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3、MISSING

 村はずれの小さな小屋の床には隠し扉が設えられていた。
 リヒァルトはランプに灯を入れてから、扉の中に身体を滑り込ませた。入り口のはめ板を入念に閉じる。濃さを増した闇色の中で、命を吹き込まれたかのようにランプの火は赤々と揺れた。湿った石の匂いの中、少年の影は暗い壁に長く伸び、足音は四方八方から響き返る。
 滑りそうな階段を注意深く降りて、道なりに2、3度曲がる。両脇の壁にはところどころ灯り置きの窪みが削ってあり、かつてここが鉱山として使われていたことを物語っている。
 行く手にぼんやりとした光が浮かび上がる。こころなしか、人の息遣いや体温が、うっすらと湿った空気の中を伝わってくるようにも感じられる。
 果たしてリヒァルトがそこに辿り着いた時には、早くから少年の気配を察していたらしく、幼子はそわそわとした様子を見せた。
「アイリス、いい子にしてた?」
「あいりす、いーこ」
  虹の女神の名を戴いた少女は、兄の言葉を舌足らずに真似ると嬉しそうに微笑んだ。
「よしよし、いい子だね。」
 リヒァルトが頭を撫でてやると、大きなアイリスブルーの瞳を惜し気もなく細めてきゃっきゃと喜んだ。その胸元には、リヒァルトが贈った小瓶がほんのりと淡い光を放っている。かと思うと、今度はぱっちりと両目を開いてリヒァルトを見つめ、首を傾けて愛らしい唇を懸命に動かした。
「に、に。」
「うん、そう。お兄ちゃんだよ、『おにいちゃん』。」
「に……にーに?」
「! そうそう。にーにだよ。」
 リヒァルトは破顔して、込み上げてくる気持ちそのままに妹の頬へと手をまわして撫で回した。
 もしも可能なら――二人の間に檻のような格子などなければ――この小さな子どもを思いっきり抱き締めていたことだろう。
 ここにアイリスがいることを知っているのは、表向きにはレイノルド、レイシア、そして彼女の世話をしているメイラだけ。リヒァルトには、見兼ねたメイラが「レイノルドさまには内緒で」こっそり教えてくれたのだ。
 何故この子をこんなところに閉じ込めなければいけないのか、少年は知らなかった。それでも、初めて妹に会った日のことを思えば、尋ねる気にもなれなかったし、村の人にアイリスのことを知られちゃいけないんだというのはなんとなくわかった。

「ごめんね、アイリス。にーにはそろそろ行かなきゃ……。」
「ふあ?」
 名残惜しそうにそうリヒァルトが口にすると、幼子はみるみるうちに笑顔を崩した。唇の端がさがり、頬はひくひくと引き攣るように動く。大きな瞳には透明の涙が溢れ出てくる。
「ああ、泣かないで、いい子だから、また明日も来るから、ね、ね。」
 兄の必死の説得に、妹は見開いたままの目を向ける。
「いーこ……。」
 小さな頬が震えるのを押さえようとしてか、兄の言葉を繰り返す。両方の瞳から一筋だけ涙を流して、幼子は頷く。その白い喉がひくっと小さな音をたてた。

