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2、ほぐれゆく糸

 灯りを抑えた薄暗いエスラント王の私室には、目隠しを兼ねてのことだろう、柔らかな薄布が何枚も天井から提げられていた。
 アイリスが老王に挨拶をしている間、エルンストたちは部屋の片隅でそれを待っていたが、どことなく漂う淀んだ陰気さと、重苦しい緊張感に耐えかねて、少年はずっと下を向いていた。
 この薄布何枚かの向こうにこの国の王がいる、そう思えば心臓が跳ね上がるような気がして、エルンストはきつく唇を噛んだ。それが自分の祖父なのかもしれない、そう思えば目眩さえ覚えて、冷たい汗が首筋を流れる。
 すぐにも逃げ出してしまいたい気持ちを抑えようと、少年はきつくきつく拳を握りしめた。
 何を疑うこともなく、スラムでルッツやエマと暮らしていたのは、つい数日前のことのはずだった。なのに、急にそれは手の届かない、二度と戻れないところに消えてしまった。それを思えば、あまりの心細さに涙が零れそうになった。
 エルンストの心情に気付いたのか、エマがそっとエルンストの手を握ってくれた。少年を安心させようと伸ばされた少女の手は、やはり冷たくてかすかに震えていた。
 けれど、少女の手に込められた隠し切れない緊張が、少しではあるがかえって少年を落ち着かせた。今、不安を抱えているのはこの幼馴染みの少女も同じなのだ。

 そんな2人にグレイグはちらと目を遣って小さく溜息をつき、視線を宙へと泳がせた。
 帰りを令嬢と共にしなくて良いのは、ある意味好都合と言えた。どのみち、リオルに戻るわけにはいかないのだ。それをうまく説明する手間が省けたことになる。
 あとは、国王に何をどう言って保護を求めれば良いか。
 彼らの安全を考えると、王都に留まるのは賢明とは言えない。理想を言えば、エスラントの片田舎でひっそりと暮らせる場所を見つけるのが一番だが、どうやって話を持って行くべきかは、なかなかの難題だった。
「陛下、実は今日はリオルの薬師殿をお連れしました。ぜひ陛下にお引き合わせしたいと思いまして……。薬師殿、こちらへ来られよ。」
 不意に耳を打った令嬢の声に、グレイグは軽く息を整えた。傍らの少年の肩は驚いたようにびくりと跳ね上がる。
「……行きましょうか。もう少しの辛抱です。頑張って下さい。」
 穏やかな声でそう告げて、グレイグはエルンストの肩を軽く叩いた。そのまま、静かに薄布の向こうへと歩を進める。まだ策が練られたわけではないが、それを表に出すわけにはいかない。

 その青年の背中を見上げて、エルンストは唇を噛んだ。エルンストの方もまた、決して心が決まったわけではなかったが、いつまでもこうしているわけにはいかない。視線は足元に落としたまま、エマと一緒にグレイグの後を追った。
「まだお若く見えるが、良い腕をお持ちです。うちの者もよく世話になっておりますし、是非にと思いまして。」
 国王にグレイグを紹介する令嬢の声だけが、張り詰めた室内に朗々と響いた。
「グレイグと申します。お会いできて光栄です、国王陛下。」
「遠いところをわざわざご足労をおかけした。こんな姿でお会いする非礼を許して欲しい。」
 紹介を受けて挨拶をするグレイグの声の後に、穏やかで柔らかい、耳に心地よい声が響く。力強さはないが、優しげで、思いのほか張りのあるその声が国王のものであると知って、エルンストはおそるおそる顔を上げた。
 老王は寝台に身体を横たえて、上体だけをわずかに起こしているようだったが、グレイグの背に遮られてよくは見えない。けれど、青年の背中から顔を出して向こうを伺う勇気は湧いて来なかった。
「それでは陛下、慌ただしくて申し訳ありませんが、わたしは失礼致します。」
 グレイグと国王、双方の顔を一瞥して、アイリスは優雅ともとれる所作で、国王に一礼した。
「ああ、いつもありがとう。道中、気をつけてな。」
 それに応える国王の声には、彼女の身を気遣うような響きがあった。ちょうど、王にとっては彼女は孫のようなものなのだろう。
「陛下こそ。ご自愛下さいませ。」
 アイリスは大伯父でもある国王の言葉ににこりと微笑むと、グレイグたちにも軽い会釈を残して、部屋を辞して行った。
 活発な令嬢が去ってしまうと、前にも増して重たい沈黙が舞い降りた。
「……では陛下、失礼してお脈を拝見致します。」
 それを振り払うかのように、グレイグがおもむろに口を開いた。許可を待ってから王の元へと歩み寄る。
 そのおかげで、エルンストの位置からも国王の顔が見えるようになった。その顔を一望して、エルンストは思わず息を呑んだ。
 王の正確な年齢は知らないが、かなりの老齢になるというのはエルンストにも察しがつく。けれど、王の顔には、少年の想像をはるかに超える無数のしわが刻まれ、髪もすっかり白くなっていた。
 どれほどの苦労を重ねてきたのか、骨が浮き出る程に痩せ細ったその姿は見るからに痛ましく、先程の柔らかな声がこの人物から発せられたとはにわかには思いがたい程だった。
 それでも、それが王たる者の証か、しわに埋もれかけた青い瞳には、哀しみをたたえながらも深い光が宿っているのも見て取れる。
 その目がじっと、グレイグを見詰めているのに気付いて、エルンストは目を瞬いた。
 自分の脈をとっている薬師を見つめるのは自然なことかもしれない。けれど、どこかただそれだけではない何かを感じるのだ。
 別に、怪んだり疑ったり、というような悪意を帯びているわけでもない。かといって、初めての薬師を値踏みしている目とも違う。何かを探るような、考えているような、眼差しだろうか。
 グレイグの方は、ほとんど少年に背を向けているので、その表情は見えない。が、その背を見るだけでも真剣に考え事をしているのが伺えて、王の眼差しに気付いている様子はない。
 しばらくグレイグを見詰めていた王は、頭の中から何かを絞り出すかのように数度ゆっくりと瞬いて、ぽつりと口を開いた。
「……ミハエル……。ミハエル・シュミット?」
「はい?」
 独り言のように漏らされた王の言葉に、半ば上の空といった風情で返事を返した青年の背中が、ぴくりと強張るのがエルンストの目にもはっきりとわかった。
「やはりそうか。」
 王の方は得心がいったとばかりに、穏やかな微笑みを浮かべた。
「そうか、リオルで薬師をしていたのか。あの件で行方知れずになったと聞いていたから……。無事で何よりだ。」
 王は優しげに青い目を細めた。グレイグは黙ったままだった。相変わらずその表情は伺えないが、青年の周りの周囲の空気は切れそうに張詰めていた。    

 

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