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3、契約
次の日、アリアはアイリスを外へと連れ出した。アイリスは、呼んでも呼んでもうさぎのカペラが出てこないのでしょんぼりとしていたけれど、アリアにどこかに連れていってもらえると知って一転、満面の笑みを浮かべた。アリアはそれを見て、少しだけ眉を寄せた。
変わり映えのしない山の中の景色でも少女には珍しいのだろう。アイリスは花が咲いてると言っては指差し、蝶が飛んでいるといっては追いかけして、二人の足はなかなか進まなかった。それでもアリアは少女をせかすでもなく、差し込む木漏れ日の中をただ押し黙って歩いて行く。時折立ち止まって少女の方を振り返っては、その無邪気さに溜息をつく。思いをめぐらせるかのように物憂げに瞳を伏せ、アイリスが小走りに追い付いてくると再び歩き出す。
「わあ、すごい。すごーい。」
急にぱっと開けた視界に、少女は歓声をあげて走り出した。
「わあ〜。」
山肌を渡る涼しい風に細い髪をかき回されるのにもかまわず、アイリスは眼下に広がる景色に見とれていた。遠くまで広がる緑色のビロードは緩やかな起伏を描く。その間を、細い川が縫うように流れていく。遥か遠くには淡い緑の平野、小さな箱のような街。そして地の果てはわずかに煙(けぶ)る。
「ねぇ……。」
少女は興奮を抑えようともせずに師の方を振り返ったが、その声はすぐに消え入った。アリアの顔が真顔なのはいつものことだが、そこにただならぬ雰囲気を感じ取って、大きな目を瞬かせながら首を傾げる。アリアはわずかに唇を開きかけて、思い直したように一度引き結ぶ。顔をあげて、目を細めながら涼風を受け、濡れたような黒髪を風に流して大きく息をつく。そして拳大の丸い翡翠の石を掲げて小さな声で呪文と思しき言葉を紡いで行く。やがて石の周りに風が渦巻いて行く様子を、アイリスはただぽかんとした顔をして見上げていた。
「珍しいわね。貴女が私たちに声をかけるなんて。ねえ、泉の魔女。」
緑の石をとりまく風は、小さな少女の姿をかたどった。翡翠の石にちょこんと腰掛けて足を組んだ少女は、柔らかな髪を風に遊ばせながら、小首を傾げて妖艶な笑みをアリアへと向けた。背に蜻蛉のような薄い羽をつけたその姿は、向こうが透けて見えそうな程に淡い。
「今日は契約をお願いしようと思って。」
アリアは髪をかきあげながら、手短かに用件のみを告げた。
「契約?」
少女はぱちぱちと大きな瞳を瞬かせた。
「貴女には私たち風の精霊の力なんて必要ないでしょ?」
「私じゃないわ。」
アリアは諦めとも呆れともつかぬ笑いを漏らして、傍らのアイリスの方へと視線を落とした。
「この子と契約して欲しいの。」
「この子?」
風の精霊はふわりと舞い上がると、値踏みをするように少女の周りを舞い飛んだ。アイリスの方は目を瞬かせながらきょときょとと首を回す。あたかも見えない気配を追うように。
「へぇ……。この子、私が見えてるわけじゃないみたいだけど感じてるのね。確かにそれなりの素質はあるみたいね。でも……。」
精霊は再び石の上へと舞い戻り、足を組んで首を傾げた。
「いいの? この子、生まれながらの魔女じゃないんでしょ? 契約って融合っていうことになるのよね?」
「……だからあなたたちに頼んでいるのよ。」
アリアはやれやれとでも言わんばかりに嘆息した。
時折、人の中には生来、魔力を持つ者がいる。アリアのようにその力の強い者が「生まれながらの魔女」ということになる。アイリスのように多少の感受性があっても魔力を持たない者が「魔女」になるには、魔力を持つ者、則ち人外の者との融合が必要ということになってくる。あまり勧められる方法ではないが、タチの悪い魔物と契約することを考えれば、精霊を相手にした方が害が少ない――それがアリアの結論だった。
「ふぅん……。そうねぇ……。この子の相手だったら……。」
精霊は、ぴんと立てた細い人さし指を唇にあて、白目のほとんどない瞳をくりくりと動かした。時折瞬いたり何かを呟いたりと、誰かと相談している様子であったが、不意に表情を輝かせて口を開いた。
「あ、あの子……、ステラが相手するって。うん、あの子とならちょうどいいと思うわ。若いし素直だしスレてないし。」
「そう……。それは何よりね。じゃあ契約は成立ということでいいのかしら?」
できるだけこの悪戯好きの精霊とは早く切り上げたいらしく、台詞こそ疑問調だが断定的な口調でそう言うと、アリアはアイリスに翡翠の石を渡した。
「だいたい話はわかるわね? じゃあそれ持って契約済ませなさい。」
少女はとりあえず言われるままに石を受け取り掲げてみたものの、もちろん全くといって良い程、話の流れは把握していない。渦巻く風の中に現れた小さな精霊の姿に、歓声をあげんばかりに目を輝かせた。
「あなたがマスター? あたし、ステラっていうの。よろしくね。」
ステラは、先程の精霊よりはずっと控えめで素直そうな笑みをアイリスへと向けた。その様子にアリアは少し安堵したが、アイリスの方は困った顔をした。
「マスターじゃないの。アイリスなの。」
「えっと……。じゃあマスターアイリスね。」
「だから、アイリスはアイリスだってば。マスターじゃないの。」
ステラの困惑を意にも介さず、少女は唇を尖らせた。
「……。じゃあ、アイリス。」
ついにステラが折れてそう呼ぶと、アイリスは満足そうな笑みを浮かべた。
「あたし、ステラはあなたと契約を結びます。あなたの身となってあなたに力を貸すことを誓います。」
「……。仲良くしてね。」
この契約の意味をほとんど理解することもなく、ただ相手が自分と仲良くしてくれるらしいということだけを認識して、アイリスはにっこりと微笑んだ。途端、掲げていた翡翠の玉が目もくらむ程の光を発した。思わず目を閉じた少女の方へと光はすごい速さでぶつかってきた。その衝撃に押されるかのように尻餅をついて、アイリスはゆっくりと目を開ける。そこにはもう翡翠の玉もステラも残ってはいなかった。
「……。とりあえず、契約は完了したみたいね……。」
眉を寄せてこめかみを押えながら、アリアは首を振った。
「明日から魔法を教えるからそのつもりでいなさい。」
なんとか気を取り直し、少女を促して帰途につこうとする。
「はぁい。アイリスね、アリア師みたいな魔女になるの。」
自らの身に起こったことをよくわかっていない少女は、ただ大きな目をぱちぱちと瞬かせていたが、師の言葉に花の開くような笑顔を浮かべた。きらきらと輝くその両の瞳を見つめて、アリアは不意に視線を逸らした。軽く眉をひそめ、唇を噛んで息を吐く。
「……じゃあまず自分のことをアイリスと呼ぶのをやめなさい。」
覇気のない口調でそう言うと、アリアは振り向きもせずに来た道を歩き始めた。少女は罪のない笑みを浮かべたままでその後ろを追いかけた。
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