 人に見られないように注意しながら小屋の外に出てからも、リヒァルトは複雑な顔をしたままだった。
「どうした、リッヒ。悩みごとかい?」
「うん……。アイリスが……。」
 意識しないままに返事をして、少年ははっと顔をあげた。目の前にあったのが深い鳶色の瞳であることに気付くと、ほっと安堵の溜息をついた。この人なら大丈夫。
「アイリス?」
 ラトキス青年は少し訝しげな顔をして、自分の目線を少年のそれに合わせた。
「僕の、妹なんだ。」
「うん?」
 青年はぱちぱちと瞬きすると、軽く首をかしげた。
「へぇ? リッヒに似てかわいいんだろうね。」
「僕に似てるかどうかはわからないけど……。かわいいよ。目なんかこうぱちっとしててね、口とか手とかちっちゃくてね、今日僕のこと『にーに』って呼んだんだよ。」
 一瞬頬を染めた少年は一通りはにかんだかと思うと、すぐに勢いづいて妹自慢を繰り広げた。
「へ、へぇ……。そりゃ一度お目にかかりたいねぇ。」
 青年は思わず苦笑を浮かべて、それでもすぐに、いつもの微笑みを取り戻した。
「うーーん。」
 リヒァルトは一人前にあごに手をあてて考え込んだ。
 メイラには「内緒」だと念を押されていたけれど、この人がアイリスに乱暴をするとは思えない。叔父さんはアイリスに会いに行かないし、お母さんはあれからずっと昼間はどこかに出かけていていない。メイラだってずっとついているわけじゃない。これではアイリスが寂しい思いをするのは当たり前だ。少年はそんな理屈を胸の中に並べてみた。
 ――うん、ラトキスさんをアイリスに会わせるのは間違ってない。
 本当はアイリスのためというより、ただ他の人にも可愛い妹を見せびらかしたいだけというのが自分の本音に近いことにも気付かず、リヒァルトはそう結論を出した。
「じゃ、明日ね。」
「……ありがとう、楽しみにしてるよ。」
 リヒァルトはにっこりと笑みを浮かべたが、ラトキスの微笑みは何故かどこか曖昧で複雑なものだった。

「よう、リッヒ。」
 少年が家まで帰りつくと、その前で彼を待っていたと思しき人影が片手をあげた。
「あれ、クラウス。」
 挨拶代わりにくしゃくしゃと頭を撫でてくるクラウスを見上げる。どこか精悍さの加わったその顔を見上げるのに、ずいぶんと首が疲れるようになった。
「どこ行ってたんだい?」
「アイリスのところ。」
「あのちびちゃんのところか。リッヒも毎日毎日飽きないなぁ……。どう、だいぶおっきくなったんだろ?」
「うん。そうそう、今日ね、僕のこと『にーに』って言ったんだよ。」
 少年はぱっと顔を輝かせると、先程ラトキス相手に語った妹自慢を再び繰り替えした。
「そ、そうか………。」
「でね、明日ラトキスさんにアイリスを見せてあげるんだ。あ、でもクラウスはダメだよ。泣かしたから。」
「泣かしたって……。あれは泣かしたんじゃなくて泣かれたの。だいたいもう2年以上も前の話じゃないか……。」
 リヒァルトの『お兄ちゃん』ぶりに、クラウスは微笑ましいやら辟易するやらで、溜息をつくしかなかった。
「ところでさ……。」
 放っておけば何時間でも続きそうな妹自慢の合間をぬって、ようやく本題を口にしようとしたその時。
「坊ちゃん? 帰っていらしたんですか?」
家の中から女の声が聞こえて来て、リヒァルトは、あ、という顔をした。
「あ、メイラが呼んでる……。じゃ、また明日ね、クラウス。」
言うが早いが少年はあっという間に家の中へと姿を消し、取り残されたクラウスは再び溜息をついた。

 ――不思議な子。誰にも似ていない。
 それが、その子の第一印象だった。
 それはこの村では珍しい亜麻色の髪のせいか、それとも空気の粒子まで見えているのではないかと思わせる、紫がかった淡い色の瞳のせいか。むしろ顔だちは兄である少年によく似ているのに、身にまとう雰囲気はどこか特別なものを感じさせた。
「君がアイリス? 俺はラトキスだよ。」
「ら……す?」
 それまで、見知らぬ人間を食い入るように見つめていた幼子は、回らぬ舌で相手の名前を繰り返すと、満足そうに笑った。
 ――なんて笑み。
 ラトキスは心中の動揺を苦笑でごまかした。
 動物の赤ん坊はその可愛らしさで自分の身を守るという。もう3歳になろうかというのに、片言と呼べる程の言葉もしゃべれない少女が浮かべている笑みは、まさにそれだった。まるでこちらの心の間隙に鋭く食い込むようなその笑顔は、あくまでも無邪気で無垢で無自覚で、だからこそはっとさせられる――
 違う。
 ここまで考えてラトキスはその思考の流れを止めた。「特別」に見えるのは、自分がそう思って、否、そう願っているから。彼女に「特別」であって欲しいと。だがそう気付いたところで……どうにかなるものでもない。
 いつしか少女の興味は自分の兄へと移り、リヒァルトもその相手に夢中になっている。ラトキスは鉛の塊でも飲み込んだような気分で、仲睦まじい兄妹を眺めていた。
「ねぇ、かわいいでしょ?」
「え? あ、うん。可愛いね。とても可愛いよ。」
 唐突に少年に声をかけられて、ラトキスは戸惑いつつも笑顔で返事を返した。それを聞いて、こちらに注がれていた4つの瞳が一様に細められる。
 また、あの胸が痛くなるような笑み。
「かわいいって。よかったねー。」
 また二人できゃっきゃっとはしゃぎはじめてくれたのを幸いに、青年は兄妹から視線を逸らせた。

