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4、Creaking

「見て見て、アリア師、できたよ……じゃなかった、できましたぁ!」
 少女はすっかり興奮した様子で、地面に転がった木切れを指差した。それは確かに先程まではそこから数歩離れた岩の上に置かれていたものだった。にしても、そんなに懸命に主張しなくても、ことの経緯はアリア自身がきちんと見ているのに。
「そう。よくできたわね。」
 思わず溜息をつきそうなのを抑えて、さらりとそう言うと、アイリスは大きな瞳をぱちぱちと瞬かせた。軽く首を傾げてから、小さな唇をきゅっと結び直す。どうやらアリアの反応は彼女の期待通りではなかったようだ。
「もっかいやるの。」
 少ししょんぼりした様子で言うが早いが、ぱたぱたと走って木切れを拾い上げ、岩に刻まれたくぼみにそれを立てる。そして駆け足で元の位置に戻ってくると、大きく息を吸い込んだ。一度息を止めて、そして静かに吐き出していくと、周囲をとりまく空気が鎮まりかえっていく。たゆたう風の糸の間をくぐるように意識を巡らせ、空間を切り取って、入れ替える。
 ころり、と小さな音をたて、さっきよりはるかに離れた地面に転がった木切れをもう一度指差して、少女は期待いっぱいの顔で師を振り返った。
「よく、できたわね。」
 アリアが慣れない笑顔でそう言うと、今度は少女も満足したらしく、にっこりと嬉しそうな笑みを浮かべた。そしてまた木切れを拾い上げ、いつものように反復練習に入った。熱心に練習しているアイリスに気取られぬように、アリアはそっと溜息をつく。
 「よくできた」、確かにそれは嘘ではない。もともとが利発な子なのだろう、乾いた砂が水を吸うように少女はどんどん知識や技術を吸収していくし、特に今やっているような転移魔法は修得が早い。そして何より熱心に修業に取り組んでいる。むしろ弟子としては優秀な部類に入ると言っていい。ただ、アリアが戸惑いを感じるのは、それらは全て自分に褒めてもらいたいがためにやっているようだということ。「よくできたわね」の一言のために、何回も繰り返して練習をし、誇らしげに笑顔を輝かせ、奈落の底に落ちたかのように失意を露にする。それがアリアにはどうも理解しかねた。
 ――まあいいわ。
 物憂げに髪をかきあげ、あっさりと出口の見えない思索を放棄する。この子は自分とは違うのだから。いずれ「人」に還る子なのだから、それはそれで構わない。
『まさか貴女……。ことが終わったらあの子を普通の人間に戻すなどという甘いことを考えているのではないでしょうね?』
 不意に、あの銀髪の吸血鬼の言葉が耳に蘇ってきて、アリアは顔をしかめた。忌々しげに頭を振ってその声を追い払う。
「ねーぇ、アリア師。」
 気付けば弟子がぱっちりと開いた目で見上げている。
「何?」
 アリアは胸の奥で起こる小さな動揺を押し殺して、短く答えた。2年前、精霊との契約を結ばせて以来、この瞳に見つめられるとわずかに胸が痛むような錯覚を覚える。無垢な少女に、本来とは違った色をつけていくことに対する罪悪感にも似た、違和感を。
「次は何をすればいい……ですか?」
 語尾を間違えないようにと、くるくると視線を宙に泳がせていた少女は、無事に言い終えて安堵の表情を見せた。
「そうねぇ……。そろそろお昼にするから水をくんできて頂戴。紙とインクが切れてしまったから昼からは出かけるわ。ついていらっしゃい。」
「はぁい。」
 嬉しそうに返事をして駆け出す少女の背中を見送って、アリアはいつもの溜息をついた。

