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3、 Another Curse

 目の前に人の気配を感じて、レイノルドはそっと顔を上げた。心配そうな女性の顔を認めて、唇に自嘲気味の笑みを浮かべる。あの重いドアが開いたことにも気付かないとは、なんという有り様だろう。
 彼女、レイシアは表情を崩すことなく、彼の瞳を見つめたままで、静かにレイノルドの向かいに腰をおろした。
「リヒァルトが帰ってきてたんですね。」
「義姉さん……。」
 レイシアの穏やかな眼差しから逃れるかのように、レイノルドは俯いた。大木から作られた、一枚板の机の木目は流麗な曲線を描く。その流れをせき止めるかのような大きな硬い節が、彼の視線を無言のままに受け止めた。
「あの子が……何か?」
 顔をあげなくとも、彼女が少し小首を傾げているのがわかる。昔からよく知った従妹。唇に二本の指を当てているのも。ずっと昔からの、幼い頃からの、彼女の癖だ。
「……アイリスを見かけたそうだよ。」
 隠し通す自信も気力もなく、レイノルドは呻くように答えた。レイシアの顔がぱっと輝く。それはむしろ痛々しい程に。
「アイリスに? まぁ? あの子、元気にしてるのかしら?」
「……ああ、そうみたいだ。」
 彼女の嬉しそうな声がなんとも辛くて、彼は曖昧に答えた。
 魔女として追われていた、などと答えられようはずもない。もっとも、魔女に弟子入りした者が普通の人間の前に姿を現した、それがどういうことかというくらいは、聡明な彼女ならすぐに察しがつきそうなものなのに。母親とはなんと愚かしく、哀しいまでに我が子を想えるものなのだろう。自分は、それが怖くて、一度も名前を呼ぶこともなくあの少女を遠ざけてきたのに。身内として愛してしまえば、長としての立場を全うできなくなってしまうから。
「……ごめんなさい。」
レイノルドの戸惑いを違う意味に解釈したのか、レイシアの声は沈んだ。
「私の我が侭で……。あの人が亡くなってから、貴方には厄介ばかりかけてしまって。」
「ああ……、いや、いいんだ。これが、私の役目なのだから。」
 レイノルドは、諦めを含んだ笑みを唇に浮かべた。
 レイシアの夫、アンドルフはレイノルドの実兄にあたる。彼が若くして亡くなったために、『魔剣に呼ばれた』という噂が立ち、村びとたちの恐怖や焦りはいやがおうにもかきたてられた。それがリヒァルトに向くことを怖れて、レイシアの懐妊を早いうちに大人たちに知らせたまではよかった。しかし、当然、村びとの感情は行き場をなくすことになる。一刻も早く贄を捧げることを望んでも、肝心の子は、未だ母親の胎の中なのだから。そして、それらのぶつかる先は結局、長であるレイノルド。彼は水鏡のようにそれを静かに受け流してきたはず。兄を亡くした哀しみに浸る間もなく。
「いいんだ……。貴女こそ……。何より一番、辛い思いをしたのは……。」
 独り言のようにレイノルドは呟く。レイシアの顔が一瞬、歪んだ。泣き顔のような笑い顔のような、強張った表情を顔に張り付かせる。それを見て、レイノルドは言いかけた口を噤んだ。自分の兄と結婚した時から、否、生まれた時から贄になる子を産むことを運命付けられていた、哀れな従妹を責めることはおろか、慰めることさえ彼にはできなかった。
「私は……。贄にするために……、ただ殺すためだけに、あの子を産んだ……。」
 レイシアは青灰色の瞳を伏せて、抑揚のない口調で無情の言葉を紡いだ。
「でも……、あの子は生まれて来た……。生まれて来て、産声をあげた。それを聞いて、涙が出たわ……。この世に生まれて来て、誰にも生きることを望まれなくて、誰からも愛されなくて、ただ死ぬことだけを求められるなんて……。そんな人生、あっていいはずがない……。親が与えていいはずがない……。そう、思った。思ってしまった……。」
 感情を抑えていた声に、苦渋の色が混じる。レイシアは厚い机に両肘を突き、両手で顔を覆う。細い指の間から、マロンブラウンの柔らかな髪が零れ落ちた。
「あの魔剣の禍々しさはわかっているつもり。私一人の我が侭で、一族が守って来た言い伝えや習慣を破ってはいけないことも……。でも、もしかしたら、力があれば、それをうち破れるかもしれない。ハサルトの血は、あの子に力を与えなかったけれど、魔女の力を身につけることができたなら……。馬鹿げた思いつきだということはわかっていたけれど……。」
 レイノルドは、俯いたままのレイシアに悟られぬよう、密かに大きく息をついた。やりきれなさに唇を噛む。本意ではなくとも、早くに逝った兄を恨む思いを感じながら。
