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1、Sophia of Luna

 鬱蒼と繁った森の中で、そこだけが開かれていた。ちょろちょろと湧く泉の音に楽しげな鳥のさえずりが趣きを添え、あたかも別世界であるかのような印象を与える。
降り注ぐ木漏れ陽は、きれいにまとめられた女のマロンブラウンの髪を柔らかく照らしていた。女は、泉の前で立ち止まると、そこに壁でもあるかのように宙に掌を浮かせ、撫でるように少し動かす。ほんのわずか力を込めると、あっけなく両手は空気の壁を突き抜ける。
 女は溜息をつくと、大木の根元に腰を降ろした。
時折、青灰色の視線を空に持ち上げ、あるいはうつむき、あるいは考え込むように瞳を閉じたりしながら、女はただそこに座り続けていた。やがて、それにも飽きたのか、女は小さな声で古い歌を口ずさみ始めた。

   優しい月が空に昇り    銀色の川が流れ出す
   忘れられた魂も      埋もれてしまった心も
   清かな光に照らされて   きらきら輝き始めるよ
   柔らかな影に誘われて   還る道を思い出す
   だからあなたもおやすみなさい
   月はあなたに優しい夢をくれるから

 女は歌い終えて、小さく息をついた。憂いのこもった眼差しで、西の空を見上げる。稜線にひっかかった赤い夕日を認めて、女はゆっくりと立ち上がった。手に持っていた小さなナイフで、手近な木に印を刻んだ。今日、ここにいた証しを。
 そして、名残惜しげにもう一度泉の方を見遣ると、足早に立ち去った。

 女の後を追うように、西の稜線へと太陽が沈み、空を闇が染めて行く。やがて東の空に大きな丸い月が顔を出した。冴えた月影のもとに、昼間とは全く違う雰囲気を森全体が醸(かも)し出し、冷たい光が先程女のいた場所に、一人の人影を照らし出した。
「……変わった子守唄ですね。」
 男は、月の光を凝縮したかのような長い銀髪を揺らしながら、女の去って行った方角へと切れ長の瞳を向ける。その瞳には妖しい光が宿り、透けてしまいそうに白い肌の中で唇だけが生々しい血の色に濡れている。
「……まるで、レクイエムだ。」
誰にともなく呟いて、男はこの世のものとは思えぬほどに端正で秀麗な顔に、皮肉げな笑みを浮かべた。
 その詞はこの世で何も成さず、何も残さず去る者への慰め。そしておそらくこれから去るべき者へ覚悟を強いるもの。
「そう思いませんか、ねぇ。」
男は不意に声を高くして振り返った。その声に応えるかのように、今まで何もなかった空間が水面のように揺れ、波紋が広がったかと思うと、一人の女が姿を表した。
 美しい女だった。闇をまとったかのような漆黒の髪はゆるく波打ち、翡翠色の双眸を真直ぐに男へと向けていた。ただ、現実感をほとんど感じさせない男の美貌とは対照的に、その瞳には凛とした光が宿り、確かな存在感を感じさせた。
「彼女、貴女に用があるみたいですね。魔女アリア。」
 無邪気を装った男の口調に、女はわずかに眉を寄せた。そして冷たく言い放つ。
「……ずいぶんと、おせっかいなのね。灰色の吸血鬼ともあろう者が。」
「おやおやこれはお手厳しい……。」
男は半ば大袈裟に肩を竦めてみせた。その口元には笑みを浮かべていたが、細められた目は笑ってはいない。アリアは、そんな男をちらりと横目で見ただけだった。


 翌日、再び女は泉の前にいた。前日と同じように、否、今までずっと繰り返して来たことを、同じように繰り返す。泉の前の見えない壁に手を添わせ、溜息をついて木の根元に座る。周囲を見回せば、目につく木々にはほとんどびっしりと印が刻み込まれている。それもそのはず、その数はゆうに千を越えているのだから。
 乳房の張る痛みをまぎらわせるために歌っていた子守唄も、今ではその本来の役目を必要としなくなっている。それでも気を紛らわせるために、退屈を紛らわせるために、親や祖父母の代から伝え聞く子守唄をつい唇に乗せている。
 女は大きく溜息をついて、瞳を閉じた。言い様のない不安が胸の中に黒く、重く広がって行くのを感じながら。それがさらに不安を呼ぶとわかっていても、考えをめぐらさずにはいられなかった。