「……よう、リッヒ。」
 村に戻り、ラトキスと別れた少年をめざとく見つけて、クラウスは声をかけてきた。こころなしか、元気がなさそうに見えるのは傾きかけた日の光のせいだろうか。
「どうしたの?クラウス。」
 きょとんとした顔で尋ねた少年に、クラウスは溜息をついた。
「お前の頭の中は本当に妹でいっぱいなんだな……。俺の誕生日も覚えてくれてないなんて。」
「あ……。ごめん、おめでとうクラウス。えっと、何かお祝いしないと、だよね。」
 リヒァルトはにっこりと笑って祝福の言葉を口にしたが、返ってきたのはより大きな溜息だった。
「……?」
 そんなにがっかりするようなことかなぁ、と考え込んだリヒァルトだったが、幸いにもクラウスが口を開く前に気がついた。
「そっか……。クラウス、大人になっちゃうんだ……。」
「まあ、な……。」
 クラウスの口調は重かった。こうなると彼が何を気にかけているのかわからない程リヒァルトは幼くない。
「まあ、そんなに気にするなよ。大人になってもたまには遊んでやるからさ。」
「いいよ。」
クラウスの気休めにも似た申し出を、リヒァルトは即座に断った。
「いいよ。大人になったら大人のお仕事とかいっぱいあるんでしょ? 僕にはアイリスがいるからいいよ。アイリスに字を教えてあげたり、花とか虫とかきれいな石とか見せてあげるし、海の話もしてあげる……。」
 クラウスに口をはさむ間も与えず、少年は早口で続けた。
「それに……。ラトキスさんだってそう言ってたけど遊んでくれなくなったし……。」
 リヒァルトはうつむいて、最後に小さな声でそう付け加えた。クラウスは、そんな少年の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。
「じゃあ、今日、日が暮れるまでは俺と遊んでくれ。長さまのところにありがたーいお話を聞きに行かなきゃいけなくなるまでな。」
「ありがたいお話?」
「子どもには秘密になってるこの村の起源、だってさ。」
「ふーん。じゃあクラウス、居眠りしないようにしなきゃね。」
「……言ったな、こいつめ。」
 クラウスが少年の頭を撫でる手にさらに力をこめて、二人は心の底から笑い合った。

 稜線の向こうから顔を出した丸い月は、怪しいまでに煌々と輝いていた。
 リヒァルトはなぜか胸騒ぎのようなものを感じて、メイラに見つからないよう、家を抜け出た。今ごろクラウスはレイノルドのところで「ありがたいお話」を聞いている頃だろうか。
 銀色の月明かりの中、そんなことを考えながらどこへともなく歩を進める。ただ、足の向くままに。気付けば村の灯は背後へと流れて行く。
 突然目の前に開けた深い闇に、少年は足を止めた。半開きにした唇がわずかに震える。これは、3年前に父の入って行った洞窟。子どもである自分には立ち入ることは決して許されない深淵。背中に汗がつたうのを感じながら、慌てて少年は体の向きを変えた。と、その面前に二つの人影が現れた。
「あ……。」
 思わず少年の口からもれでた声に、大きい方の人影の腕の中で何かがもぞもぞと動く。
「にー……が。」
 鈴を転がすような高い声は、急に蓋がれてくぐもる。
「アイリス?」
 妹を抱えた体躯の良い男は、少年の脇をすりぬけるようにして、闇の中へと消えて行く。
「え? 待って……。」
 慌てて追い掛けようとするリヒァルトをもう一人――ラトキスが抱きとめた。
「ダメだよ、アイリスはまだ子どもだから、あそこ行っちゃダメなんだよ。」
 懸命に叫びながら暴れる少年を、ラトキス青年はしっかりと抱き締めて離さない。
「済まない……。」
「え?」
 絞り出すような声に、少年は一瞬抵抗を忘れて動きを止めた。
「済まない、リヒァルト。俺のことは憎んでもいい、恨んでもいい……。罵ってもいい、蔑んでもいい……。でも……。」
 苦しげに青年は続け、もう一度少年の耳もとで「済まない」と繰り返した。そして、リヒァルトを離し、深淵の中へと去って行った。
 少年は、ただただ呆然と、二人の姿が溶けていった闇を見つめていた。

