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「……そうか、随分と苦労をかけたな。」
 グレイグの話を聞き終えて、王は目を閉じ、深い溜息をついた。再び開いた青い瞳が真直ぐにエルンストへと向けられ、頬に触れていた枯れ木のような手はするりと少年の背に回って、思い掛けない力でその身体を抱き寄せた。
「スラムでなど……。どれほど辛い思いをさせたことか……。本当に、本当に……、よく生きていてくれた。」
 涙まじりの王の言葉を聞いた途端、ごわごわと節くれだっているとしか思えなかった老人の手が、とても暖かく思えた。強張った身体もまた、芯の方からじんわりとした温もりが広がって、解きほぐされたように感じる。
 目の前にいるこの王が、自分の祖父であるという実感が湧いたわけではない。けれど、何となく、エマの言っていた「血が繋がっているというのは特別」ということが、わかったような気がした。
「許しておくれ……。お前も、お前の母も守れなかった私の無力を……。」
「そんな、陛下。僕は辛いことなんて全然……。」
 痛切に悔恨の言葉を口にする王に、エルンストは慌てて言い繕った。
 スラムで育ったとはいっても、毎日の生活にそれほど困っていたわけでもない。確かに、母親の顔も知らなかったけれど、いつもルッツやエマがいて、幼い頃は彼らの母親が面倒を見てくれた。だから、寂しい思いをしたわけでもない。そして何より、今まで会ったことさえなかったのに、自分が生きているというだけで、これほど喜んでくれる人がいる。
 考えてみれば、自分はこの上なく恵まれているのではないだろうか。そう思えば、困惑のような、戸惑いのような、なんともむずがゆい気分が湧いて来て、それでもそれが、妙に心地よかった。
「……そうか。」
 王は穏やかに頷くと、そっと少年の身体を離した。愛おしむような視線を、傍らの少女へと移す。
「そなたの名前も、聞かせてくれないか?」
「エマ……。エマ・フィリスと申します、陛下……。」
 ずっと小さな拳を握りしめていた少女は、一瞬身を固くして消え入りそうな声で答えた。
「フィリス嬢か。そなたもこの子を守ってくれたのだな。ありがとう。礼を言わせてもらう。ここに来られなかったという、そなたの兄にも。」
「……。」
 神妙な顔をした頭を下げた国王に、少女は唇を噛んで俯いた。その細い肩が大きく震えて、透明の雫が床へと落ちる。
「お前にも苦労をかけたな。本当に、よく帰って来てくれた。まさか、娘の忘れ形見まで連れて来てくれるとは……。今のお前を見れば父君も喜ばれよう……。」
 老王は、続けてグレイグにも感謝の言葉を向けたが、青年は沈んだ顔で、静かに口を開いた。
「そのことなのですが、実は……。」
 言い淀むように言葉を濁すと、エマとエルンストも目を伏せた。そこにただならぬ事情があることを察したらしく、王も眉を寄せる。
「どうも、リオルがきなくさいのです。スラムが衛兵の襲撃を受けまして……。」
 その意味することを正確に悟り、みるみるうちに顔色を変えた王に、グレイグは再び言葉を詰まらせた。
「ゲルハルト陛下が命を下されたとは思えないのです。陛下は……皇子のこと、御存じでしたから……。」
 最後の方は消え入りそうな声で付け足して、青年は思い直したように再び顔をあげた。
「実際に何が起こったかまではわかりません。けれど、尋常でないことだけは確かです。……皇子には、事態が落ち着くまで……、せめて全貌が明らかになるまでは、安全なところに隠れて頂くのが良いかと。」
「……。」
 王は無言のままで青年を見返した。その視線に圧されたように、グレイグは目を伏せた。重い口をゆっくりと開く。
「それに……、ここにおられると……、後々……。」
「……。」
 王は黙って、深い深い溜息をついた。
 グレイグの言っている意味は、エルンストにも何となくわかった。エルンストを王の孫として王宮に置けば、それはテレーゼの子、つまりはリオルの皇子であることを公認したに等しい。そうとなれば、リオルとエスラントの関係がやっかいなことになるのは目に見えている。
 けれども、2人のやりとりには、それではない他の何かを指しているような雰囲気があった。
「……それで、あては?」
 しばしの重い沈黙の後に、王がやっと口を開いた。
「エレムの隠れ里へ。」
 あらかじめ用意していたのかと思う程に、グレイグの答えは短く明瞭だった。
「エレムか……。遠いな……。」
 王は独り言めいた呟きを漏らすと、諦めたように溜息をついた。が、すぐに表情を平静なものへと戻す。
「確かにあそこなら、安全に身を隠すこともできよう。折よく領主のコルツ卿も王都に来ている。後で引き合わせよう。何、口の固い男だ、心配はいらぬ。」
「はい……。お手数をおかけします……。」
 王の言葉に、グレイグが深く頭を下げた。
「それで、出立はいつにする?」
「……できるだけ早いうちに。できれば今すぐに、でも。」
 心苦しいのだろう、青年は目を伏せたままで答えた。
「明後日にはそなたの父君も任地からこちらに来られる。無事な顔を見せてやったらどうだ?」
「しかし……。」
 なおも譲ろうとしない青年に、王は再び溜息をついた。
「では明日発つと良い。エレムまでは長い旅になる。いろいろと準備がいるのではないか?」
 そこまで言うと、王はふと視線をエルンストの方に寄越した。その目がわずかに伏せられる。
「忍んで行くなら、その髪は……、染めた方が良いな。今のエスラントでは、金髪はいらぬ詮索を呼ぶこともある。」
「陛下……。」
 エルンストの金髪は母親、そして祖父である国王譲りだ。それを染めろという老王の心中を察し、グレイグが言葉を漏らした。が、王はそれを遮るように、苦笑のような笑みを浮かべる。
「部屋を用意させよう。今日はもう休むと良い。」
 反応に困っているような青年に、王は今度はくつくつと笑い声を漏らした。
「道中、大変だったのだろう? 今にも倒れそうな顔をしているぞ。」
 愉快そうな、それでいてもの哀しい笑みを浮かべたままで、老王は枕元のベルを鳴らした。

 

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