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 アイリスとエマが出て行った後も、エルンストとグレイグはしばらく2人が去った扉から目を離せずに、黙ったままだった。
 薄い壁越しに、「さ、エマ、こっちだ」などと呼んでいるアイリスの声がはっきりと聞こえてくる。アイリスの声がよく通るということを差し引いても、ここで内緒話はとてもできないだろう。グレイグは小さく溜息をついて、首を振った。
「ごめんなさい、まだ話していないこともありますし、聞きたいこともたくさんあると思いますが、続きはまた今度……でいいですか?」
 おもむろに振り返った青年の言葉に、エルンストは頷くより他はなかった。まだ頭の中が痺れていたし、今これ以上聞いたところで理解が追い付くはずもない。中途半端なざわめきと、かすかな安堵が胸の中で静かに揺れた。
 グレイグは再び嘆息すると、エルンストの横顔から自らの拳へと視線を移した。が、不意にそこで動きを止める。眉を寄せ、しばし硬直した後に、青年はそろそろと自分の手を開いた。
 先程アイリスが姿を見せた時、エルンストが指環を握り込んで隠したように、グレイグは箱の方を握り込んで隠していたのだが、半分程形を留めていたはずのそれは、バラバラの木片へとなりはてていた。
 とりあえず寝台の上に並べてはみたものの、一つ一つが複雑怪奇な形をしているそれを元の箱型に組合わせるのは至難の技に見えた。一応手にとって試みてはみるのだが、器用なグレイグにしても、どこをどうすればよいのか、皆目見当がつかない。
「……戻せなくなってしまいました。」
 ぽつり、と青年が抑揚のない声で呟くと、横から覗き込んでいたエルンストが、怯えにも近い驚きのまなざしを向ける。
「だって開けてたのに……。」
「いえ……。元々僕が作ったものじゃありませんから……。1つ2つ外しただけなら戻せますが、こうもバラバラになってしまっては……。」
 済まなそうな口調でグレイグが続けると、少年の顔にはますます困惑の色が濃く広がった。
 少年が大声をあげてしまわないように、グレイグはエルンストの隣へと席を移した。少年に軽く声をかけ、その掌をそっと開かせる。金色の小さな指環は、少年の体温を吸い込んで、濡れたように艶やかに光っていた。
「あなたは右利きでしたね……。とりあえず今はこの指環は左手にはめておいて下さい。このローブは袖が長いですから、こういう風に握り込んでおけば外からは見えません。あなたには申し訳ありませんが……、これが一番なくさない方法です。」
 口調こそしおらしいが、青年が続けた言葉にはどこか拒絶を許さない響きがあった。
「でも……。」
 言われて躊躇いながらも、他に方法も思い浮かばず、エルンストはおそるおそる指環をはめた。この指環のもつ意味のあまりの重さに、投げ出してしまいたい気持ちにもかられたが、それすらもできない程に、このちっぽけな指環は重たかった。
 小さな金の指環は、細身の少年の、その小指にやっと入る大きさだった。この指環の持ち主はよほど華奢な人だったのだろう。そう思うと、ふと溜息が漏れた。
「……では、僕達も休みましょう。眠れないかもしれませんが、横にはなっていて下さい。それだけで、だいぶ違いますから。」
 その視線をじっと指環に注いだままで呟くグレイグに、エルンストは黙って頷いた。


