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2、夜の虹

「ねーえ、アリア師。」
ばたんと音がしてドアが開く。アリアはゆっくりと物憂げに書物から顔をあげた。
 亜麻色の髪を振り乱して足音も騒がしく、少女が小屋の中に駆け込んでくる。その後ろを情けない声をあげながら、野うさぎが追いかける。少女の蒼い瞳がきらきらと輝いているのを見て、アリアは密かに溜息をついた。
 あれから三年の時が過ぎた。当時、歩くこともしゃべることもままならなかった幼子も、体格こそ実年齢に比して小さいが、今ではこの通りだ。そうなると好奇心旺盛な年頃の少女のこと、片時も黙って大人しくはしていない。最初に与えたうさぎのカペラではもう物足りないのか、何か見つける度にアリアの元へと駆け寄ってくる。その都度アリアは読書を中断され、心中辟易することも多くなった。否、正確に言えば、この幼い少女の身体に溢れんばかりの活気に戸惑いを感じていたのかもしれない。
「ねぇねぇ、見て見て。」
 そんな大人の事情など一向に構うことなく、アイリスはアリアの前に右手を差し出した。白い百合の花を握った、小さな幼い手。
「きれいでしょ? アリア師にあげたいなって言ったらお花さん、『いいよ』って言ってくれたの。」
 言ってにっこりと笑う。無邪気な笑み。罪も影もない笑顔。
「……。」
 アリアはほとんど反射的に、差し出された花を受け取った。どんな表情を作るべきか迷っていると、ふわりと甘い花の香が漂ってきて、思わず一瞬眉を寄せる。
「……。」
 少女は吸い込まれそうな程に大きな瞳で、じっとアリアを見上げていた。
「……?」
 その意図が読めず、アリアは軽く首を傾げる。それでもアイリスの視線はアリアの顔に釘付けになったまま。やがてその幼い眉尻がわずかに下がり始める。桜色の唇も半開きのまま、小さく震える。まるですがりつくかのような視線。
 どうやらこの少女は自分に何かを求めているらしい。しかし一体何を?
 軽い苛立ちさえ感じ始めたアリアだったが、ふと思い付いて短い言葉を唇に載せてみる。
「……ありがとう?」
 ごくごく訝しげに紡いだ言葉は、けれども少女に対しては絶大な効果を持っていた。みるみるうちに、今にも泣きそうだった顔は満面の笑みへとその相を変える。その様子はあたかも朝日を受けて開く花のようで。少女は満足げに頷くと、再び最高の笑みをアリアに向けた。
「……。」
 何故。
 何故、この子はたかだか花一輪のために、いちいち駆け込んでくるのだろう。
 何故、この子はたかだかあの一言のために、こんなに大袈裟に表情を変えるのだろう。
 全く理解の及ばない生き物を見るかのような心地で、アリアは少女を見下ろして、いつしか胸中に湧いてきたわだかまりと共に、余計な考えを振り払う。そう、何も要らないことは考えずに当初の目的だけを果たせばいい。幸いにも少女は順調に成長している。そろそろ魔女として育て始めてもいいころかもしれない。
「……まあ、アイリスもずいぶん大きくなったわね。」
 平静を装ってそう言ったアリアを、少女はまっすぐに見上げた。アイリスブルーの瞳をぱちぱちと瞬かせる。
「アイリスは、大きくならないの。」
「?」
 少女は至極真剣な表情で、突拍子もないことを口にする。覚えず、訝しげな顔をしたアリアの瞳を見つめたままで、アイリスは続けた。
「風さんが言ってたの。『アイリスは大きくなったら怖いおばけに食べられちゃうから大きくなったらだめだよ』って。だからアイリスはおっきくならないの。」
「……。」
 振り払ったはずのもやが再び胸の中に飛来するのを感じながらも、アリアはただ無言で少女を見つめていた。


 銀色の月の光が、部屋の中を蒼い影で染めあげる。
 少女は、ベッドの上に起き上がり、小さくしゃくりあげて、ぽろぽろと涙を零していた。胸にぎゅうと抱えた柔らかい毛並みは、寝ぼけているのか長い耳を時折ぴくりぴくりと動かしている。
