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 子どもたちが立ち上がったのを見て、柱の陰に立っていたグレイグは静かに踵を返し、一足先に部屋へと戻った。
 窓から差す仄かな月光を頼りに、簡素な寝台へと再び潜り込む。静かに身を横たえても、闇を見透かす両の瞳は開いたままにしておいた。少年が戻って来て自分の寝台に潜り込むのを気配で確認すると、小さく息をついて再び視線を天井へと戻す。いつ追手がかかるかと思えば、おちおち眠っているわけにもいかない。
 帝都の城門でエルンストの金髪をさらしてしまった以上、そう遅くないうちに報告があがるだろう。それがしかるべき者の耳に入れば、すぐに追手が差し向けられても不思議ではない。
 こちらは行き先も知られているし、馬車で移動していることも知られている。となれば、街道を道沿いに行くしかないことも、当然すぐに知られることになる。駿馬を駆られれば簡単に追い付かれてしまう。最悪の場合、今夜にでも。
 そんなことを考えているうちにエルンストが部屋を抜け出したものだから、つい後を追ったのだ。もしもの時に、すぐに彼を連れて森に逃げ込めるように。エマが先にいたので話し掛ける機会を失ったままに、その心配もまた今のところは杞憂に終わったようではあったが。
 もちろん、逆の可能性として、今回の一件はエルンストには全く関係のないことで、追手などかからないということも考えられないではない。けれど、グレイグは楽観的になる気にはなれなかった。
 誰が、どれだけのことを知って、何のために、どう動いているのか。
 それがほとんどわからない。場合によっては、複数の人間の思惑が錯綜しているのかもしれない。状況がわからないから、切れるカードは限りなく少ない。それどころか、状況を読み違えれば、好手のはずが一転して悪手に陥りかねないのだ。
 その事態の見通しの悪さが、この青年をどうしようもなく苛立たせた。胸の中に策のないままに何かが起こった時のことを考えると、全身総毛立つような思いにとらわれる。
 せめて、何か手がかりはないものか。
 グレイグは寝床の中で大きく息を吐くと、頭の中の整理にかかる。
 確実にわかっているのは、スラムが焼き討ちにあったこと、それを指示したのが第二将軍リヒターであること、その後ろにいるのは皇帝ゲルハルトではなく、皇太子セレスであるということ。そこから推測されるのは、皇宮の実権はゲルハルトからセレスに移っているということだ。
 これに、エルンストの存在と、彼の母親の指環がどう関わっているのか。
 彼の知っている限り、エルンストの存在をほぼ知っていると思われるのは、皇帝ゲルハルトと第三将軍ジークムント・ハウゼンの2人だった。起こっている事態を考えると、皇太子セレスの耳にも入っていると考えるのが無難だろう。
 そして、おそらくセレスに実権が移る原因となったであろう皇帝ゲルハルトの病変もまた、不穏な気配を漂わせている。
 将軍家の使用人の話では、急に太ったり髪が抜けたりしたとのことだった。それは、ある種の毒物の中毒症状によく似ている。もともとが壮健な皇帝であったから、毒物を盛られていたと考えて相違ないだろう。
 となると、エルンストの存在を知ったセレスが、自分の立場を守るためにゲルハルトを殺害し、エルンストの命を狙っている、と考えると一応の筋が通ることになる。
 けれど、そう考えるにしてもまだ腑に落ちない点がいくつかある。
 第一、正式に皇太子の位につき、まだ18と年若いセレスが、今ゲルハルトを殺す必要があったのだろうか。ゲルハルトがエルンストを後継者に、という動きを見せていたというのなら話は別だが、そうだとしても皇帝が体調に不調をきたしたのはもう2年も前との話だ。もしそうだとすれば、逆にそれだけ時間をかけるのは悠長に過ぎるし、何より周囲に勘付かれてセレスの身が危うくなる可能性がある。
 それに、敵国の皇子であるセレスが、難無く皇帝を殺害し、スラムに襲撃をかけられるほど、皇宮をまとめあげているとは考えにくい。
 となると、今度はスラム襲撃に直接の指示を出した第二将軍リヒターの存在が浮上する。この男は今回の件にどれほど関わっているのだろうか。
 3年前に将軍位を継いだ彼には、エルンストのことは知り得ないはずだし、セレスやジークムントが、そう他の人間にもらしたとは考えにくい。噂というものは、1人に漏らしただけでもすぐに大きく広まる。そうなると、リオルの法にしても、国民感情からしても、アイーダの子セレスよりも、テレーゼの子エルンストを次期皇帝に望む声が大きくなるのは目に見えている。
 けれど、もし何らかの方法でリヒターがエルンストのことを知っていたとしたら。そして、知っていてなお、何らかの思惑で彼の命を狙っているとしたら。あるいは、彼とセレスが完全に結託しているとしたら。すぐに追手のかかる危険は段違いに高くなる。
 いつしか、出口のない思索に迷い込んでいるのに気付いて、グレイグは溜息をついた。
 そもそも、わからないと言えば、なぜあの指環がここにあるのかもわからないのだ。
 あの指環は、エスラントの国王からリオルに嫁ぐ王女へと贈られ、その夫たるリオル皇帝の手に渡り、次の皇位継承者へと譲られるのが慣例となっている。だから、本来ならこの指環を持っているのはゲルハルトであるべきなのに、出産のためにエスラントに帰る途中のテレーゼが持っていた。とかく人目に触れないようにと、あの組木細工に隠されたものの、結局理由はわからずじまいだった。
 ゲルハルトは、先に男子を産んだアイーダへの配慮があったのか、テレーゼを迎えてもすぐに皇后の位にはつけなかった。結局、皇后位に就く前にテレーゼは亡くなってしまっているから、今に至るまでリオルの皇后位は空位となっている。
 となると、最初からゲルハルトの手に渡る機会がなかったと考えられるのかもしれない。そして、セレスが正式に皇太子となっている今、この指環には皇位継承者を証する意味はないのかもしれない。
 それでも、エルンストがテレーゼの子であることを証する意味は残る。もし、それが公に知られることになると、どんな騒ぎになることか。
 セレスが皇宮の実権を手に入れたなら、おそらく指環がないことにも気付いているだろう。となると、やはり楽観的な考えはできないか。
 いい加減絡まって来た思考を一旦棚上げにして、グレイグは再び息をついた。
 どうも、筋の通った推測ができない。決定的な何かを忘れているようなはがゆさが、うまく働かない頭について離れない。
 ふと窓の外に視線を遣れば、初夏の短い夜は足早に過ぎようとしており、東の空はうっすらと白んでいた。
 いくばくかのけだるさを覚えながらも、グレイグはゆっくりと身体を起こした。そのまま傍らのベッドへと視線を移すと、この時ばかりは口元に微かな笑みが浮ぶ。
「あなたを、お母上と同じ目に遭わせるわけにはいきませんからね。」
 軽く目を細めて小さく呟く青年の視線の先で、母親譲りの金髪の少年は、穏やかな寝息を立てていた。

 その朝は、薄靄のかかる中での出立となった。速度を速めた馬車は、幸運にも追手に捕まる事もなく、令嬢の言葉通りに2日後には王都へと到着した。

第三章 了

 

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