作り込まれた繊細な美貌と比べれば、顔の部品は一つ一つがおおぶりであり、ともすれば粗さを感じさせる。しかし、滑らかで艶やかな褐色の肌と深い光を宿した漆黒の瞳は、一種匂いたつような肉体的な色香のようなものを漂わせている。
「まあ……。少なくともその姿の方が見られますし、話も通じそうですね。で……何の用ですか。」
ミシェルは嘆息して、指でこめかみを押さえた。
「前から言っているではないか。私はお前が好きなのだよ。」
イブリースは恥ずかしげもなくそう言うと、いかにも愉しげにからからと笑う。不思議なもので、同じ台詞を吐いても、鳥の時のような独特の不粋さや野暮さを全く感じさせない。
「ついでにヒトという生き物も、な。無力で一途で愚かで、創造主とやらが愛するのもよくわかる。奴は己に従順で力無き者が好きだからな。」
「ほぅ……。好きだから悪戯をするわけですか。」
あからさまに白けたミシェルの言葉にも、イブリースはただ笑うだけ。
「お前が時々羨ましい。私も、在るものをあるがままに愛でられたらいいんだがな。」
――お前のは欲しいものを欲しいと言えないだけだろう?
イブリースの台詞の中に、そんな皮肉を読み取って、ミシェルは無言で相手の瞳を見遣った。が、すぐに思い過ごしだと切り捨てる。この最古参の魔物がいつから存在しているのかはわからないが、少なくとも世界が美学だとか体面だとかいうものを覚える前からであることは確実で。そんな相手が意図して皮肉やあてこすりを言うはずもなく、ましてや何の説明も言い訳も通じるはずもない。
「秩序というものを見ると、どうもいけない。少し手を出してみたくなるのだよ。ほら、鏡のような水面を見ると小石を投げてみたくなるだろう? あれと同じだよ。人が力無き故に、我らより優遇されるなら……、人に力を与えたらどうなるのか、少し興味が出てきてな。」
「少しの興味の結果が、あの魔剣ですか?」
呆れたように渋い顔をするミシェルに、やはりイブリースはくつくつと笑うだけだった。
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