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1、稜線の向こう

「あああ、もう、こんなところにいらしたんですね、坊ちゃん。」
「ああっ。ひどいよメイラ、ここは俺とリヒァルトの秘密基地なのに。大人は立ち入り禁止!」
 ふう、と呆れた溜息をついた赤毛の女性に対してクラウスは憤然と抗議の声をあげた。その後ろで、リヒァルトはへへ、と悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「もう、二人で出ていっちゃうとこんな狭い村の中かけずり回ってもなかなか見つからないんだから……。」
 ぶつぶつと呟き、再びあきれ顔をして見せたメイラの表情には、それでもどこか安堵の色が浮かんでいた。
 父親を亡くしてもう半年になる。母親も喪に服するためにあれからずっと村はずれの小屋に籠っていて、この幼い少年は独りきりだった。身の回りの世話をしているのがこのメイラであり、誰よりも彼のことを案じているのも彼女だった。
「坊ちゃん。それからクラウスも。レイノルドさまがお呼びですよ。」
「げっ。」
「叔父さんが?」
 目を白黒させて喉のつまったような声をあげたのがクラウス。ぱちぱちと二、三度瞬きをして聞き返したのがリヒァルト。
「ダメですよ、坊ちゃん。レイノルドさまの前で『叔父さん』とか言ったら。」
「うん、わかってる。長(おさ)さま、でしょ?」
「そうそう。」
 にっこりと笑ったメイラにつられるように、少年も愛らしい笑みを浮かべた。ただ一人、苦い顔をしているのはクラウス。
「……おい、リヒァルト。お前、何かやったのか?」
「ん? わかんない……。」
「あら、悪さをするのはいつもあなたでしょう、クラウス。」
「そんなこと……。」
 からかうようなメイラの言葉を否定しようとして、クラウスは途中で言い淀んだ。「あのことがバレたか? それともあのことか?」と一人ごちるクラウスに、メイラとリヒァルトはくすくすと笑い声をもらす。
「じゃあ伝えましたからね。私はこれからレイシアさまのところへお届けものにあがりますから。」
「母さん……。」
 不意に出てきた母親の名前に、少年の表情が翳った。
「……元気にしてるかな?」
 会いたい、でも恋しい、でもなく心配の言葉を口にした少年に、メイラは一瞬言葉を詰まらせた。
「え、ええ……。お元気ですよ。……坊ちゃんがとても良い子にしているとお伝えしておきますね。」
「うん。」
 リヒァルトの口元にほんの少し笑みが浮かんだのを見て、メイラは「じゃあ」と踵を返した。
「俺たちも行こうか、リッヒ。」
 クラウスは、怒られるのは早いに限る、とおどけながら少年の肩をぽんぽん、と叩いた。


「長さま、クラウスです。参りました。」
 分厚い木の扉にとりつけられた馬蹄型の金具をゴツゴツと鳴らして、クラウスが堅い声で叫ぶ。
「長さま、リヒァルトです。参りました。」
 その隣でリヒァルトが見よう見まねに声を張り上げた。
「お入り。」
 中から低い声が返ってきて、二人は「ひゃ、」と顔を見合わせて肩をすくめた。重い扉を押し開けて中をそろそろと盗み見ると、丸木のテーブルの向こうに口ひげを貯えた男と、彫りの深い、優しげな顔だちをした青年が座っていた。
 ――ラトキスさんがいるということは、怒られる、というわけじゃなさそうだ。
そんなクラウスの考えを読んだかのように口ひげを貯えた男――この村の長、レイノルドは苦笑を浮かべた。
「今日は別に説教しようというわけじゃないから早く座りなさい。……それとも何か心当たりでもあるのかな?」
「い、い、い、いえいえ、そんなとんでもない。」
 クラウスは目を白黒させると、ごまかすようにリヒァルトを促して椅子に座った。
「こんにちは。」
 リヒァルトの方はレイノルドに極上の笑みを向ける。少年は、この叔父の秋空のような青い瞳も、父を思わせる濃茶の豊かな口ひげも、大好きだった。
「よく来たね、リヒァルト、クラウス。」
 レイノルドは改めて少年たちに笑顔を向けた。その隣ではラトキスが優しげな笑みをたたえている。
「早速なんだが話に入らせてもらうよ。この村ウォルタはこの通り、山に囲まれているだろう? それで年に一度、海辺のラグーシャという村と交易をしているのは知っているね?」
「ほら、去年僕たちが長い間村の外に出ていって、こういうのを持って返って来ただろう?」
 耳なれない言葉に呆然と瞬きをくり返す少年たちを見兼ねて、ラトキスが助け舟を出した。青年の掌の小さな貝殻を見て、やっと少年たちは合点のいった顔をする。確かに去年、お土産に似たようなものをもらったし、めったに食べたことのない魚の干物を食べたような記憶もある。
「要はこの村でとれる物を持っていって向こうでとれる物と交換してもらおう、ということだよ。」
「それで、今年もそろそろそういう時期なんだが……。ここにいるラトキスとお前達に行ってもらおうと思ってるんだが……。」
「えええっ。」
 レイノルドが言い終わらないうちに、二人は歓喜とも驚嘆ともつかぬ叫び声をあげた。
「それってそれって、村の外に行けるっていうことですよね。」
 クラウスが興奮した声をあげる隣でリヒァルトは少し不安げな表情を浮かべる。
「でも、こーえきとかってよくわかんない……。」
「交易のことはラトキスに任せておけばいい。お前達は外の世界をよく見ておいで。向こうの村にゆっくり泊まってくるのもいい。……お前達はいずれ外へと旅立っていくべき世代の子なのだから。」
「はい。」
 神妙な顔をして見せた二人に、レイノルドはそっと微笑みを浮かべた。
「出立は明日になる。今日は準備をして早く寝なさい。」
「はぁい。」
 少年たちは、長に一礼するとばたばたと駆け出して行った。