 ごくたまに気紛れな旅人が立ち寄る程の、山あいに開かれた村は決して栄えているわけではない。それでも、100年程前にこの国に内乱が起こった際に地位を失った当時の貴族たちが地方へと落ちて行った影響で、首都から遠く離れたこんな片田舎でも読み書きのできる人間は少なくはない。とはいえ、わざわざ紙を所望する人間は珍しいらしく、道具屋の主人はしげしげとアリアを頭の先から爪先まで眺めた。彼女のまとうどこか俗離れした雰囲気とあいまって、没落貴族の直系かとでも思ったのだろうか。在庫を確かめに店の奥へと引っ込む時にもちらちらと何度もこちらを振り返っていた。
 さすがのアリアもこれには閉口して、行き場に困った視線を傍らの少女へと落とした。きょときょとと落ち着きなくあちこちを見回していたアイリスは、師の視線に気付いてきまり悪そうな笑みを浮かべた。まるで悪戯を見とがめられたかのような。
「……いいわ。街の中をいろいろ見て回ってらっしゃい。くれぐれも魔法は使わないようにね。」
 アリアは呆れたように言うと、少女に小さな貴石をいくつか握らせた。物々交換の原則については既によく教え込んである。それでも胸の中の一抹の黒い靄のようなものが晴れないのは、あの吸血鬼の言葉が小さな棘となって残っているせいだろうか。そんな師の心中も知らずに、少女はぱっと顔を輝かせると、いそいそと店の外へと出て行った。
 足下に石畳があるのも、家がいくつも並んでいるのも、アイリスにとっては目新しくて、でもどこか不思議に懐かしかった。似たような景色をどこかで見たことのあるような気もしたけれど、どんなに考えてみても思い出せなかった。小さな胸の片隅にひっかかりのようなものを感じながらも、アイリスは考えることをやめてまたきょろきょろと辺りを見回した。ちょうど家の前で篭一杯の果物を選別していた男と視線がかち合う。男はひげ面に人の好さそうな笑みを浮かべて、少女に向かって手招きをした。
「お嬢ちゃん、旅の途中かい?」
「……えっと……。」
 急に声をかけられて、少女は縮こまった。にこやかな顔をしていても、男のひげ面はやっぱり怖い。当の男は構わず手招きを続けるので、びくびくしつつも近寄ってみる。男は笑みを苦笑いに近いものに変えて、手許の篭から赤い木の実を取って差し出した。こうなると現金なもので、つい先程まで強張っていた顔はゆっくりとほころんで、愛らしい笑顔を形作る。
「ありがとう。」
 にっこりと笑って受け取ってから、師に教わったことを思い出して、アイリスは代金代わりの小さな石を取り出した。
「ああ……。」
 男は困ったような顔をして、いらないと身ぶりで示したが、少女はただきょとんとした顔をして首を傾げるだけで、どうやら意味は通じていないらしい。男は頭をかいてそれを受け取ると、代わりに袋にいくつか果物を詰めた。
「お嬢ちゃん、お母さんは?」
「おかーさんってなぁに?」
「あ、いや、ごめん……。」
 手を動かしている間の沈黙を追い払おうとして何げなく口にした質問が裏目に出たことを悟り、男は思わず口を噤(つぐ)んだ。少女の方をちらりと見ると、相変わらずきょとんとしている。ますます額に冷や汗が流れるのを感じながら、男は果物をとる右手の動きを速めた。と、左手に抱えていた袋への注意がおろそかになって……。
「あ。」
 二人の声が重なる中、袋はぺこりとおじぎをして、その口からぽろぽろと木の実を吐き出した。
 ――あ、落ちちゃう。
 そう思った瞬間、ほとんど反射的に少女はその言葉を口にしていた。まっすぐに重力に引かれて落ちるはずだった木の実はぴたりとその動きを止める。
「はい。」
 小さな手でその実をつかむと、アイリスはにっこりと笑って男へと差し出した。その足下に、無機質な音を立てて、次から次へと他の木の実が落ちて転がる。
