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2、虹と星

 短い夏を主張するかのように木々の間から差し込んでくる白い日ざしを浴びながら、三人は黙々と歩いていた。ロバのひづめの音だけが軽く響く。
 最初のうちこそ、鳥の羽音を追い、道ばたの花や虫に目を奪われ、野宿するのにもきゃあきゃあとはしゃいでいた少年二人だったが、さすがに村を出て一週間もするころには押し黙って歩を進めていた。
 無理もない。通るのは道とも呼べないような獣道。気を抜けば転がり落ちてしまいそうな急な坂道。次第に話をする余裕が失われていくのも当然だった。
「もうちょっと行くと小さな村があったはずだからそこまで頑張れ、二人とも。」
 ラトキスの励ましにも二人は口元を結んだまま小さく頷くだけだった。その視線はしっかりと足下に注がれている。
 それでも朱に染まった太陽が山の向こうに姿を消して、背後から夕闇が迫る頃には、三人の足下は古い石畳へと変わり、前方には集落の赤い灯がちらちらと揺れていた。

 交渉はスムーズだった。ラグーシャの村までの途上でこの小さな山あいの村に立ち寄ることは、ほぼ慣習となっていた。それに加えてラトキス自身が前年もこの村を訪れていることもあって、話はすぐにまとまった。
「坊や、ずっと歩きっぱなしで疲れたろう?」
 村の人やラトキスが宿の用意をしている間、隅でぼうっと待っていたリヒァルトに気のよさそうな男が声をかけてきた。
「うん、一週間ずっと歩きっぱなしだったの。」
 男が差し出したミルクのカップをきちんとお礼を言って受け取って、リヒァルトはにっこりと微笑んだ。
「ほう。」
「お山をね、3つも越えて来たの。」
「ははははは、言うねぇ、坊や。」
 リヒァルトの言葉を聞いた途端、男はさもおかしい話でも聞いたかのように笑い出した。少年はなぜ笑われたのかわからなくて、ただ瞬きを繰り返す。
「ははははは、そうか、そりゃ大したもんだ、坊や。あそこの山はね、道がなくて大人でも一つ越えるのに一週間はかかるんだよ。」
 男は、先程のリヒァルトの言葉を子どもの愛すべき冗談ととったらしく、少年の頭を乱暴に撫で回した。
「おや、用意できたみたいだな。じゃあな、坊や。今日はゆっくり休みなよ。」
 少年はあっけにとられながら、でも「ごちそうさま」だけは忘れずに言って、男の背中を見送った。
「……どうした、リッヒ。」
 戻って来たラトキスが少年の様子を見とがめて、いぶかしげな顔をした。
「うん……。」
 リヒァルトは戸惑いがさめないままに、先程の男との会話を青年に伝えた。
「そうか……。」
 思慮深い青年は、ほんの一瞬、視線を宙に投げる。
「俺たちが通って来たあの道はね、リッヒ。あんまり知られていないんだよ。誰でも通れるっていうわけでもないしね。」
「?」
 再びぱちぱちと瞬きをした少年に、ラトキスは優しげな笑みを浮かべた。
「うーん……。とにかくリッヒは嘘を言ってない。俺はちゃんとわかってるよ。」
 言ってリヒァルトの柔らかい髪を優しく撫でた。深い鳶色の瞳が、少年の茶色の瞳に映る。
「さ、疲れたろう? ほら、あっちにベッド用意してもらったから、クラウスと一緒に先に休んでいるといい。俺はもう少しここの村長さんと話してくるよ。」
 ラトキスが指差した先では、この集落の中でもひときわ大きい建物の前に立ったクラウスが手を振っていた。
「おーい、リッヒ。早く来いよ。干し草の布団だぞ。ふかふかだぞ。」
「クラウス、暴れたりして迷惑かけるんじゃないぞ。せっかく寄り合い所を貸してもらっているんだから。」
 ラトキスにたしなめられ、クラウスはぺろりと舌を出した。その様子に青年は思わず苦笑をもらす。リヒァルトはころころと笑って、クラウスの方へと駆け寄った。