 はっと気付いて目をあけると、周りは闇に沈んでいた。いつの間にか寝入っていたことに気付き、女は慌てて立ち上がる。泉の水の音だけが、彼女に方向を伝えてくれていた。いや、違う。そこここから響く低い低いうなり声。夜の闇が、漂う殺気を増幅して女に伝える。女は、背中がじっとりと嫌な汗で湿るのを感じながら、じりっと一歩下がった。確実に、彼女をねめつけるような殺気がそれだけ間を詰める。
 折から東の空に昇った満月が、爛々と目を光らせた狼たちを照らし出した。

ちりちりと焦燥が熱い爪をたてて、背中を登ってくる。地の底から響いてくるかのような低い低いうなり声は、毛並みを逆から撫でるように、恐怖のひだを逆立てていく。いっそ獣の目前に我が身を投げ出してしまいたい衝動をかろうじて抑え、女はそこに立っていた。
 狼たちはうなり声をさらに低いものに変え、頭を低く下げて重心を後ろへと移動させる。四肢にはすぐにでも地面を蹴って跳ぶだけの力が蓄えられている。
 次の瞬間、周囲の殺気が弾けて、女は思わず目を閉じた。が、いつまでたっても何も起こらない。
 そろそろと女が目を開けると、いつの間にか周囲の殺気は霧散していた。つい先程まで牙をむき出していた狼は、怯えたように一点を見据えている。その視線を追って行くと、その先にあるのは長身の女性。黒い衣に身を包み、波打つ長い髪も見事な漆黒。翡翠の色をした両の瞳は澄んではいたが、決してその感情を伺わせることはない。蒼い陰影の刻まれた彫りの深い顔だちは、女よりずいぶんと若く見えたが、その身には満月を従えているかのような威厳をたたえていた。
 狼たちがじりじりと後退しくるりと向きを変えて走り去るのを、二人とも見てはいなかった。
「何の用があるのかは知らないけれど……。」
黒髪の女は真直ぐに相手を見据え、荘厳とも言える口調で、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「ここは普通の人間が来るようなところじゃない。これに懲りたらもうここに来るのはやめなさい。」
それだけ言いおくと、すぐに踵を返そうとする。
「お待ち下さい。私、レイシア・ハサルトと申します。」
 翡翠の瞳にあてられて、女は一瞬呆然としていたが、その後ろ姿に向かって慌てて声を張り上げた。この機を逃せば、二度と機会は巡ってこないかもしれない。
「……『ハサルト』?」
 レイシアには届かないくらいの小さな声で呟くと、黒髪の女はゆっくりと振り向いた。その瞳にわずかに好奇が宿っているように見えたのは気のせいかもしれないと思いつつ、レイシアは一度大きく息を吸った。青灰色の瞳に強い決意の色が浮ぶ。
「泉の魔女にお願いがあって参りました。自分勝手なことは重々承知しています……。ですが……。」
レイシアは一度言葉を切ると、真直ぐに静かな冷たい翡翠の瞳を見返した。
「私の娘を預かって頂きたいのです。」
「……。」
あまりに唐突な、そして酔狂な申し出に、さすがの魔女もわずかに眉を顰めた。両の瞳が探るように細められる。
「お願いします。」
レイシアは、その視線にもひるむことなく、きっぱりとした口調でそう繰り返すと、頭を下げた。
「何故……。魔女に?」
彼女の真剣さに突き動かされたのか、表情こそ変わらないものの、黒髪の女は疑問を口にした。レイシアはそれを聞いて幾分顔色を曇らせる。
 もちろん、『魔女』という存在が人にどう思われているかを知らないわけではない。魔女は、その力をもって人に仇なし、災いをもたらす者として、人に畏れられ、疎まれ、迫害される。『泉の魔女』がこのような山中に、来客を拒む結界を張って暮らしているのも、決して理由のないことではない。
「私の娘は贄になるために生まれて来ました……。いえ、私はきっとあの子を贄にするために産んだけれど、あの子は贄になるためだけに生まれて来たわけじゃない……。」
 レイシアは目を閉じると、思いきったように、それでも努めて淡々と話し始めた。その傲慢な程に率直な物言いを、魔女は黙って聞いていた。
「私は、あの子に選択肢を与えたいのです。……私たちの一族は、たいてい少し人と違った能力を持って生まれて来ます。人より運動能力が高かったり、少し離れたところのものが見えたり……。でも、あの子は何の力も持って生まれてこなかった。だから、自分で自分の運命を選ぶ力を……。もしあの子が生きることを望んだなら、自分で道を開くだけの力を、あの子に……。だから、お願いします。」
 それは、贄に生き残るための短剣を持たせることであり、贄としての質を高めるためにその身を磨きあげ、着飾らせることであり。
 そのことを自覚してなお、娘を魔女にすることを望む残酷な残酷な親心に、黒髪の魔女はどこか物憂げに切れ長の瞳を細めた。
 冲天では、大きな真円の月が銀色に凍っていた。月だけでなく、草も木も風も、全てが息をひそめて成りゆきを見守った。あたかも時が止まったかのような錯覚がその場を支配する。
 やがて、魔女が大きな溜息を漏らした。一度軽く目を閉じ、ゆっくりとまぶたを持ち上げる。そして、首を縦に振った。
「……明日、ここにその子を連れて来なさい。」


