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1、千年の都

 馬車の中にいたままにして、外の空気が変わったのを感じたような気がした。馬の蹄の音も、心なしか軽やかでよそゆきのものになったようだった。
 目ざしていたエスラント王都に着いたのだろうか。エルンストはふと窓の外に目を遣った。馬車の窓からでは、街を一望とはいかなかったが、それでも目に入ってきた街並は帝都リオルとはまったく違った雰囲気を漂わせていた。わずかに影の差した、静かで優しげな印象を受ける。
「エスラント王都は、エスランティアと女性名で呼ばれているんですよ。」
 エルンストの胸のうちを察してか、グレイグが口を開いた。
 エスランティアには、城塞都市リオルにあったような、そびえたつ城壁も、壮麗な楼閣もない。背の高い建物といえば、ほっそりと空へ伸びる寺院の尖塔くらいのものだ。
 都中の建物の屋根は、全て淡い緑色で統一され、形も丸みを帯びていて優美であり、周囲に広がる森とよく調和している。都全体が柔らかな旋律を奏でているかのようなその優雅な姿は、森の貴婦人と呼ばれ、千年の都とうたわれる。
 もっとも、千年の都とは言っても、城壁もない都を造れるようになったのは、カッセーレとの戦火が届かなくなってからだから、実際にこの都が造られたのはせいぜい200年前かそこいらくらいのものだろう。
 とにかく、防衛力ではなく、美と調和を最優先させた都造りができたことこそが、当時のエスラントの力と繁栄を示しているとも言える。
 というような内容の青年の説明を話半分に聞きながら、エルンストは馬車の狭い窓から外を眺めたままだった。知らず、指環をはめたままの左手に力が入る。
「グレイグ、大丈夫?」
 少年と同じように窓の外を眺めていたエマが、視線を戻して心配そうに尋ねた。
「ええ、平気ですよ。」
 そうは応えたものの、青年の顔からは明らかに血の気が引いていて、浮かべた笑みも随分と弱々しい。
 街道の宿場町を出てからというもの、馬車は今にも解体するのではないかという速度で、走り続けた。最初の方こそ悲鳴をあげそうになったものの、すぐに慣れた子どもたち2人と違い、この青年にはなかなか馴染めなかったらしい。
 それでも自分から言い出した以上、止めてくれと言えるはずもない。グレイグは青ざめた顔をしてずっと目を閉じ、他愛もないことをしゃべり続けていた。王都に入り、ようやく馬車の速度も落ち着いたものになった。少しは人心地ついたような顔をしているが、やはり少し心もとなく、危うい雄弁は続いている。
「……そりゃ、老体には少々こたえましたけどね。そんなことも言ってられませんし、大丈夫ですよ。」
 なおも心配そうな顔を向ける2人に、グレイグは今度はきまり悪そうに、苦い笑みを漏らした。
 そうこうしているうちに、かたんと馬車が揺れ、蹄の音が止まる。目的地に着いたことを察したらしく、グレイグは馬車の扉を開けて降り立った。普段、どちらかといえば動きの緩慢な彼にしては珍しい。よほど、外の空気が恋しかったのだろう。
 グレイグに続いて、エルンストもひょこりと馬車を降りた。そして、最後に残ったエマへと手を差し伸べる。少女が地面に降り立つ、その足元を確認してから、エルンストはそっと辺りを見渡した。
 森の香にも似て穏やかな、それでいてどこか洗練された、しっとりとした匂いが鼻先をかすめる。頬を軽く撫でる風は心地よく涼やかで、午後にさしかかったばかりのはずの陽射しは、翳ってもいないのに思いのほか柔らかく降り注ぐ。
 素焼きのレンガを敷き詰めた広場の中央では、清らかな泉が静かに水をたたえている。その向こうには、リオルに比べてずいぶんとこぢんまりした印象の街並が広がっていた。街路と同じ、素焼きレンガの壁の淡い茶色と、屋根の煤けた緑色が、そのような印象を形作っているのかもしれない。