「ふかふか〜。」
「ふっか〜。」
 二人は一週間ぶりの干し草布団に身体を埋めた。
 お日さまの匂いのする布団は、少年達を優しく抱きとめ、柔らかく押し返した。その感触は慣れているはずなのに、ひどく懐かしく、溶けてしまいそうなほどに心地よかった。
「生き返るぅ。」
 呟いたクラウスの言葉そのままに、布団からエネルギーを注入されたかのように、二人の少年はたちまち元気を取り戻した。そうするとまだまだ悪戯盛りの二人のこと、たちまちおしゃべりに花を咲かせはじめた。これまでの旅の行程、放って来た秘密基地のこと、そしてこれから向かう村のこと、村で待っている家族のこと。
「あれ、そういえば。」
 突如、何かを思い付いたかのようにクラウスが声をあげた。
「リッヒ、お前に弟か妹が生まれるって話聞いたことあるか?」
「え?」
 突然出て来た予想外の話に、リヒァルトは目を丸くした。
「それって僕、お兄ちゃんになるってこと?」
「あ、ああ……。それが本当だったらな。」
 クラウスの答えは、彼にしては珍しく歯切れが悪かったが、リヒァルトはあまりにも魅惑的なその思い付きにすっかり夢中になってしまっていた。
「ねえクラウス、赤ちゃんってかわいい? 僕のことお兄ちゃんって呼んでくれる?」
「リッヒ……。俺にだって弟も妹もいないんだからわからないよ……。でも、お前が赤ちゃんの頃はかわいかったぞ。」
 困惑したような顔をしたクラウスだったが、すぐにいつもの饒舌を取り戻す。
「おやおや二人とも、まだ寝てなかったのか。」
 戻って来たラトキスは、すっかり盛り上がっている二人にあきれ顔をしてみせた。
「ねえラトキスさん、僕に妹か弟ができるの?」
「え?」
 至極無邪気なリヒァルトの問いかけに、なぜか青年の表情が一瞬固まって、次に鳶色の視線をクラウスへと移す。
「え、いや、うちの父さんと母さんがなんかそういうことを話しているのを聞いて……。本当かなと思ってリッヒに聞いてみたら……。」
「クラウス。」
 普段、寡黙ではあるが決して無愛想ではない青年の口から、重く、どこか冷たい響きを含んだ声がもれた。
「本当かどうかわからないこと言ってリッヒを喜ばせて、もしそれが本当じゃなかったらどうする?」
「……ごめんなさい。」
 さしものクラウスも素直に謝るより他はなかった。
「それに、お父さんとお母さんが話していたのは『大人の話』だろう? 『子ども』が聞き耳をたててちゃいけないな。」
「……。」
 すっかり言葉を失った二人に、青年は一つ溜息をついてからいつもの優しい口調に戻った。
「ほら、もう寝なさい。明日の朝にここを出るんだから。あと三日も歩けば山の外に出る。後は平らな道ばかりで大分歩きやすくなるけどね。」
「はぁい。」
 返事をして、少年たちは布団に潜り込んだ。リヒァルトは目を閉じる前にまたぱちぱちと瞬きをした。
 ――今日はなんだかわからないことが多すぎたや。
 けれどもそれ以上考える間もなく、少年は深い眠りへと落ちていった。

 翌朝小さな村を発った3人は、ラトキスの言葉通り、三日後には開かれた草原へと足を踏み入れた。それまでの変わり映えのしない山の中の景色と違い、開かれた視界に映るものは歩を進めるごとにゆっくりと変わって行く。見たことのない景色に歓声を上げながら、自然と少年たちの歩みは早くなる。
 そしてさらに三日、少年たちの鼻腔にツンとする乾いた香りが届いて来た。どことなく塩辛い風に霞んで、村らしき集落がはるか前方に姿を見せた。何故か身体が震えるのを感じながら、少年たちは魅入られたように足を進めた。