「覗き見とは、いい趣味ね。ミシェル。」
レイシアの去って行った闇を見つめたままで、呟くように魔女は口を開いた。
「おや、今夜は名前で呼んで下さるのですね。嬉しいですね、魔女アリア。」
 闇の中から染み出すように、細い銀髪が浮かび上がる。銀髪の吸血鬼は、端麗な微笑みを浮かべて悪びれもせずにそういうと、すぐに表情を真顔に戻した。
「なぜ、引き受けたのですか?」
「……ずいぶんとからむのね。」
ミシェルの質問の意図をつかみかねたのか、アリアは物憂げに彼の方を振り返った。
「『ハサルト』の名に興味を持たれたのですか?偉大な魔術師の血統に。」
そんなアリアの反応を気にもとめず、ミシェルは、彼にしては珍しく真剣な顔をしてさらに問いを重ねた。
「そう、ね……。」
魔女ははぐらかすように実のない返事をしながらも、わずかに眉根を寄せた。その瞳がしだいに険を帯びる。
「いえ、ね……。」
 ミシェルは、一瞬躊躇うかのように口籠ると、視線を逸らせた。言い逃れをするのは得策ではないと悟りながら、言葉にするのには若干の戸惑いを感じずにはいられない。しかしだからといってこの魔女が容赦するはずもない。仕方なく苦笑を漏らし、彼は言葉を紡いだ。
「まさかとは思いますが……、彼女に同情したのではないでしょうね。」
「同情? 何故?」
その問い返しは、あまりに純粋で自然で。ミシェルはほんの刹那、視線を宙に泳がせた。
「それならばいいのですよ。」
『灰色の吸血鬼』は、血のように紅い唇に妖艶な笑みを浮かべた。
「……。」
『泉の魔女』は感情の見えない翡翠の瞳を、ただ彼に投げていた。

 草の上に座っている−−というよりはむしろ置かれている−−幼子は、母親の話では3歳だということだったが、あまりに小さいその身体は、どうみてもそれよりずっと幼いとしか思えかった。
 母親が丁寧に頭を下げ、この子が18になったら迎えに来ると約束して去った後で、アリアは改めて幼子を見つめていた。
 小さな身体の手足は細く、この身体を支える力さえあるようには見えない。虚ろに開かれた淡い色の瞳は、凍りついたままで、何も映していないようだった。よほど怖い目に遭ったのだろうか。
 ――どちらにしても。
アリアは幼子を見下ろして、小さく嘆息した。そして、その横にかがみこむと、少女の小さな額に形のよい指をそっと当て、耳もとで二言三言囁いた。途端、幼子は一瞬ぴくりと身体を震わせ、急に光の宿った瞳をぱちぱちと大きく瞬いた。そして、眩しそうに両目をぎゅっと閉じ、首を左右に振りながら、小さな手でごしごしとこする。不意にその動きを止めたかと思うと、拳を眉のあたりに当てたままで、そろそろと目を開く。ゆっくりと傍らの人物を見上げようとして、再び眩しそうに目を閉じて俯いた。
 ――今までの記憶は邪魔にしかならないわね。
 再び胸の中だけで嘆息して、わずかに翡翠の瞳を細め、アリアは極めて事務的に質問を投げた。
「名前は言える?」
ようやく初夏の陽光に目が慣れたらしい幼子は、大きな瞳でまっすぐにアリアを見上げた。紫のかかった淡い青の瞳がぱちぱちと再び瞬く。
「……あいりす。」
 鈴の転がるような声で答えて、アイリスはちょっと首を傾けた。そして自分の居場所を確かめるかのようにきょろきょろと周囲に視線を移す。どうやら見覚えのない場所だと判断したらしく、つい今失った記憶を探すかのように、桜色の唇に小さな指をあてて、空へと視線を移した。
 アリアはそんな少女の様子を相変わらず興味なさげに見下ろし、頃合を見計らって声をかける。
「じゃあ、アイリス。あそこの小屋までいらっしゃい。這ってでも転がってでもいいからとにかく自分であそこまでいらっしゃい。」
 少女は、また瞬きをすると、アリアを見上げた。そして、その真直ぐ伸びた細い指を、そしてその先にある水車小屋を視線で追いかける。アリアの顔と水車小屋の間を数往復した後、再びアリアの顔を伺うように見上げた。そして、みるみるうちに、小さな眉を寄せ、唇を歪ませる。アイリスブルーの瞳がゆっくりと揺れ始めた。
 水車小屋までは大人の足なら数十歩程度の距離だが、風に揺れる草に視界を遮られるような幼子には絶望的な距離にも見えたのだろう。
 そんなアイリスに構いもせず、アリアはさっさと歩き始める。背後でひくっと小さく息を飲む声が聞こえて、彼女は足を止めて振り返った。
「そうそう、初めに言っておくけど。ここでは泣いても無駄だから覚えておきなさい。」
言い捨てるようにそう言うと、もう振り向きもせずに、小屋の中へと入ってしまう。
「……。」
   取り残された幼子は、小さな拳でふっくらした頬と唇を乱暴にぬぐった。けほけほと軽く咳き込んで、数回しゃくりあげる。けれども、本能が知らせるのか、あの人に見捨てられたら生きていけないということだけははっきりと認識している様子で、やがておそるおそる両手を土の上に置いた。そして、ゆっくりと地面を突き放し、身体を浮かせる。足を運ぼうとして、すぐにバランスを崩して地面へと突っ伏した。
「……っく。」
 喉の奥だけでしゃくりあげ、幼子は再び手の甲で顔をこすった。震える唇をぎゅっと噛んで、同じ試みを繰り返す。初めて触れる土の感触にも、草の匂いにも、風の音にも気をとられる余裕もなく、ただただ滲んだ茶色い小屋を見つめて、飽きることを知らないかのように、気の遠くなるような作業を独り延々と続けていく。
 ほんのわずかずつではあるが、それでもアイリスの瞳に移る水車小屋は次第に大きくなっていった。

