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3、眠れぬ夜

 雨があがって月が出ているのだろう。廊下にぼんやりとした光が差し込んできていた。その頼りない月明かりを透かすようにして、エマは足元を確かめながら階段を降りた。そのままそっと板作りの扉を押して外へ出る。
 雨上がりの湿った空気と濡れた森の匂いが、ひんやりと柔らかく少女を包み込んだ。どこか懐かしいような、胸の奥がくすぐられるような、そんな感覚に捕われて、エマは夜空を見上げた。柔らかな銀のかさをかぶった月が、優しく少女を見返している。
 ふとエマは、よく馴染んだ旋律を唇に乗せていた。あの帝都の小さな広場で、人のいない時を見計らって歌っていたのが、遠い過去のように思えた。自分の歌声が湿った空気を揺らし、黒々とした森へと消えていくのが、ひどく切なくて心地よい。
 不意に人の気配を感じ、エマは歌を口ずさむのをやめて振り返った。どこか所在なさげな顔をしている幼馴染みの少年と目が合う。
「ごめん、邪魔しちゃたね、エマ。」
 何と言えばよいかわからずに一瞬とまどった少女に、エルンストは壊れそうな笑みを向けた。
「どうしても眠れなくて……。エマの歌が聞こえたような気がしたから、降りてきちゃった。」
 手持ち無沙汰にぶらぶらと歩き、エルンストはひさしの下の木の階段に腰を下ろした。
「……そう、眠れないんだ。あたしも、眠れないの。」
 エマも軽く微笑むと、エルンストの隣に腰を下ろした。直接雨に濡れていないとはいえ、湿気を含んだ木は、ひやりと冷たかった。
「……。」
 隣で俯く少年の強張った顔にちらりと視線をやって、エマは再び空を見上げた。
「……わからないんだ。」
 しばしの沈黙の後に、少年がぽつりと漏らした。エマは静かに視線だけを隣に戻す。
「あんなことを言われても、僕にはわからないんだ……。こんなことになっているのに……。たぶん、僕のせいでこんなことになっているというのに、僕は……、何を感じて、どう思えばいいのかもわからない……。何をすればいいのかなんて、全然……。」
 地面に雫を落とすようにぽつぽつと喋る少年の横顔は、とても頼りなく、痛々しくて、まるで幼子のようだった。
「仕方ないよ。……あなた……のせいなんかじゃない、あなたは、何も悪くないよ。」
 静かにそう言ったエマが自分の呼び名のところで詰まったのに気付いたのだろう、少年は痛切に眉を寄せ、顔をあげた。
「エマも知ってたんだよね、僕が……その……。」
「うん……。」
 エマは小さく頷くと、軽く目を閉じた。
「お母さんに言われてたもの……。エルは皇子さまだから、いざという時にはお守りするのよって。だから、いつかお城の人があなたを迎えに来て、もう二度と会えなくなっちゃったらどうしようって、ずっと思ってたの。小さい頃は本当に……、本当に怖くて、何度も怖い夢見て泣いて、あなたと兄さんを困らせたよね。」
 夜風に溶けるように、言葉が静かに唇を割る。今まで怖くて形にできなかった言葉が、不思議に滑らかに滑り出た。
「あたしは……、本当は、いつまでもあなたが本当にことを知らないでいてくれたら、いつまでもこのままで一緒にいられたら、どんなにいいかって思っていたの。」
 だから、自分だけはこの幼馴染みの少年を、何があっても名前で呼び続けた。
 身分を隠した皇子を「皇子」と呼ぶ人間はいない。それを逆手にとって、グレイグやルッツがわざと彼を「王子」と呼び、余計な疑惑や噂が広まらないようにしていたのを知っていて、それでも決してエマ自身は「王子」とは呼ばなかったのだ。
「だから、その……。王都に着くまでは、今まで通りにエルって呼んでもいい? その、アイリスさまたちにばれちゃっても困るし……。」
「うん、そりゃもちろん……。別に王都に着くまでじゃなくても……。そりゃ、その後どうなるかなんてわからないかもしれないけれど……。」
「……よかった、ありがとう。」
 言いにくそうに口にしたエマに、エルンストが目を瞬かせながら答えると、少女は心底安心したような笑みを浮かべた。
「あたしはね、エルが本当のことを知っちゃったら、全然別の人になっちゃったりしたらどうしようって心配してたの。」
 そう言ってエマは、にこりと柔らかく微笑んだ。
「……。」
 エルンストはそんな少女を、半ばあっけにとられて眺めていたが、エマの微笑みを見ていると少し気分が軽くなったような気がした。
 が、自分の左の小指にはまった指環が目に入ると、胸に重暗い影が差す。
「ルッツは……。これがそういう指環だったから……、取りに戻ったのかな……。」
 ぽつりと苦しげに吐かれた少年の呟きを聞き止めてか、少女は小さく息を吐いた。
「あたしにとって……、エルのことも大好きだし大切だけど、兄さんとか母さんとかは、やっぱりまた特別だったの。」
「あ、ごめん……。」
 思わず謝ったエルンストに、エマは慌てた様子で首を振った。
「ううん、そうじゃないの。そうじゃなくて、血が繋がってる、ていうのはそういうことだと思うの。……ねえ、エルはエルのお母さんのこと、覚えてる?」
 唐突とも思える質問に、エルンストはぱちぱちと目を瞬かせながらも、しばし考えを巡らせた後でゆっくりと首を振った。おぼろげながら、優しく抱いてくれた感覚は覚えているような気もするが、顔も、声も、全く思い出せない。
「あたしも、エルのお母さんのことは覚えてないの……。でも、兄さんは覚えてたみたい。ふふ、さっきアイリスさまに聞いたら、兄さんと同じようなこと言ってたの。」
 くすり、と小さな笑みをもらし、エマはすぐに口調をもとの静かなものへと戻した。
「それは、エルの血の繋がった、たった1人のお母さんの、大切な形見……なんだよ。それを燃やされたり、とられちゃったりしたら、悔しいじゃない。……だからきっと兄さんは取りに戻ったんだと、あたしは思うの。」
 おぼろの月を見上げたまま、エマは淡々と続けた。柔らかな月影の差す見慣れたはずのその横顔は、ひどく大人びて見えて、エルンストは言葉もなく見入っていた。
「だから……、ううん。」
 小さく息を吐き、何か続けようとしたエマは、思い直したように首を振って言葉を切った。少年の方を振り向くと、悲しげにも見える微かな笑みを浮かべる。
「先のことは……、何がどうなるかなんてわかんないから、その時考えればいいと思うよ。エルがどんな答えを出しても、あたしは……。」
 少女は一旦言葉を止め、目を伏せた。
「あたしは、賛成……、するから。」
 口の中だけで呟くように続け、エマは不意に顔をあげた。にっこりと微笑んで、再び少年に顔を向ける。
「だから、今日はもう寝よう、ね?」
 壊れそうなくらいの笑みを貼付けたままで、エマは立ち上がってエルンストに背を向けた。少年も、促されるように立ち上がる。
「エマ……。その、ごめんね。……ありがとう。」
 指環のはまった指を袖の上から押さえながら少年が呟くと、エマは一瞬足を止めた。返事は返ってこなかったが、少女が息をつく気配だけが伝わってきた。

 

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