 そこは少年たちの育った村とは何もかもが違っていた。
 粒子の粗い風にさらされたその村は、どこかざらざらとした開放感を漂わせていた。蘆のような草で作られた、いかにも軽そうな家。赤銅色に日焼けした人の肌も、無造作にそれを覆う端のほつれた布も、大振りな唇に浮かぶ人なつこい笑顔も、少年達に少なからぬ当惑を覚えさせた。
 そして何よりも。流れているわけでもないのに動く水と、遠く白く霞むまで続く空。そしてその両者を淡く隔てる一本の線。
「二人とも、気持ちはわかるけれど今は先に挨拶を済ますぞ。」
 呆然としていた二人は、ラトキスに肩を軽く叩かれてやっと我に帰った。物珍しげな顔をして並んでいる人たちにぎこちなく会釈をする。その中から初老の男が進み出てきてラトキスに話しかけた。どうやらこの人がこの村の長らしい、ということは二人にも容易に推測がつく。
 ラトキスが荷物を指差し、初老の男が確認する。二言三言言葉を交わして、二人は別れた。
「向こうの荷物を用意するのに一日か二日くらいかかるからそれまでゆっくりしていけって。」
 隅でただ成りゆきを見守っていた二人の少年にラトキスが微笑みかけた。
「ウォルタの村と何もかも違ってびっくりしたろ?あちこち見て回るといい。迷子にはならないようにな。」
「迷子になんかならないよ。」
 ようやくいつもの調子を取り戻したクラウスが頬を膨らませる。
「そうかそうか、それは悪かったな。……ん?」
 いつのまにか、一人の少女がおずおずと歩み寄っていたことに気付き、ラトキスは腰を落とした。視線の高さを少女に合わせる。
「どうしたの?」
 少女ははしばみ色の大きな瞳をしぱしぱと瞬かせながら、小さな掌を差し出した。そこに乗っていたのは、寄木細工のブローチだった。今までの交易でウォルタの村から運ばれて来たものであることは間違いない。
「ああ、ここ外れちゃったんだね。」
 描かれている可憐な鈴蘭の花は、一つとれてしまっていた。ぽっかりと空いた穴は寂しいと無言で訴えている。
「ここの部分の花、持ってる?」
 優しげな青年の問いに、少女ははにかんだような笑みを浮かべながら首を左右に振った。
「そう……。ちょっと待ってね。」
 ラトキスは荷物の一つを開けると、ナイフと数枚の木の板を取り出した。板を一枚ずつブローチに当て、色合いを確かめる。うちの一枚を選ぶとナイフでおおまかに削り出す。何度か穴に当て、だんだんと細かく削ってゆく。巧みなナイフさばきは、見る見るうちに小さな花を削り出していった。
「これでよし、と。」
 溶いたにかわを少量つけて、花を穴にはめ込むと、興味津々で覗いていた観衆から歓声があがる。
「はい。ちゃんと固まるまではそっとしておいてね。」
 少女は鈴蘭のブローチを大事そうに受け取ると、満面の笑みを浮かべた。それを合図に、我も我もと人が押し寄せてくる。
「俺は当分ここにいるから、お前たちは散歩でもしておいで。」
 ラトキスは苦笑を浮かべ、「あ、そうそう」と思い出したように懐から小さな袋を取り出した。
「この石はこの辺ではとれないからすごく欲しがられるんだ。何か欲しいものがあったら、これと取り替えて下さいって頼んでごらん。」
「はぁい。」
 二人は何がなんだかわからぬままにその袋を受け取った。ラトキスは早くも次の仕事にとりかかっていて、二人に向かって手だけを振ってくれた。
「……確かに当分動け無さそうだなぁ。行こうか、リッヒ。」
「うん……。」
 なんとなく圧倒されたリヒァルトは、とりあえず頷くのが精一杯だった。

「それにしても、なんだかすごいとこだなぁ。」
「うん……。」
 何がすごいのかはっきりしないままのクラウスの言葉に、むずむずする鼻をこすりながらリヒァルトが生返事を返す。
 かいだ覚えもないのにどこか憧憬をひきたてる潮の香りは、あたかも奥深くに隠された記憶を掘り出そうとするかのように、容赦なく鼻から頭の奥へと侵入してくる。目を閉じて歩みを止めれば、心が溶け出してしまいそうな程に。
 リヒァルトはふと胸に浮かんだそんな思い付きを実行に移してみた。ざざん、ざざん、と規則正しく打ち寄せる波の音は、木々を渡る風の音にも似て聞こえてくる。いや、それだけではなく、人の命を刻む脈の音……。そう、きっと胎内にいた頃に聞いたであろう音。そう感じた途端、ふわりと柔らかい風が少年を包み込む。足下がふっと浮いたような感じがして、時間が急速に逆回転を始めていく……。
「ひゃ。」
 不意に、足に冷たい刺激を感じてリヒァルトは目を開けた。ひときわ大きな波が打ち寄せて、少年の足を捕まえて、さざめくように去って行く。
 ――ソッチニイッチャ、イケナイヨ。キミハマダコドモダカラ。
「……?」
 ふと、足下の波がからかうように舌を出したような気がして少年は目をこすった。再び目をあけると、そこには黒く濡れた砂があるだけだった。