 けれど、ぱっと目を惹かれるような華やかさや、威儀を正されるような荘厳さはなくても、歴史に裏打ちされた誇りのようなものと言うべきか、どこか大人びて落ち着いた雰囲気があった。街行く人の面差しも、溌溂とした印象は受けないが、穏やかで、静かな暮らしの営みが垣間見える。
 帝都リオルが、青年や壮年のような活力を漂わせているとすれば、王都エスランティアは、円熟した落ち着きと丸みを思わせる、といったところだろうか。
 ひどく遠いところに来たような感慨を抱く一方で、初めて訪れた街だというのに、どこか懐かしいような、安堵にも似たような感覚を覚えて、エルンストは小さく息を吐いた。それが、この都の持つ徳なのか、それとも、顔も覚えていない母親の故郷であると、自分の中に流れる血が伝えてくるのだろうか。
「ご苦労様。こんなに長い間馬車の中では、窮屈であられたろう?」
 不意に耳に飛び込んできた、凛とした声に振り向けば、馬を降りたアイリスがこちらに歩み寄ってくるところだった。つい先程まで激しく馬を駆っていたのが嘘のような令嬢のにこやかな笑顔に、ほんの一瞬、グレイグの顔がひきつるのが見えたが、そこはさすがに彼もすぐに取り繕ったようだった。
「さて、では参ろうか。」
 屈託のない令嬢の言葉に促されるようにして振り返れば、一見して王宮とわかる、一際典雅な建物が目に入った。高さがないせいだろうか、この都と同じように、王宮にもリオル皇宮のような威圧感はない。柔らかな色合いで滑らかな曲線を描く屋根は、悠然と翼を広げる大きな鳥を思わせて、むしろ来客を暖かく迎えているようですらある。入り口を守る2人の衛兵も、どことなくおっとりとしているように見える。
 が、そこに自然と漂う優雅な気品に、気後れのような気恥ずかしさを感じて、エルンストは思わず立ちすくんだ。歩き始めたアイリスたちやグレイグの背中が、透明の壁の向こうに行ってしまうような錯覚にとらわれて唇を噛むと、ふと右手を強く握りしめられる感覚に、現実に呼び戻される。
 馬車から降りる時に繋いだままだったその手は、しっとりと冷たく濡れていた。傍らに立つその主へと視線を向ければ、少女もまた硬い顔をして俯いていた。そっとその手を握り返せば、エマは驚いたように顔を上げて、ぎこちない笑みを浮かべた。少年もまた、精一杯の笑みを返して、足を進めた。
 前を行く4人に続いて門をくぐると、途端に優しく穏やかで、そして重厚でもある空気に包まれて、少年は思わず身震いをした。出迎えた王宮の侍女たちとアイリスが何か話しているのをぼんやりと見ながら、左の拳を握りしめれば、あの指環が冷たく、重たく、指に食い込むようだった。
「薬師殿。」
 侍女との話を終えたアイリスが、グレイグたちの方へと向き直る。
「済まないが、向こうの小部屋で少し待っていてもらえないか? すぐに侍女が案内する。」
 そう告げた後で、令嬢は軽く嘆息し、肩をすくめた。
「わたしはこれから着替えてくるよ。ここに来た時には、国王陛下はいつもドレスをお望みになる……。まあ、どちらにせよ帯剣は許されぬし、仕方ないと言えば仕方ないか……。」
 ぼやくように続け、「ではよろしく頼む」と言い残すと、アイリスは侍女に連れられて廊下の奥へと姿を消した。部屋の前で待つのだろう、従者の双子もその後を追う。
「……どちらかといえば、ドレスをお望み、というよりは、親心、だと思うんですけどねぇ……。」
 その後ろ姿を見送った後で、グレイグはぼそりと呟いた。それにどう応えてよいかわからず、エルンストとエマは目を瞬かせて顔を見合わせた。
     

 

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