「何故、泣いているのですか? 何か哀しいことでもあったのですか?」
「ひっく……わかん……ないの。」
 唐突にかけられた声に、少女は嗚咽の合間に答えてから、はたと顔をあげた。ふっくらとした頬を涙の粒が一つ、二つと転げ落ちて行く。
「……っく、だぁれ?」
 ごしごしと頬を拭いながら視線をめぐらせる。すぐに枕元に立つ人影を見つけ、その顔を求めて視線を上へと持ち上げた。
「こんばんは、アイリス。私はミシェル・ハインリッヒといいます。」
 丁寧な口調で述べられた男の自己紹介が、少女の耳に届いていたかどうかは疑わしかった。アイリスは、ただ優しげな微笑みを浮かべたミシェルの瞳を食い入るように見つめていた。あたかも魅入られたかのように。
 それは少女の目の前で、柔らかな青から深い紫を経て澄んだ赤へ、そして高貴な金色へと流れるように変わっていく。
「きれい……。」
 いつしか泣くことも忘れて、少女はぽかんと呟く。わずかに苦笑して、ミシェルは少女に向かって手を差し出した。
「私と一緒にいらしていただけますか?」
「でも……アリア師が……。」
 戸惑いを口にしながらも、その口調は徐々に夢見心地なものへと変わっていく。それにつれてカペラを抱き締めている腕の力も弛んでくる。
「どうしました?」
 さらにミシェルが覗き込むと、少女は小さく声を漏らした。か細い腕の中から、するりとうさぎが抜け落ちて転がった。
「うぅ〜ん、痛いですがな……。」
 ごちん、と床に頭をぶつけて、カペラは寝ぼけた声をあげた。
「お嬢ちゃん、ワタシ、かよわいうさぎなんですからもっと丁寧に……。」
 前足で、寝起きの人間の子どもよろしく目の周りをこすりながら、ぶつぶつと文句を言う。
「おやおやずいぶん無防備ですね。野うさぎがこれじゃあ困りものですねぇ。あっと言う間に狼に食べられてしまいますよ?」
 聞き覚えのない声に驚いたのか、それとも物騒なその内容に怯えてか、カペラはぎょっとしたような表情で慌てて顔をあげた。銀髪の吸血鬼の視線に睨まれ、その身を一度びくん、と震わせる。それまで立っていた耳はぺたんと後ろに寝て、両の前足も地面につく。そして怯えたように一歩後ずさると、窓の外へと一目散に跳ねていった。
「ちょっとやりすぎましたかね……。でもまあいいでしょう。うさぎはやはりうさぎですからね……。それでは参りましょうか。」
 くすり、と悪戯っぽくもある愉悦の笑みをもらし、ミシェルはいつしか寝息をたてている腕の中の幼子へと視線を落とした。長い銀髪がわずかに揺れたかと思うと、一陣の風を残して二人の姿は消え失せた。


 むき出しになった岩肌の陰に沿うように、その城は建てられていた。明らかに来訪者を歓迎する雰囲気からは程遠い岩城に、アリアは躊躇することなく踏み込んだ。そのまま、まっすぐに目指すのは主人の間。
 日光を拒む室内を、立ち並ぶ蝋燭の揺れる炎が赤く照らし出す。客人を幻惑するようなその光に目もくれず、アリアは正面を睨み付けた。
「これはこれはようこそいらっしゃいました、魔女アリア。」
 城の主、ミシェルは艶然とした微笑みをたたえて自ら彼女を出迎えた。対照的にアリアの表情は一層険しくなる。
「貴方にそういう趣味があったとは知らなかったわ。」
「そういう趣味?」
 とぼけて軽く首を傾げ、ミシェルはアリアの髪に手を伸ばした。ゆるく波を打つ闇色の髪が、艶やかに蝋燭の照り返しを受ける。ミシェルはわずかに目を細めると手の中の髪を見つめて、そっと親指で撫でた。そしてアリアの細い首筋にゆっくりと唇を近付ける。
「……つれないですね。挨拶くらいはいいでしょうに。」
 彼女の白い肌に触れる寸前で弾かれ、ミシェルは見事な銀髪をかきあげると大袈裟に嘆息してみせた。
「貴方の戯れ言に付き合うために来たんじゃないわ。」
 恨みがましげなミシェルを全く気にとめる様子もなく、アリアは冷ややかに言い放った。冴えた翡翠の瞳にはますます鋭い光が宿る。
