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 3人が通されたのは、こじんまりとした小さな部屋だった。広さこそなかったが、柔らかな絨毯や品のよい小物が落ち着いた雰囲気を作り出していた。何より、案内してくれた侍女が飲み物を置いて出て行った今、閉ざされた静かな部屋に3人しかいないということが、久々の安堵をもたらしていた。
「さて……。これから国王陛下にお会いして、うまいこと保護をお願いしなければなりませんが、どうしましょうかね……。」
 とぼけたように呟くグレイグの口調にも、どこかのんきさにも似た響きが漂っていた。もちろん、外に漏れないように声を落とすのは忘れてはいないし、目までは笑っていない。視線を宙に静かに浮かべて、それでも頭の方は休むことなく激しく動いているのだろう。
「ところで王子。」
 不意に、グレイグは真顔になってエルンストに向き直った。
「一応確認しておきますが……。エスラントの国王陛下があなたのお祖父様にあたられる、ということは、おわかりになりますね。」
「……。」
 深い茶色の瞳に気圧されるように、エルンストは無言で頷いた。いつしか握り込んでいたらしい、左手の指環が掌に食い込む。
 グレイグやエマが言うように、この指環が母の形見で、刻まれた紋章がエスラント王女のものならば、必然的にその父である現国王は自分の祖父ということになる。
 ただ、頭では容易にそうとわかっても、実感は全く湧いてこない。けれども、その戸惑いを口にするだけの猶予は、もうないように思われた。
 そんな少年の胸の内を知ってか知らでか、グレイグも軽く頷き返して、再び静かに口を開いた。
「では……。あなたには、ここで王族として暮らしていくつもりはありますか?」
「王族……?」
 エルンストは呆然と青年の言葉を繰り返した。自分の母親がエスラント王女であるとわかった今になっても、その言葉はやはり、エルンストにとってはひどく遠いものに思えた。このような王宮で暮らす自分の姿など、全く想像もできない。
「王族なんて……。僕は……、そんなんじゃ……。」
「そう……ですか。」
 エルンストが口籠りながら首を振ると、グレイグは安堵とも諦めともつかないような、小さな溜息をもらした。少年に据えたままだった視線を宙へと逃がし、次いで軽く目を閉じて少し考え込むような顔をする。
「でしたら、その指環は、国王陛下にお返ししてもよろしいでしょうか? 陛下は随分と一人娘のテレーゼさまを大切になさっておられましたから……。」
 そう言った青年の言葉は、ひどく歯切れが悪かった。
 この指環を持っていると、リオルのみならず、エスラントにおいても何かとやっかいに巻き込まれかねない。言葉に出されなかった青年の真意を察して、エルンストは俯いた。左の小指で輝く金色の指環が目に入る。ずっしりと重たく感じられるその輝きに、少年は唇を噛んだ。
 これを手放すのは、命がけで取りに戻ったルッツを裏切るような気がした。たった1人の母親の形見だ、といったエマの言葉も頭をよぎった。けれど、本来の持ち主に還るというのなら、罪の意識も少しは軽くはなるし、むしろそうするべきではないかという気にもなる。そして何より、ルッツやエマと暮らしていた世界を離れる気にはなれなかった。
「……お願い。」
 しばし躊躇った後に、エルンストは小さく頷いた。左手の指環に、そっと指をかける。この2日間、ずっとはめていた指環は、思いのほか他愛なく小指を離れた。
 エルンストはしばし指環を見遣って、それから青年の掌にそれを置いた。自分の体温を吸って濡れたように輝く金色の光を見ていると、軽くなった左手が無性に寂しく感じた。
「……では、確かに。」
 指環を受け取った青年に顔にも笑みはなかった。グレイグは再び軽く嘆息すると、ゆっくりと視線を宙に遊ばせた。傍らに立ったエマは、そんな2人を黙って見詰めていた。
 いつしか何とも言えない張詰めた空気が舞い降りていた。が、まもなくそれは軽やかなノックの音で破られた。
「お待たせして済まなかった。」
 素早く指環をふところに隠してグレイグが扉を開けると、着替えを済ませた令嬢が立っていた。淡い空色の長いスカートの裾を軽くつまんで見せる。
 口調こそ甲冑姿の時と変わらないが、豪奢な金髪をきっちりと結い上げ、肩口の大きく開いたドレスに身を包んでいると、その表情にも所作にも、はっとするような華やかさと、令嬢としての品があった。
「そんなに驚かれなくても……。馬子にも衣装とも言うではないか。」
 彼女の姿を見るなり、呆然とした表情を顔に貼付け、言葉を失っていたグレイグに、アイリスは苦笑を向けた。
「あ、ああ……。思わず見間違えたものですから……。失礼致しました。なるほど、国王陛下がお望みになるわけです。」
「『見違えた』、でしょ?」
 慌ててとりつくろった青年が口走った言い間違いを、エマは眉を寄せて小声でたしなめた。彼の失言は、とりようによっては失礼極まりない。けれど、珍しく動揺が収まり切らないのだろうか。グレイグは硬い顔のままで、「え、ああ、そうですね」と実のない返事を返しただけだった。
「まあ、そんなことはどうでも良い……。それよりも。」
 再びの苦笑いこそ浮かべたものの、アイリスはさして気を悪くした風も見せず、真顔に戻ると話題を変えた。
「少し気掛かりなうわさを聞いてな……。済まないが、わたしたちは陛下に顔だけお見せしてお先に失礼することにするよ。」
「うわさ?」
 同じく、すぐに真顔に戻った青年が問い返せば、アイリスは一瞬ためらい、グレイグだけに聞こえるよう、声を落とした。
「リオルの皇帝陛下が崩御されたというのだ……。ただ、まだリオルからの正式な報せはないという……。」
 令嬢は軽く眉を寄せると、表情を曇らせた。
「もしそれが本当なら近いうちに使者が来るのだろうが……。気になるからリオルにとって返そうと思うのだ。帰りの馬車の手配は国王陛下にお願いしておくよ。慌ただしくて済まないのだが、許して頂きたい。」
「いいえ、もともとこちらが頼み込んだことですから、お気になさらないで下さい。」
 グレイグはアイリスと同じく、小声で答えながら丁寧に頭を下げた。
 数歩離れていたところでそれを見守っていたエルンストは、傍らのエマを見遣った。少女も、不安げな視線を少年へと返す。2人のやりとりまでは聞こえてくるわけではないが、グレイグの顔からゆっくりと表情が消えて行くのだけは察することができる。彼がそういう顔をする時は、真剣に考えを巡らせている時だと、ここ2、3日くらいでわかるようになった。
「お待たせして済まなかった。では、参ろうか。」
 不意に、アイリスが声の調子を元に戻した。その声が自分たちに向けられたものだと知って、エルンストとエマが顔をあげると、令嬢は2人に向って笑みを浮かべた。が、その笑みはどことなく硬さを残したままだった。       

 

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