 開け放したままのドアの根元に小さな息遣いを感じて、アリアは顔をあげた。読みかけの書物をテーブルの上に置いて、ゆっくりと立ち上がる。
 戸口でうずくまっている子どもは、腫れた目でアリアを見上げていた。その顔も手も土まみれで、細かな擦り傷が無数にあった。
「……よく来たわね。」
 果たしてねぎらいの意図が含まれているのかどうかわかりかねる淡々とした口調だったが、アリアは少女に声をかけた。手足や顔についた土を払ってやり、アイリスが彼女を見上げて時折口を動かそうとするのに見向きもせず、手際よく擦り傷の手当てを済ませた。
 そして、戸口の外へと視線を向けると、唐突に「カペラ」と呼び掛けた。つられたように顔を動かしたアイリスの視界の中央で、1わの野うさぎがぴくり、と耳をたて、後ろ足でたちあがった。黒い瞳をくりくりとさせてこちらを振り返ると、いそいそと寄ってくる。
「この子の相手をしてあげて頂戴。」
 アリアが命じると、うさぎのカペラは、アイリスの方に向き直り、しげしげとこの幼子を眺めた。
「どうもよろしう、お嬢ちゃん。ワタシ、カペラ言います。」
 ぺこり、と丁寧にも頭を下げる。アイリスは、ただ大きな目を見開いてうさぎを見つめ、瞬きもせずに相手の名前を繰り返した。
「か、ふぇ、ら?」
「カペラですけど……まあいいですわ。ところで何をすればいいんですの?……わわ!」
 カペラはほんの一瞬だけ不服そうな顔を浮かべ、主人を振り返った。と、後ろから伸びて来た少女の手に、大袈裟に驚いて両腕を振り回した。
「遊んでいるだけでいいわ、当分。……ああ、言葉も教えてあげて頂戴。」
「はいな……ってあわわ。」
 今度はぎゅうぎゅうと抱きすくめられて、カペラは哀れにも目を白黒させた。
 そんな彼等の様子を興味なさげに見下ろして、アリアは溜息をついた。今のアイリスの様子では話にもならない。幸か不幸か時間はかなりあるようだから、まずあのあまりに未成熟なのを何とかしないことには。ずいぶんと厄介なものを抱え込んだ気にもなり、アリアは再び嘆息した。再び書物に戻ろうとして、ふとこちらを見上げる視線に気付く。
「……?」
「あ……りが……とう。」
 ふわふわの毛並みを抱き締めて、幼子は懸命にそうつむぐと、ぴんと立ったうさぎの耳に頬をすりつけて満面の笑みを浮かべた。
「……。」
アリアはわずかに目を細めると、小さく息をついて少女に背を向けた。

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