「……よろしいのですか、レイノルドさま。」
 二人の背中を見送ったラトキスは、それまで常にたたえていた微笑みを消してレイノルドを振り返った。
「リヒァルトには知らせないで。」
「あの子はまだ幼すぎる……。そうだろう?」
「ですが……。」
 あの子にだって知る権利があるのでは? そう言いかけて、聡明な青年はその言葉を飲み込んだ。「成人」してまだ一年にもならないとはいえ、この思慮深い青年は完全に「大人」なのだった。
「いつまでも隠し切れることではないかもしれない。けれど、叶うものならあの子には何も知らせずに済ませたい……。そういう気持ちも捨てられないのだよ。勝手な願いだというのは十分にわかっているつもりなのだが……。やっぱりあの子は私にとってただ一人の甥なのだから。」
「ただ一人の……。」
 レイノルドの青い瞳に苦悩の色が浮かぶのを見て、ラトキスは彼に聞こえないようにその言葉をくり返した。


「おい、やったな、リッヒ。」
 興奮気味のクラウスに背中をばんばんと叩かれたリヒァルトは、一瞬目を白黒させながらも自分より頭一つ分は高い少年の顔を見上げた。その焦茶の瞳がキラキラと輝いているのを見て、小さく首をかしげてにっこりと笑う。自分の瞳もまた、この兄貴分の少年に負けないくらいに輝いているのに気付くこともなく。
「うん。クラウス、外ってどんなとこかなぁ? 海ってどんなかなぁ?」
「そうだなぁ……。空っていうのはずぅっと続いているんだってラトキスさんは言ってたなぁ……。」
 言いながら二人の少年は不規則に切り取られた空を見上げた。そして一度も越えたことのない稜線へと視線を移す。
 険しい山々に囲まれたこの村は、ほとんど外界から閉ざされていると言っても過言ではなかった。多くの者が村の外の世界を知らずに一生を終える。唯一の例外であるラグーシャの村との交易が始まったのも、ここ十数年程のことだと聞いている。だからこそ、先程のレイノルドの言葉は二人を興奮させずにはおかなかった。
「ん? 待てよ。」
 不意に何かを思い付いたようにクラウスが口元に手をやった。
「リッヒ、お前まだ10歳だよな。」
「そうだよ。」
 クラウスの真意が読めず、無邪気な少年はぱちぱちと瞬きをした。
「俺は15で初めて外に行くのに……、ラトキスさんだって初めて行ったのは15だったし……、なんだかお前だけズルい。」
「えええ?」
 軽く頬を膨らませたクラウスに半眼の視線を向けられて、リヒァルトは困った顔をした。
「………ま、仕方ないよな。」
 俺が行っちまったらお前はその間独りになっちゃうもんな、という部分を飲み込んでクラウスは溜息を一つついた。
 ――それでもやっぱりちょっとだけズルいや。
 胸に残るほんの少しのわだかまりをごまかすように、小さな少年の頭を乱暴に撫でる。
「わ、わ、何するんだよぉ。」
 クラウスの胸中など全く知らない少年は、いいようにあしらわれているようで困惑気味に抗議の声をあげる。
「外は道も険しいし、危険がいっぱいなんだからな、俺の言うことをよく聞くんだぞ。」
「うん、ラトキスさんの言うことちゃんと聞くから大丈夫だよ。」
「……。」
 悪気もなにもないリヒァルトの言葉にクラウスはがっくりと肩を落とした。
「……ま、いいや。とにかく明日は早いからな、寝坊するんじゃないぞ。」
「うん、クラウスもね。」
「……。」

