ちりちりと焦燥が熱い爪をたてて、背中を登ってくる。地の底から響いてくるかのような低い低いうなり声は、毛並みを逆から撫でるように、恐怖のひだを逆立てていく。いっそ獣の目前に我が身を投げ出してしまいたい衝動をかろうじて抑え、女はそこに立っていた。
狼たちはうなり声をさらに低いものに変え、頭を低く下げて重心を後ろへと移動させる。四肢にはすぐにでも地面を蹴って跳ぶだけの力が蓄えられている。
次の瞬間、周囲の殺気が弾けて、女は思わず目を閉じた。が、いつまでたっても何も起こらない。
そろそろと女が目を開けると、いつの間にか周囲の殺気は霧散していた。つい先程まで牙をむき出していた狼は、怯えたように一点を見据えている。その視線を追って行くと、その先にあるのは長身の女性。黒い衣に身を包み、波打つ長い髪も見事な漆黒。翡翠の色をした両の瞳は澄んではいたが、決してその感情を伺わせることはない。蒼い陰影の刻まれた彫りの深い顔だちは、女よりずいぶんと若く見えたが、その身には満月を従えているかのような威厳をたたえていた。
狼たちがじりじりと後退しくるりと向きを変えて走り去るのを、二人とも見てはいなかった。
「何の用があるのかは知らないけれど……。」
黒髪の女は真直ぐに相手を見据え、荘厳とも言える口調で、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「ここは普通の人間が来るようなところじゃない。これに懲りたらもうここに来るのはやめなさい。」
それだけ言いおくと、すぐに踵を返そうとする。
「お待ち下さい。私、レイシア・ハサルトと申します。」
翡翠の瞳にあてられて、女は一瞬呆然としていたが、その後ろ姿に向かって慌てて声を張り上げた。この機を逃せば、二度と機会は巡ってこないかもしれない。
「……『ハサルト』?」
レイシアには届かないくらいの小さな声で呟くと、黒髪の女はゆっくりと振り向いた。その瞳にわずかに好奇が宿っているように見えたのは気のせいかもしれないと思いつつ、レイシアは一度大きく息を吸った。青灰色の瞳に強い決意の色が浮ぶ。
「泉の魔女にお願いがあって参りました。自分勝手なことは重々承知しています……。ですが……。」
レイシアは一度言葉を切ると、真直ぐに静かな冷たい翡翠の瞳を見返した。
「私の娘を預かって頂きたいのです。」
「……。」
あまりに唐突な、そして酔狂な申し出に、さすがの魔女もわずかに眉を顰めた。両の瞳が探るように細められる。
「お願いします。」
レイシアは、その視線にもひるむことなく、きっぱりとした口調でそう繰り返すと、頭を下げた。
「何故……。魔女に?」
彼女の真剣さに突き動かされたのか、表情こそ変わらないものの、黒髪の女は疑問を口にした。レイシアはそれを聞いて幾分顔色を曇らせる。
もちろん、『魔女』という存在が人にどう思われているかを知らないわけではない。魔女は、その力をもって人に仇なし、災いをもたらす者として、人に畏れられ、疎まれ、迫害される。『泉の魔女』がこのような山中に、来客を拒む結界を張って暮らしているのも、決して理由のないことではない。
「私の娘は贄になるために生まれて来ました……。いえ、私はきっとあの子を贄にするために産んだけれど、あの子は贄になるためだけに生まれて来たわけじゃない……。」
レイシアは目を閉じると、思いきったように、それでも努めて淡々と話し始めた。その傲慢な程に率直な物言いを、魔女は黙って聞いていた。
「私は、あの子に選択肢を与えたいのです。……私たちの一族は、たいてい少し人と違った能力を持って生まれて来ます。人より運動能力が高かったり、少し離れたところのものが見えたり……。でも、あの子は何の力も持って生まれてこなかった。だから、自分で自分の運命を選ぶ力を……。もしあの子が生きることを望んだなら、自分で道を開くだけの力を、あの子に……。だから、お願いします。」
それは、贄に生き残るための短剣を持たせることであり、贄としての質を高めるためにその身を磨きあげ、着飾らせることであり。
そのことを自覚してなお、娘を魔女にすることを望む残酷な残酷な親心に、黒髪の魔女はどこか物憂げに切れ長の瞳を細めた。
冲天では、大きな真円の月が銀色に凍っていた。月だけでなく、草も木も風も、全てが息をひそめて成りゆきを見守った。あたかも時が止まったかのような錯覚がその場を支配する。
やがて、魔女が大きな溜息を漏らした。一度軽く目を閉じ、ゆっくりとまぶたを持ち上げる。そして、首を縦に振った。
「……明日、ここにその子を連れて来なさい。」
「覗き見とは、いい趣味ね。ミシェル。」
レイシアの去って行った闇を見つめたままで、呟くように魔女は口を開いた。
「おや、今夜は名前で呼んで下さるのですね。嬉しいですね、魔女アリア。」
闇の中から染み出すように、細い銀髪が浮かび上がる。銀髪の吸血鬼は、端麗な微笑みを浮かべて悪びれもせずにそういうと、すぐに表情を真顔に戻した。
「なぜ、引き受けたのですか?」
「……ずいぶんとからむのね。」
ミシェルの質問の意図をつかみかねたのか、アリアは物憂げに彼の方を振り返った。
「『ハサルト』の名に興味を持たれたのですか?偉大な魔術師の血統に。」
そんなアリアの反応を気にもとめず、ミシェルは、彼にしては珍しく真剣な顔をしてさらに問いを重ねた。
「そう、ね……。」
魔女ははぐらかすように実のない返事をしながらも、わずかに眉根を寄せた。その瞳がしだいに険を帯びる。
「いえ、ね……。」
ミシェルは、一瞬躊躇うかのように口籠ると、視線を逸らせた。言い逃れをするのは得策ではないと悟りながら、言葉にするのには若干の戸惑いを感じずにはいられない。しかしだからといってこの魔女が容赦するはずもない。仕方なく苦笑を漏らし、彼は言葉を紡いだ。
「まさかとは思いますが……、彼女に同情したのではないでしょうね。」
「同情? 何故?」
その問い返しは、あまりに純粋で自然で。ミシェルはほんの刹那、視線を宙に泳がせた。
「それならばいいのですよ。」
『灰色の吸血鬼』は、血のように紅い唇に妖艶な笑みを浮かべた。
「……。」
『泉の魔女』は感情の見えない翡翠の瞳を、ただ彼に投げていた。
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