「あれ?クラウス?」
 きょときょとと周囲を見回して、一緒にいたはずの少年がいないことに気付く。どうやらリヒァルトが目を閉じている間に、それと気付かず置いていかれたようだった。
「もう、クラウスってばひどいや。」
 ぶつぶつと呟きながらリヒァルトは村へ向けて歩き始めた。ラトキスのところに戻れば最終的には合流できるだろう。
「……あれ?」
 少年の目を引いたのは、一人の老人だった。四隅に柱を立て、それに厚い布をかぶせて日よけにした、簡単な露店のようなところで何かを作っている。
「坊や、山の子だね。」
 老人の方もリヒァルトに気付いて、白い歯を見せて手招きをした。
「見たことないものばっかりでびっくりしたろ?ああ、これかい?」
 招かれるままに近寄って自分の手許を覗き込む少年に、老人は手にした薄い欠片を見せた。
「うわぁ、きれい……。」
 銀の板に薄いミルクの皮膜をかぶせたかのようなそれは、老人が手の中で傾ける度に赤や緑の淡い光をやんわりと放った。
「これはね、一枚貝の殻だよ。こんな大きなのがね、海の底の石にくっついているんだよ。それをこういう風に削って磨くとこうなるんだ。この村ではね、満月の晩と新月の晩、それと上弦と下弦の月の晩に海に潜って採って来た貝殻をこんな風に瓶につめて、赤ん坊が生まれた時に贈る習慣があるんだよ。そうするとその子は海に攫(さら)われることはない、そういう、まあお守りだね。」
「赤ちゃんにあげるの?」
 きらきらと表情を変える小瓶にすっかり目を奪われていたリヒァルトだったが、その部分だけを聞き止めて顔をあげた。山あいの村でクラウスに聞いた話を思い出したのだ。
「うん?」
「お爺さん、僕これ欲し……じゃなかった、えと、これと取り替えてもらえませんか?」
 少年は、ラトキスに教わったとおりの言葉をたどたどしくなぞると、おずおずと青年に預かった石を取り出した。それは夜の闇を集めて固めたような小さな石だった。
 老人は少年の顔を見て、黒い石へと視線を落とし、そしてまた少年の顔に視線を戻した。
「坊やのところに赤ん坊が生まれるのかい?」
「うん……。わかんないけど……。ひょっとしたら……。」
「そうかい。じゃあこれはお爺さんから坊やの赤ん坊へのお祝いだ。」
 老人は気前の良い笑みを浮かべたが、少し考え込むような顔になって石へと目をやった。
「その石、よければこっちと交換しないかい?」
 彼が取り出したのは、淡い桜色のブレスレットだった。
「うん。」
 きっと母さんに似合うだろう。そう考えるとリヒァルトはすっかり嬉しくなって満面の笑みを浮かべた。
「それは有り難い。この石はとてもいいナイフになるんだよ。」
 老人も満足そうに目を細めた。
「おーーい、リッヒ!」
 向こうの方からクラウスの呼ぶ声が聞こえて来て、少年は老人に手を振った。
「ありがとう、お爺さん。」
「じゃあな、坊や。」
 老人もにっこりと微笑んで少年に手を振った。

「全く、急にいなくなってどこ行ってたんだよ。」
 頬を膨らませるクラウスに、リヒァルトは軽く唇を尖らせた。
「どこにも行ってないよ。」
「……ま、いっか。行こう。」
「うん。」
 クラウスに返事をして、リヒァルトはそっと手の中の小瓶に視線を落とした。中では七色の星が柔らかく瞬いていた。