「えと、これと、あれと、それから……。」
 うきうきと革袋に荷物を詰め込む少年を、メイラは少しはらはらしたような面持ちで眺めていた。長の話がこの少年の自立心をかきたてたのか、彼は荷造りを「全部自分でやる」と主張して、メイラに一切手出しをさせなかった。
「嬉しそうですね、坊ちゃん。」
「だって外へいけるんだもん。」
 少年は顔いっぱいに無邪気な笑みを浮かべた。
「お母さんも喜んでくれるかなぁ?」
「そう……、そうですね。もちろんレイシアさまも喜ばれますよ。」
「……?」
「坊ちゃんが無事に帰っていらせばね。」
「大丈夫だよ、ラトキスさんとクラウスが一緒だもん。」
 純朴な少年は、わずかにもれでたメイラの動揺を見とがめることもなく、罪のない笑顔を彼女に向けた。
「……そうですね。さあ坊ちゃん、準備もできたことですし、もうおやすみなさい。」
その笑顔に引き起こされる安堵と罪悪感を微笑みの裏に隠して、メイラは優しくリヒァルトを促した。

 翌朝。リヒァルトがメイラと一緒にレイノルドの家の前まで来ると、ちょうど向こうからクラウスが息せき切って走ってくるところだった。
「はぁ、はぁ……、間に合った……。お、リッヒ、ちゃんと来たな。感心感心。」
「クラウスこそギリギリ。」
「うるさいなぁ……。昨日はなかなか眠れなかったんだよ……。」
「……どして?」
「はぁ……。お前ってヤツは……。」
 クラウスは大袈裟に肩をすくめて首を振った。
「おーい、二人とも来てるならちょっと手伝ってくれないか?」
「はーい。」
 呼ばれて二人ともぱたぱたとラトキスの方へと駆け寄る。彼はたくさんの積み荷を二頭のロバに乗せているところだった。
「そう、これとこれと……。いつもはロバは一頭しか連れていかないんだけど……。リッヒ、途中で疲れたら言うといい。乗せてあげるから。クラウス、お前はちゃんと歩くんだぞ。」
「僕もちゃんと歩くよ……。」
 わかってますよ、と舌を出したクラウスの横で、リヒァルトも上目使いで青年を見上げた。
「そうか。そうだな、ごめん、悪かった。でもなリッヒ、無理はするなよ。ちゃんと疲れたら言うんだよ。本当に険しい道ばかりなんだから。」
「はぁい。」
 今度は素直に応えたリヒァルトに、ラトキスも深い鳶色の瞳をそっと細めた。
「準備はできたかい?」
 突如かけられた低くて柔らかい声に、ちょうど荷物を積んだばかりのクラウスはびくんと体を震わせて、反射的に直立不動の姿勢をとっていた。
「はい、長さま。全て積み終わりました。」
 そんなクラウスの様子に苦笑を浮かべ、ラトキスがレイノルドに応えた。
「そうか。ラグーシャまではそうだな、お前達の足だと二週間というところかな。まあ山道ばかりだから慌てずにゆっくり行くといい。途中、小さな村があるからそこで休憩をとって行きなさい。」
「はい。そのつもりです。」
「ラトキス、二人を頼んだぞ。クラウス、リヒァルト、気をつけて行っておいで。」
「はい。」
「はい、長さま。メイラ、行って来ます。」
「気をつけて……。」
 見送りに立った二人に、少年二人は手を振って、ラトキスは会釈をして、歩き始めた。
 稜線の向こうを目指して。

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