「え?」
 状況が飲み込めず、少女は男の顔を見つめ直した。男の顔は蒼白と化し、目と口をぽっかりと開けたままで硬直している。ひげに覆われた唇は細かく震え、そして静寂を破る言葉を紡ぎ出した。
「……魔……女……。魔女だぁ!!」
 掠れ声が、恐怖に満ちた叫び声に変わり、周囲の空気が一転した。ばたばたと足音が入り乱れる。
「え? え?」
 相変わらず何がおこっているのかわからずに、アイリスはただ周りを見回した。不意に、がつんと鈍い音がして頭に衝撃が走り、2、3歩よろめく。思わず額に手をやって、その感触に、おそるおそる視界へと下ろす。小さな白い指が赤く染まっているのを確認して息を飲むのとほぼ同時に、少女の身体をかすめて堅い塊が飛んで来た。




「ひっ……。」
 掠れた悲鳴はのどの奥でひっかかる。小さな足は震えて、地面にはりついたかのように動かない。まるで水中にいるかのように、浴びせられる声は意味を失って、わあああんと響く。自分に向けられる目は全て爛々と恐ろしく光り、口は汚いものでも吐き出すように歪められている。
 反射的に顔をかばった腕に、小さな胸に、小刻みに震える膝に、次々と投げ付けられる石はぶつかり、あるいは掠めて飛んで行く。
 腕を振り上げ、罵声を上げる人々の間から、背筋が寒くなるような黒い塊がわき上がってきて、自分を押しつぶし、飲み込もうとしているかのような恐怖を覚え、アイリスは幼い顔を引き攣らせた。
「今のうちに始末しちまえ!」
「おーい、こっちだ!」
 新たにぎらぎらとした殺気をまとった男たちが走ってくるのを見て、少女はすくみ上がった。やっと呪縛の解けた足を一歩後ろにずらし、そしてくるりと向きを変えると脱兎のごとく走り出す。
「おい、逃げるぞ!」
 背後から迫ってくる、刃物のような敵意から逃れようと、少女は無我夢中で村の外へと走り出た。林へと飛び込み、ほとんど転げ落ちるように急な斜面を駆けおりる。伸びた枝が柔らかい肌を引っ掻くのにも、ごつごつとした石が小さな足を傷つけるのにも気をとられるヒマもなく、ただただ走り続ける。
「あっ……。」
 むき出しになった地面に足をとられ、上体が大きく泳ぐ。勢いのついた身体は嫌というほど地面に叩き付けられ、2、3度転がってようやく止まった。
「ふぁ……。」
 あまりの痛さに泣き顔になりながら、のっそりと起き上がっておそるおそる振り返る。その目に映ったのは、初夏の陽光に輝く木立と、涼やかな音をたてて流れる小川だけだった。
「……ねぇ。どうして?」
 少女は何度も何度もしゃくりあげながら、小川のほとりへと寄り、その流れを覗き込む。大粒の涙が柔らかい頬を転がった。
「……どうして、そんなに、楽しそう、なの?」
 ――あたしはこんなにぐしゃぐしゃなのに。
 ひっく。ひっく。嗚咽の合間に恨めしげな声を上げて、小さな手の甲で頬をぬぐう。清らかなせせらぎは、少女の問いに答えることなく、ただ、遊ぼう、遊ぼうと彼女を誘うかのように無邪気にきらきらと木漏れ日を跳ね返す。どこから飛んで来たのか黄色い蝶が少女の周りをひらひらと軽やかに舞う。それを見ていると余計に胸がつぶれそうになって、アイリスはまたしゃくりあげた。涙は止まらなくなって、後から後から溢れ出る。
 柔らかな土を踏む気配を感じて、少女は泣き顔をそのままに、慌てて振り返った。いつの間にかそこに立っていた青年と視線がぶつかり、息を呑む。
「あ……。あ……。」
 彼の表情が彼女のそれと変わらぬくらい凍り付いていることに気付く余裕もなく、少女は掠れた声をあげた。胸から口元へと上がってくる熱い塊に押されてじりじりと後ずさる。明るい陽光だけがうすら寒い程に暖かい。青年は見開いた視線を少女に釘付けにしたままで、口元へと手をもっていく。少女は唇を震わせながら、視線を逸らすこともできずに、その動きを目で追った。時が止まったかと思われるほどの張り詰めた静寂が二人を支配する。青年はほんのわずか眉を寄せ、躊躇いがちに口を開いた。