「ねえラトキスさん、いつくらいにここ出れるの?」
 散策から帰ってくるなりリヒァルトはそう尋ねた。
「ん?」
 ラトキスは手を止めて少年の方へと顔を向ける。その顔にはわずかながら困惑の色が浮かんでいた。
「家が恋しくなったかい、リッヒ?」
「そういうわけじゃないけど……。」
「だったらゆっくりしていろいろ見て行ったらどうだい?荷物はたぶん遅くても明日中にはまとめてくれるだろうけど、こっちがね。」
 言って青年は、村びとから預かったと思しき工芸品の方を視線で示した。それはたいして数も多くなかったが、メモ書きのようなものも置いていあるところから見るに、修理するものだけでなく新しく作る分もあるのだろう。
「僕、手伝うよ。……早く戻りたいんだ。」
「……。」
 ラトキスはしげしげとリヒァルトの顔を眺めた。幼いながらも何か決意を秘めた顔だちに、刮目の思いを感じながら。
「戻ってメイラに確かめる。本当に僕に弟か妹ができたのか。」
 ――そうじゃないとあのお爺さんに悪いから。
 その言葉は口には出さなかったが、少年は小さな瓶をしっかりと握りしめた。
 老人の好意に誠実でいたいという気持ちが、どちらかといえば控えめな、この幼い少年の背筋を伸ばしていた。
「……。」
 ラトキスは大きく溜息をついて、目を閉じた。レイノルドはできるだけこの旅を引き延ばすことを望んでいた。今、その甥であるこの少年は自分の意志で真実を確認することを望んでいる。一人の大人の切実な願いと一人の子どもの真剣な望みの間で、青年は一人悩む。自分がどちらかを選ぶことにおこがましさを感じ、次にその感情自体を愚かしく思う。
 ゆっくりとまぶたを持ち上げて、目の前の少年を瞳に映す。幼いとはいえ長の血統。この子は長の資格を持つ子ども。そう、選ぶ権利を持っているのは自分じゃない。
「わかった。じゃあ、手伝ってもらうよ。できるだけ早く仕上げよう。……でも丁寧にやってくれよ、気持ちを込めてな。」
 無邪気に笑う少年を見て、ラトキスはどこか諦めと感嘆を含んだような複雑な笑みを浮かべた。
「仕方ないなぁ。じゃあ俺も手伝うよ。」
 それまで二人の会話を少し離れたところで聞いていたクラウスが、頭をかきながら面倒臭そうな口調で言った。彼なりの照れ隠しなのだろう。
「ありがとう、ありがとう、クラウス。」
「お、おい、やめろよ、リッヒ。」
 けれどもせっかくのポーズも抱き着かんばかりに喜ぶ少年の前では無駄というものだった。
「クラウスも手伝ってくれるのか、そりゃ助かるな。」
「ああああ、俺、こう見えても手先器用なのに。」
 青年の軽い揶揄(やゆ)に大袈裟なまでに反応して、クラウスは頬を膨らませた。

 結局三人はきっちり翌々日の朝にラグーシャの村を発った。そして、行きに費やしたのよりはるかに少ない日数でウォルタの村に帰り着いた。

「お帰りなさい、坊ちゃん。ずいぶん早かったんですね。」
 村に帰り着くなり二人に別れを告げて自分の家に戻ったリヒァルトを迎えたのは、メイラのどこか複雑な笑顔だった。
「あ、ただいま。」
言い忘れていた挨拶を口にすると、少年は待ち切れずに本題に入る。
「ねぇメイラ、僕に弟ができたって本当?」
「え? い、いえ、違いますよ。弟じゃありま……ああああ!!」
 あまりに出し抜けな質問に目を白黒させながら答えたメイラは、すぐに自分のとんでもない失言に気付き、真っ青になった。
「女の子?じゃあ、妹?僕の妹?」
「え? え? それは……。」
 哀れなメイラは顔面蒼白のままで口をぱくぱくと動かした。
「ねぇ、どこにいるの? 会えないの? 僕、お土産もって帰ってきたんだよ? 会いたいよ。」
 そんな彼女に様子に構うことなく、無垢な少年は残酷なまでに無邪気に詰め寄った。
「でも……。」
「お願い。」
 メイラは苦しげに大きく胸で息をして、後ろを向いてしまった。少年から隠れたその顔はほとんど泣き出しそうだった。
「わかりました、坊ちゃん。ついてきて下さい。」
「うん。」
 リヒァルトは喜びに瞳を輝かせて大きく頷いた。メイラが、足早に歩き始めながらこっそりと目頭を拭ったのには気付かなかった。
 メイラが向かったのは村の外れの方だった。彼女の足の進め方はいつになく速く、リヒァルトは小走りになりかけながら遅れないように追い掛ける。けれど、その口元には自然と笑みが浮かんでくる。
「おやどうしたんだい、リッヒ。ずいぶんと嬉しそうだね。」
 通りすがりの村人がそんな少年をみとがめてか、声をかけてきた。
「うん。僕に妹ができたんだよ。」
 じっと前だけを見て歩いているメイラはこちらに気付く様子もない。リヒァルトは早口でそれだけ答えると、相手の反応を待つことなく慌てて彼女の後を追った。
 村人はリヒァルトの後ろ姿を呆然と見送っていたが、すぐに我に帰って村の方へと猛然と走りはじめた。