「何なんだよ、それは!……冗談じゃない、冗談じゃないっ!!」
 クラウスは語気も荒く、自分の正面に座る村長を睨み付けた。水鏡のようなその深い蒼の瞳は、クラウスの怒りを一身に受けながらも、決して揺らぐことはない。それがまたこの少年のやり場のない感情に火を注いだ。
「村のため? みんなのため? 冗談じゃない、あんな小さい子を犠牲にしなきゃいけないって言うんなら、こんな村なくなった方がずっといい!」
 最後の方は掠れていた。喉が破れんばかりに張り上げられたその暴言を、レイノルドはただ黙って聞いていた。クラウスは数度、大きく肩を上下させて、声をつまらせる。大きく息を吐き、やりきれないとばかりに首を左右に振った。
「あいつ……あんなに喜んでたのに。妹が生まれたって、あんなに喜んでたのに。いっつもあの子の自慢ばっかりしてたのに。なんで……。俺はどんな顔してあいつに会えばいいんだよ……。」
 だから隠したかったのだ、と。今なら「大人」の考えがはっきりとわかる。
 喪に服すという名目のもと臨月の母をリヒァルトから遠ざけて、アイリスが生まれる時には少年をこの村から出して。妹の存在自体を隠して彼の知らないままに済ましてしまおうと。言えるはずがない。あの子は贄になるために生まれてきたんだ、などと。
 でもそれは勝手な大人の論理でしかない……。クラウスの頭の中で様々な思考が、感情が、記憶が渦巻いて行く。絶えず何かを口に出しておかないと流されてしまいそうに。
「あんなに嬉しそうに……。『にーに』と呼ばれたって……。ラトキスさんにも見せてあげるんだって……。」
「何だって?」
 それまで揺らぐことのなかったレイノルドの瞳に、戦慄にも近い動揺の色が浮かんだ。ふ、と視線を宙に持ち上げた次の瞬間、弾かれたように立ち上がる。
「クラウス、話は後だ。」
 そう言い残した時にはすでにレイノルドの姿は消えていた。あっけにとられる間もなく、クラウスは反射的にその後を追いかけた。

 リヒァルトはそこから動けず、ただ立ちすくんでいた。何もかも呑み込むような底のない闇は、少年にとっては、彼だけを拒む漆黒の厚い壁に他ならない。何度か踏み出そうとした足は、地面に縫い付けられたかのように動かず、進むことも戻ることも許されなかった。
 空には真円の月が真上にまで昇り、冷たい光を静かに降り注いでいる。
 不意に、ばたばたと慌ただしい足音が聞こえ、血相を変えた叔父が洞窟へと飛び込んで行く。少し遅れてクラウスがその後を追う。二人が闇の中へと消えてしまうと、再び残酷なまでの静寂が訪れる。
 やがて、舌打ちとともに、先程妹を抱えていた男が闇の中から現れた。少年に気付くと、ふいっと視線をそらして村の方へと足早に去って行った。
 月が西の稜線へと傾いた頃に、レイノルドが戻って来た。叔父にぽんぽんと肩を叩かれ、リヒァルトは彼と一緒に家に戻った。途中、叔父は一言もしゃべらなかった。少年も沈黙の精に舌を縛られたかのように、言葉を紡ぐことができなかった。

 翌日の夕方に帰って来た少年の母は、次の日から出かけることはなくなった。新しく成人したばかりの青年は、かつてラトキスがそうであったように、いや、それ以上に無口になった。
 そして、ラトキスとアイリスは、少年がどれだけ待っても還ってはこなかった。

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