「……なるほど。その様子じゃ、とぼけても無駄なようですね。」
 ミシェルは端正な顔にほんの少し憂いを漂わせて、諦めたようにもう一度溜息をついた。そして、再び意味ありげな笑みを浮かべる。
「あの子は、私が育てた方がいいと思うのですがね。」
「……どういうつもり?」
 アリアは、今度はあからさまに眦(まなじり)をつりあげた。声色も一段低いものへと変わる。
「一流の魔女に育ててみせますよ。貴女の時のように、ね。」
「……冗談じゃないわ。あの子は生まれながらの魔女じゃない。」
 平然と言ってのけたミシェルに対し、アリアの声には怒気がこもっていた。それを聞き留めて、ミシェルは一瞬、細い眉を寄せた。笑みを消し、真顔になってアリアの顔をまっすぐに見据える。
「まさか貴女……。ことが終わったらあの子を普通の人間に戻すなどという甘いことを考えているのではないでしょうね?」
「……。」
 アリアの沈黙を肯定と解し、吸血鬼はさらに声高に続けた。
「あの子は生まれながらの魔女じゃない……。なのに草木と心を通わせ風の声に耳を傾ける。これだけの感性を持った子が人の世界に耐えられると? 悪意や邪念、嫉妬、羨望の渦巻くあの世界になじめると、本当にお考えですか? それに……。いえ。」
 ミシェルは一度言葉を切り、微かに瞳を伏せた。そして声のトーンを落とし、諭すような口調になる。
「魔女アリア。貴女はお美しいし、聡明です……。けれどもお若い。水晶ならぬ翡翠には未来は映らないでしょう。悪いことはいいません。あの子のことは私にお任せなさい。でないと……。」
 再び視線を持ち上げて正面の女の顔を捉えた時、ミシェルの言葉は途切れていた。強い光の宿った凛とした翡翠の瞳。わずかに紅潮した色白の頬。額にかかった一筋の黒髪。そしてきりりと引き結んだ唇。白い肌の下にふつふつとたぎる怒りが女の顔に眩しい程の生気を与えていた。
 それがどんなに渇望しても彼には手が届かないものであるからか。ほんの刹那、ミシェルは息を呑んでアリアの美しさにみとれていた。秀麗な容姿を持つ吸血鬼が、一瞬確かに人の女に見入った。
「……っ。」
 突然、頬に激しい衝撃を受けてミシェルは2、3歩後ろによろめいた。揺れる視界を泳ぐ自分の銀髪がゆっくりとうなだれるのを見てからミシェルは静かに視線を戻した。まだ頬はばちばちと帯電している。
「……。」
 アリアは、自分の放った魔法をミシェルが避けなかったことに若干動揺したのか、わずかに瞳を揺らしたが、口元はきつく結んだままだった。ミシェルの出方によっては第二撃をくり出す覚悟なのだろう。
 ミシェルは再び大きな溜息をついた。
「……わかりました。私とて、貴女と張り合う程愚かではありませんよ……。あの子は貴女にお返ししましょう。」
 軽く瞳を閉じ、頭を左右に振る。
「あの子はそっちの右の部屋……この城で唯一日の当たる部屋といえばおわかりでしょう。そこにいますから連れてお帰り下さい。……アリア。」
 アイリスの居場所だけを聞いて無言のまま背をむけようとしたアリアを、ミシェルはやや躊躇いながら呼び止めた。
「一つお聞かせ下さい……。貴女にとってあの子は何ですか?」
「……弟子……かしらね。まだ魔女にはしてないけれど。」
 アリアは物憂げに振り返ると、訝しげな顔をしつつも、短く答えた。
「そうですか……。おわかりとは思いますが、ゆめお忘れなきよう。」
「……。」
 無言のままに踵を返したアリアの背中を見送り、ミシェルは大きく息を吐いて椅子に腰を下ろした。白い掌に折れた牙を吐き出すと、再び大きな溜息をついて、それをゆっくりと握りしめた。
「……でないと、貴女に待っているのは破滅、のみ……ですよ。」
 闇に視線を彷徨わせ、先程言いそびれた台詞を小さく呟く。弛んだ手許からは、粉々に砕けた牙が零れ落ちた。

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