「でも、ひょっとしたら、ただ贄になるべき子に、それに相応しい力がないことをただ恥じただけなのかもしれない……。私には、わからない。何ものにも囚われないように、と願ってあの子に虹の女神の名前をつけたけれど……。それだって、あの子を呪縛するだけの私の勝手な想いかもしれない。」
「そうだったのか……。私はまた、初代の名前を頂いたのかと思っていたよ。」
 彼女の自責を黙って聞き続けるのは忍びなかったのか、レイノルドは気付けば口をはさんでいた。
「あの子の髪は金髪系だったから……。」
 目が泳ぐのが、自分でもわかる。とんでもない失言をしたことにはすぐに気付いた。もっと気の利いた台詞を見つけだせない自分を呪いながらも、取り繕うように言葉を繋ぐ。
「金髪のアイリス? 勇猛で聡明で……グレイグと魔剣の呪いを分け合った人ね……。」
そして、結果として、その子孫たちがそれを背負うことを決定づけた人。
 彼女はその部分を口にこそ出さなかったが、気付いているのは明白で。重い沈黙の中、レイノルドは冷や汗が背中を流れるのを感じていた。レイシアは沈痛な顔をして押し黙っている彼の顔を、微妙な表情で眺めた。やがて、その唇からこぼれた言葉が、レイノルドを凍り付かせた。
「結局、私は、長の家系の者としても……、母親としても失格ね……。兄さん。」 「レイシア……。」
 さらりと台詞の最後につけられた言葉は、ともすれば聞き逃してしまいそうだった。もし、そうであればどれほど良かったことだろう。レイノルドは、咄嗟に取り繕うことも叶わず、呆然と目の前の女を見つめる。
「やっぱり……、そうなのね……。」
 レイシアは、壊れそうな笑みを浮かべる。その瞳が小さく震えていた。
「……。」
 レイノルドは、からからに乾いた唇を辛うじてわずかに動かした。が、何の言葉も出てはこなかった。レイシアは、そんな彼の顔を見て、そっと両目を閉じた。小さく息を吐き、再び目を開ける。諦めたような笑みを漏らし、柔らかな視線を机に落とした。

「あの人は……、知っていたのね。なかなか、私を抱こうとはしなかったもの。どうせ贄にとられるなら、子どもは一人でいいって。でも、私はどうしても二人目が欲しかった……。リヒァルトを失いたくなかった。育っていくあの子を見ていると、その気持ちがどんどん大きくなっていった……。」
 むしろ、どこかふっきれたような口調で、レイシアは続けた。ほっと大きく息を吐き出すと、再び瞳を臥せる。彼女には珍しく、口調が自嘲の色彩を帯びる。
「馬鹿だったわね……。2人目の子なら、何の躊躇いもなく差し出せると思ってたなんて……。結局、ラトキスにも、あの優しい子にも、あんなに辛い目に遭わせてしまった……。」
 あの一件以来、村ではアイリスのことはそれ以前にも増して禁句となった。おかげで、レイシアが少女を連れ出しても、表立っては誰も詮索しようとはしなかったし、村が混乱に陥ることもなかった。皮肉なことだが、ある意味、アイリスもレイシアもかえって救われたのかもしれない。だからこそ、胸を噛む想いもひとしお。
「時々、思うの。こうまでして、血を守らなければいけないほどのことだったのかしら、始祖が魔剣に願ったことって……。今となってはわからないんでしょうけれど、彼は一体何を望んだのかしら?」
「レイシア……。」
 かける言葉も見当たらず、レイノルドはただ呻くように相手の名前を呟いた。
 『きょうだいのように』育ってきた従妹が実は腹違いの妹だと、年の離れた兄に聞かされたのは、もう、10年近くも前。彼女は生まれてすぐ、子どものいなかった叔父夫婦に密かに引き取られたのだ、と話した時の兄は、なんとも投げやりで焦燥感に溢れていた。彼が亡くなったのは、それから間もなくのことだった。始祖グレイグがその妻と魔剣の呪いを分け合ったために、その子孫に残された禍根。最上の贄を差し出す為には、彼らの血を薄めるわけにはいかなくて。誰に告げることもなく、一人背負った秘密と背徳は、どれほど兄を苛んでいたのだろう。そして兄が去って、それらを引き継ぐことになった妹に比べれば、自分が負った分など微々たるものだと痛切に思う。せめてこれから先の者に負の遺産を残すことなく、この手で決着を。密かに胸中で誓うレイノルドに、レイシアは、そっと微笑みを向けた。
「でも……。それでも、私はあの人を……。子どもたちを、愛していたわ。」
 ――そして、あの子より後まで生きているつもりもない。
 口には出されない思いを込めた、清々しくも儚なげな笑みは明らかに本物だったから。レイノルドの胸はじくんと痛んだ。


 鋭く尖った細い刃をそっと押し当てると、心地よい程に軽い音とともに、薄く削れた木屑が丸まってめくれあがる。リヒァルトは、削り出した木の細工を確かめるように指で撫で、宙に透かした。轟々と燃える炉にかけた坩堝(るつぼ)の中では、銀と少量の銅が、真っ赤に溶けて混じりあっている。青年はおもむろに立ち上がり、小さな木枠に砂を詰める。棒で突き込む度、ぎゅっぎゅっと軋むような音をたてて、砂は堅く締まっていく。