 エマを連れて部屋に戻ったアイリスは、さっさと甲冑を外し、その傍らに剣をたてかけた。エマは部屋の隅に所在なく立ち尽くして、その様子をぼんやりと眺めていたが、剣に視線がいくと、口元をわずかに歪めた。あのスラムを焼き払っていた衛兵たちの姿が蘇ってきて、きつく唇を噛んで目を閉じる。
「どうした、エマ。そんなところに立っていないでこちらにおいで。」
 すっかり軽装となって長い髪をゆるやかに結んでいたアイリスは、怪訝な顔をしてエマを手招いた。
「ベッドは一つしかないが、エマは小さいし、まあ、2人で寝てもそう狭くはないだろう。」
「え、そんな……。」
 エマは思わず顔を強張らせると、慌てて首を横に振った。いくら何でも、将軍の令嬢と同じベッドで眠るなど、恐れ多いにも程がある。
「大丈夫。わたしはそれ程寝相は悪くないはずだから、途中でエマを蹴落としたりはしないと思うが……。」
「え、えっと、あの……。」
「そんなにかしこまらないでくれ。こちらが気恥ずかしくなる。」
 困惑を顔にはりつけたままのエマに、アイリスはついに苦笑を漏らした。
「すみません……。」
 その様子に、エマはますます身を小さくする。
「だから……。まあ、とりあえずこちらにおいで。髪を結ったままでは眠れないだろう? 解いてあげよう。」
 再び苦笑まじりにアイリスが手招きをすると、今度はエマも躊躇いながらではあったが、素直にアイリスの隣に腰を下ろした。
「そうそう、細かいことは気にするだけ損だ。……エマの髪は素直で良いな。栗色も綺麗だし。……編んでも良いか?」
 ゆっくりと丁寧にエマの髪を解き、手で梳きながらアイリスは目を細めた。
「あ、は……、はい。」
「じゃあ、遠慮なく……。ふふ、エマは可愛いなぁ。わたしにもこんな妹がいればよかったのに。……あ、痛ければ我慢せずに言ってくれ。」
 顔を赤らめ、上ずった声で答えたエマに、アイリスはくすりと笑みをもらし、ゆっくりと栗色の髪を編み始めた。
 髪のこすれる、衣擦れにも似た軽い音が、エマの耳もとで心地よく響いた。ゆるやかに髪を編む令嬢の手付きは優しく、柔らかで、いつの間にか胸の中に暖かい安堵が広がってゆくようだった。幼い日に、母親に髪を編んでもらった時のことをふと思い出したのかもしれない。
「あの……、アイリスさま?」
 相手の顔が見えていないのを幸いに、エマは遠慮がちに口を開いた。
「ん? どうした?」
「あの……、どうして、その、剣を……。」
 後ろから返ってきた声は優しげだったが、ひどく失礼なことを尋ねようとしている気もしてきて、エマの声はしどろもどろに消え入りそうになった。
「『女なのに』、か?」
 が、思いのほか背後の声は穏やかだった。
「そうだな、どうしてだろうな……。最初は父に、やってみるかと聞かれたような気もするな。」
 わずかの間を置いて、考えを巡らせるような声が漏れた。手が弛んだのか、途中まで編まれていた髪がゆるゆると戻っていく。軽い苦笑と共に、再び細長い指がエマの髪にかかった。
「母は身体が弱くて、わたしを産んですぐに亡くなったからな。父はわたしのことが心配だったのだろうなぁ……。それで身体を鍛えるために、と勧めたのだと思う。……テレーゼさまのこともあったし、自分で身を守れるように、と言われたこともあったな……。」
 するすると再びエマの髪を編みながら、しんみりと独り言のようにアイリスは続けた。
「けどまあ、早い話が、わたしは寂しかったのだよ。エマは知るまいが、あの頃はいくさが多くてな。父もよくいくさに出向いていたものさ。だから、剣の腕が上がったら、わたしも連れて行ってもらえると思っていたんだな。でも、それも今となっては昔の話さ。結局性に合っていたのだろう。父だって今は苦い顔しかしないしな。……さ、できたぞ、エマ。」
 軽い口調で切り上げると、アイリスは緩く編んだ毛先を紐で留め、エマの肩をぽんと叩いた。
「あ、ありがとうございます……。」
「いや、こちらこそ。よければ明日の朝も結わせてくれ。」
 おずおずとエマが振り向くと、アイリスはにこりと微笑んだ。
「あ、あの……。」
「ん? どうした? まだ何か気になることがあるのか?」
 思わず口籠ったエマにも、アイリスはにこにこと笑顔を崩さない。
「テレーゼさまってどんな方だったんですか?」
 ほんの少しの躊躇いの後に、今度はしっかりと正面を見て尋ねると、アイリスは少し考え込むような顔をした。
「うーん……。わたしもほんの小さな頃に1、2度お会いしただけだからなぁ……。ああ、でもとてもお優しそうで、見ているこちらまでほっとした優しい気持ちにして下さるような方だったよ。とても儚げなのに、芯のお強いところがあって……。あのような方を姫君というのだろうなぁ……。それが、『佳人薄命』という言葉があるとはいえ、あの若さであのような亡くなり方をされるなんて……。あまりに惜しい。国王陛下も嘆かれるはずだ。」
 記憶を辿るような懐かしむような顔になっていたアイリスだったが、ふとその表情に痛切さを滲ませた。
「ま、そういうことだ。そろそろ眠るぞ、明日に障る。」
「あ、はい、ありがとうございました。」
 聞いていたエマの顔もまた沈痛なものになっていたのだろう。アイリスは笑顔で話を切ると、エマの肩を軽く叩き、ランプを消して寝台へと潜り込んだ。エマも促されるままに続いたものの、やはり令嬢の隣では眠れたものではない。
 傍らから安らかな寝息が漏れ始めたのを確かめると、エマはそっと部屋を抜け出した。

 

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