back top next

「……なぜ……。おわかりになったのです……?」
 しばしの沈黙の後に、青年のかすれた声が漏れた。取り繕っても無駄だと悟って観念した声だった。
 エルンストが思わずエマの方を伺うと、少女も、自分も知らないとばかりに困惑顔で見返した。
「なぜも何も……。私はお前に一度会っているではないか。覚えていないかな? まあ、あの時お前はまだ十を過ぎたばかりだったから無理もないか。」
 よっぽどグレイグが呆けた顔をしているのか、老王は喉の奥で、くつくつと静かに笑った。
「そんな……、昔のことを……。」
 絶句する青年に、ふと王は笑顔を消した。懐かしむような、それでいて済まなさそうな顔になる。
「それにしても……立派になったなぁ。本当に、あの時は娘のことで苦労をかけた。……済まない。」
「そんな、陛下、王女さまをお守りできなかったのは……。」
「良いんだ。」
 慌てて言い繕おうとする青年を、王は短く遮った。その口調は、穏やかで柔らかだったが、軽く目を閉じて眉間にしわを寄せた表情は、どこまでも悲痛でもあった。2人の会話のはこびがよくわからないエルンストでも胸が痛むほどに。
「陛下……。」
 溜息とともに吐き出された青年の声もまた、重かった。
「陛下……。王女さまはお守りできませんでしたが……。せめてこれだけは陛下のお手許に……。」
 躊躇いがちに開いた青年の指から、きらり、と金色の光が漏れるのが見えて、エルンストは小さく息を呑んだ。
 青年の言葉に、物憂げにゆっくりと開かれた王の瞳が、次の瞬間大きく見開かれ、細かく震えた。
「ああ……。」
 節くれだった指でおしいだくようにその指輪を摘まみ上げ、老王は言葉にならない声を漏らした。青い瞳から溢れ出した涙が、枯れたようにしわだらけの頬をとめどなく濡らしていく。
「済まなかった……、テレーゼ、本当に……。本当に、辛い思いをさせた……。」
 娘の形見を前にただただむせび泣くその姿は、威厳ある国王ではなく、最愛の娘を亡くした1人の哀れな老人のそれだった。
「……取り乱してしまったな。済まない。」
 しばしの後に涙をぬぐい、王の顔に戻ったその様子が、よけいに痛ましく思えて、エルンストは、そっと唇を噛んだ。
「よくこれを持って帰ってきてくれた。心から礼を言わせてもらう。ありがとう、ミハエル。」
 老王は一度軽く目を閉じると、笑みさえ浮かべて青年に向って頭を下げた。
「いいえ、そんな……、僕は、何も……。」
 詰まったように応える青年の声からは、ひどく動揺している様子がありありと伺える。
「……その言葉でしたら、僕にではなく……。」
 ひとつ息をついた後で躊躇いがちにそう言って、青年はゆっくりと身体を開き、2人の方を振り向いた。エマへと向けられたその視線が、わずかに流れてエルンストのそれと重なる。ふと、青年の口元が「ごめんなさい」の形に動いた気がして、少年は小さく息を呑んだ。
「どうか、この者に。この者と……、ここには来られませんでしたが、この者の兄に。」
 青年の後を追うように向けられた王の視線を受けて、エマは俯いた。その少女の手を半ば引くようにして、グレイグは前へと促す。
「彼らが、今まで守ってきてくれました。この指輪も……、そして……、王女さまの忘れ形見も。」
「な……!」
 エマが思わず抗議の声をもらして、青年の顔を見上げた。声はすぐに呑み込まれたものの、青年にまっすぐ向けられたままのはしばみ色の瞳は、なお濃い抗議の色を浮かべて、悲しげに揺れた。
「……忘れ形見? それはどういう……」
 老王もまた、あっけにとられたような驚きの声をあげる。
「陛下。」
 グレイグが軽く伏せた視線を国王の方へ戻すと、エマは救いを求めるような眼差しをエルンストへと向けた。そんな幼馴染みの少女に手を差しのべたい気持ちにかられながらも、少年の身体は鉄の棒でも呑み込んだように、ぴくりとも動かなかった。
 訝しげに宙を滑った老王の視線が、自分の顔の上で止まったのを自覚して、少年は固唾を呑んだ。驚きの色に染まってゆく老王の瞳が、彼が確信を抱いたことを示している。そうと知って、エルンストは身体が細かく震えるのを感じた。全身が凍り付いたような中で、ただ耳だけがどうしようもなく冴えて、次の言葉を待っていた。
「その子が……。」
「はい。」
 驚きに震えた王の言葉とは対照的に、短く応えた青年の声は、抑揚がなく、冷たくさえあった。
「名は……、名は何と言う? いや、それよりも顔を……。もっと近くへ、顔をよく見せてくれ。」
 熱に浮かされたかのような上ずった老人の声に、エルンストは抗う術もなく、一歩一歩王の寝台へと足を進めた。ふわふわと雲の上を歩いているようでもあり、妙な心地の悪さが頭の隅について離れない。
「ああ、あの子の面影がある。」
 食い入るように少年を見詰めていた青い瞳が、再び潤んで細められる。
「名前は、何と?」
 そっと自分の頬に当てられた、節くれだった細い指に、一瞬悪寒にも似たぞっとするような感覚を覚えて、エルンストは思わず身を強張らせた。
「……エルンストと申します、陛下。」
 身体中がずっしりと重く、石のように固まっていくのを感じながら、少年は固い声でかろうじて返事を返した。
「……そうか、良い名だな。」
 エルンストの最後の言葉にほんの一瞬、王が失意にも似た色を浮かべたのに気付いて、エルンストはちくりと胸が痛むのを感じた。それでも、王の青い視線が傍らの青年の方へと滑っていったことに、いくばくかの安堵を覚えずにはいられなかった。
「王女さまの乗られた馬車が野盗の襲撃に遭った時、実は王女さまはその前に馬車を降りられて、難を逃れられたのです。ですが……。」
 説明を求められたと正しく悟り、静かに話し始めた青年はふと言葉を切った。抑揚の少ない口調の中にも、はっきりと苦渋の色が滲む。
「ですが……、僕の無力ゆえに、エスラントまでお連れすることもできませんでした。結局、王女さまはアイーダ妃との確執や国の混乱を避けるために、エスラントにもリオル皇宮にも戻られず、帝都のスラムの片隅で皇子をお産みになられて……。」
 青年の語る声は、エルンストにとっては、どこか遠い国のできごとを語っているようにも思えて、耳を素通りしていくかのようだった。だが、頬に当てられたままの老王の指が、時に細かく震えたり、力を込められたりするのは、はっきりとわかった。
「……3年後に病で……、お亡くなりになられました。ですから、皇子はお母上のお顔を、御存じありません……。」

 

back top next

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送