 山肌に隠れるように建てられた小さな小屋の戸を、メイラはほとほとと叩いた。そしてゆっくりと開ける。
「……申し訳ありません。レイノルドさま。」
「あれほど……この子には知らせるなと……。」
 中にいた男は、赤毛の女の後ろに息を弾ませた少年がいるのに気付くと、苦しげな顔をして小さくそうもらした。なんだかすごく悪いことをしてしまったような気がして、リヒァルトは玄関口に立ちすくんだ。
「えっと……僕……。」
 困惑に縛られて唇に乗せる言葉もみつからない少年の呪縛を解いたのは、部屋の奥から聞こえた懐かしい声だった。
「リヒァルトがいるの?……ほら、こっちにいらっしゃい。」
「おかあさん……。」
 柔らかい声に引っ張られるように、少年は部屋の奥へと進んだ。そこには赤ん坊を抱いたレイシアが座っていた。
「ごめんなさいね、寂しかったでしょう?」
「ううん。」
 リヒァルトはぷるぷると首を振ると、母親の腕の中を覗き込んだ。
「ねぇお母さん、この子、僕の妹?」
「……そうよ。」
 ぱあっと少年の顔にみるみる笑顔が広がっていく。
「ねぇおかあさん、僕、お土産もって帰ってきたんだよ。これ、赤ちゃんのお守りなんだって。」
 二人のやりとりを傍らで見ていたメイラは、唇を噛んで踵を返した。とても見ていられなかった。外へ出ようとしたその足がぴたりと止まる。
「ここにいるんだろう? 赤ん坊は。」
 玄関には、目を血走らせた数人の村びとがつめかけ、素早く小屋の中へと視線を走らせていた。
「何を……。」
 抗議をしようとしたメイラを押し退け、彼等は中へと踏み込んできて、レイシアを、正確にはその腕の中の赤ん坊を取り囲んだ。レイシアは身を堅くして、赤子を抱く腕に力を込めた。
「長さまもいらしたか、ちょうどいい。早いうちに済ませてしまいましょうや。」
「もうアンドルフさんも亡くなったんだ。この子が末っ子に違いない。」
「そうよ。早いうちにしてしまった方がこの子のためにもいいわよ。」
「もう、うんざりなんだ。早く解放されたいんだよ。」
 自分を無視して頭の上を飛び交う数々の怒号に、わけもわからずリヒァルトは小さくなって母の腕にしがみついた。
「止めないか!子どもの前で!」
 レイノルドの一喝で一瞬水を打ったかのように、ぴたりとその場は静まり返る。
「けど、長さま……。」
 再び一人の村びとが口を切ろうとしたその時だった。
「ふ……あ……。」
 緊迫した雰囲気を全く意に介さぬようなのんきな声をあげて、それまで眠っていた赤ん坊が目を開いた。そしてぱちぱちと瞬きをして、村びとたちを見つめた。その瞳は、紫のかかった淡い青色をしていて、まるで雨上がりの大気のように、透明な湿り気を帯びていた。
「あら、起きちゃったのね、アイリス。」
 その声に反応するかのように、赤ん坊は大きな瞳を母親へと向けた。愛らしい唇を半分だけ開ける。
「……。」
 その様子にすっかり気勢を削がれ、村びとたちは一人ずつ外へと出て行った。
「リヒァルト。」
 最後尾の女がふと立ち止まって少年を振り返った。
「その子に感謝するんだよ。その子はお前の……。」
「サラ!」
 レイノルドの咎めるような声に、女は息を飲んだ。そして苦々しい顔を少年に向け、くるりと背を向けて立ち去った。
 リヒァルトはただ立ち尽くすしかなかった。誰にも何もきけなかった。そんな兄の姿を、小さな妹は少し首をかしげて見つめていた。

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