「……アイリス?」
「……や……嫌ぁぁ!。」
 青年の声が引き金になったのか、少女の中で言い様のない恐怖が弾けた。ぐしゃぐしゃと乱暴に頭をかきむしると、耳を劈(つんざ)く程に甲高い悲鳴をあげる。
「嫌! 嫌ぁ! アイリスを怒らないで! あいりすを虐めないで! ……あいりすを食べちゃわないで!!」
「え? ちょっと……。」
 少女は身体中で叫ぶと、彼の戸惑いを置き去りに再び全速力で走り去った。後には呆然としたままの青年だけが残された。

 今度は木の根につまづいて地面に転がり、アイリスは再び上体だけをのそのそと起こした。そのままぺったりと座り込む。もうどこをどう走って来たかわからない。胸はどきどきしているし、手も足もじんじんしているし、涙はぽろぽろこぼれて止まらないし……。こんなんじゃ、アリア師のところに帰れない。
 少女は小さな掌で手の甲で、何度も目元をこすった。
 泣いちゃダメって言われているのに、魔法使っちゃダメって言われてたのに、言い付けも守れないなんて、きっとアリア師に嫌われちゃう。
「……やだよ……。もう、いなくなっちゃいたいよぉ……。」
 悲しくて悲しくて、小さな声で呟くと、また目が熱くなって新しい涙が溢れてくる。もうそれをぬぐうことも忘れて、ただ途方に暮れて、少女は嗚咽にむせぶ。
「アイリス。」
 突如頭上から降って来た声は聞き慣れたもので、だからこそアイリスはぴくりと身体を震わせて身を硬くした。慌ててごしごしと目をこすり、強張った顔で声の主を見上げた。
「……。」
 アリアは大きな溜息をついて、アイリスを見下ろした。少女の泣き腫らした顔も、細い手足も擦り傷だらけ。着ている衣服も汚れ、ところどころ裂けている。それでも必死に喉の奥で泣き声を殺し、時折咳き込みながら、許しを乞うような哀れな眼差しでただただアリアを見上げている。その姿は見ていられない程に惨めだった。
 アリアは瞳を閉じてもう一度大きく嘆息した。気だるそうに髪をかきあげ、唇を噛み締めてから、ゆっくりと膝を折って少女の顔を覗き込む。赤く腫れた頬に手を伸ばせば、小さな身体は怯えたように縮こまった。アリアはほんの少し目を伏せて、ゆっくりと息を吐き出した。
「しっかりなさい、アイリス。あなたは……私の娘、でしょう?」
 驚いたように顔をあげた少女の表情がみるみるうちに崩れ行く。大声で泣きながら胸に飛び込んで来た少女の背中に、アリアはぎこちなく手を回した。

 太陽を拒む闇は、季節に関わりなく冷たく淀んでいる。古い鏡はミシミシと小さな音を立てて、その面にゆっくりと細かなひびを走らせる。そのぼんやりとした光に憂いの視線を落として、熱のこもらぬ長い長い溜息をもらす。繊細な銀髪がゆらりと揺れる。
「言って……しまったのですね……。」
 諦観にも似た恐ろしく表情のない声で、ミシェルは誰へともなく呟いた。
 在ってはならない出会い、言ってはならない言葉、気付いてはならない想い……。
 流れは歪み始める。否、既に在った歪みが元の形に戻りゆくのか。
「どちらにしても……。」
 闇に沈んだ天井を仰ぎ、瞳を閉じる。秀麗な、陶器のような横顔に一瞬、苦悩にも似た色を浮かべてすぐに表情を消し、ゆっくりと白いまぶたを持ち上げた。鋭く冴えた瞳が覗く。
 ――歯車はきしみながらも、回りゆく。

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