 一心に手を動かしていれば、何も考えずに済んだ。否、必要以上にかき乱されずに済んだ、と言うべきか。どんなに細かい作業に没頭しようとも、いなくなった青年のことも、妹のことも、そして、聞かされたばかりの一族の秘密も、彼の頭から離れることはなかったのだから。
 十分な手ごたえを感じて、手を止める。先程まで削っていた木の細工を砂に強く押し当てる。しばしおいてそっとはずせば、砂にそのままの型が残る。次に、小さく削った蒼い石を慎重に置くと、坩堝の中の銀をそっと砂型に流す。焼け付くような熱気が、青年の前髪をふわりと持ち上げた。ねっとりと揺れながら、次第に赤みを失って行く銀を、彼はじっと見つめていた。その視線でそれを冷やし固めようとしているかのように。
 ふと、近寄ってくる人の気配に気付いて顔を上げる。
「ここにいたのかい、リッヒ。」
 柔らかく声をかけてきたクラウスに、リヒァルトは苦笑にも似た笑みを向けた。どうやら彼はずっと前からそこにいて、リヒァルトの作業を見ていたらしいことに気付く。クラウスもくすりと小さな笑みをもらし、リヒァルトの隣に腰掛けた。徐々に黒みが引いて、優しい輝きを放ち始めた銀細工へと目を落とす。
「髪飾りかい? ……見事だね。」
 花をかたどった細工は、優美な曲線を描く茎をすんなりと伸ばし、その先端に控えめな愛らしい蒼い花弁をつけていた。繊細でありながら清楚でもあり、シンプルなのに精緻な髪飾りは、まさに見事と形容するに相応しい。
 しかし、クラウスの賛辞には微妙な響きが含まれていた。この優しい流れるような銀色と可憐な蒼は、細くて真直ぐな亜麻色に映える。細工が見事であるがゆえに、見る者が見れば、誰のために作られたかが一目瞭然だったから。
「山あいの村で、質のいい銀が手に入ったんだ。この石も、ね……。珍しいだろ? 少しだけ紫がかかってる。」
 リヒァルトはそっと、薄い笑みを浮かべた。
「この石があまりにあの子の瞳に似ていたからつい……。わかってたんだけど……わかってたつもりだったね。でも、よりによってこんな時にあの子に逢うなんて……。皮肉だよね。しかも……、まあ、もうあの子には似合わないかもね。瞳の色、変わってしまっていたし。」
 クラウスの台詞を先取りするかのように、淡々と続けて、小さく息を吐く。そしてわずかに温もりを残すばかりとなった銀細工に手を伸ばし、ゆっくりと丁寧に磨き始める。その手許を、クラウスは無言で眺めていた。
「ねえ、どうして僕は何も知らなかったんだろう? アイリスのことも、ラトキスさんの辛さも、何も……。どうして、何も知らないままに……。違う、知ろうともしなかったんだ……。」
「リッヒ……。仕方なかったんだよ。お前が悪いんじゃない。」
 視線を宙に浮かせたまま、どこかぶっきらぼうな調子で、クラウスは慰めの言葉を口にした。リヒァルトは一瞬、抗議の形に口を開いて、思いとどまった。
「……ありがとう。」
 素直に、小さく礼を言う。
「ん……。」
 兄のような友人は、暖かい笑みを唇に含んだ。
「……。あれから、考えたんだ。」
 リヒァルトは、二人の間に漂っていた沈黙を静かな言葉で破った。
「やっぱり、納得がいかないんだ。おかしいと思う。5代目の末の子を贄にしたらそれで解放されるなんて……。第一、不自然だ。まだ、何かあるんじゃないのか?」
「……俺もそう思うよ。あの言い伝えは不自然だ。でも、ラトキスさんじゃないけど、あの魔剣が人の血を啜るところを見たら、どんなに筋の通っていないことでも信じたくなってしまう気持ちもわかるんだ。」
 クラウスはリヒァルトの言葉に寄り添うように、一つ一つ言葉を紡いだ。
「なんとか……、ならないのか? なんとか、できないのか?」
地面の一点を見据え、リヒァルトは痛切な言葉を吐き出した。
「リッヒ……。少なくとも、多分時間はまだあると思う。」
 リヒァルトの様子に、クラウスはどこか諦めたように息をつき、すぐに表情を引き締めた。
「ラトキスさんは、あの時、魔剣が祭壇から抜けなかったって言ってた。それに、あの洞窟は子どもは入れないことになってるだろ? ちょっと思い付いて調べてみたんだ。その限りでは、この村に18才以下で死んだ者はいないんだよ……。だから、たぶん、あの子が18になるまでは大丈夫……。」
「クラウス……。」
「始祖は魔術の研究もしてたと言われているし、調べてみたら何かあるかもしれない。……足掻いてみるのも、いいかもしれないね……。」
 食い入るように自分の顔を見つめるリヒァルトに、クラウスは静かな、穏やかな笑みを返した。
 

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