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1、束の間の安堵

 馬車の小窓から、すっかり赤く染まった陽光が差し込んできて、眠っている少女の頬に陰を投げた。
 先程までは、薄暗い馬車の中もひんやりとした空気に包まれていて、そこはかとなく森の香も漂っていたようだったが、どうやら開けたところに出たらしい。
 小さな窓の向こうに見えた夕陽は、ひどく久し振りに見たようにも思えて、およそ現実感というものが湧いてこなかった。けれども、赤いその光は、強く目に沁み入って来るようで、エルンストは思わず目を細めて掌をかざした。
 まもなく、再び夕陽が窓枠に隠れ、またひんやりとした陰が戻って来る。心地よく響いていた蹄の音が不意に止まり、かたんと馬車が揺れた。
 それまでエルンストに身体を預けるようにして眠っていたエマが、小さな声を漏らして、ゆっくりと目を開ける。一瞬、ぼんやりとした少女が、頬を染めながら慌てて身体を離したのと、外から馬車の扉が叩かれるのがほぼ同時だった。
「薬師殿。」
 既に馬を降りていたアイリスの言葉に促されるように外に出ると、そこは森の中に開かれた小さな街のようだった。リオルとエスラントの間を行き来する旅人のために、街道沿いにできた宿場町といったところだろうか。帝都リオルのスラム程度の広さしかないが、柔らかな森の香と暖かな夕陽の匂いに包まれて、どこかほっとさせるような雰囲気があった。
「今夜はここで宿をおとりした。事前に遣いを出していなかったから少々手際が悪いが、どうかお許し願いたい。」
 そう言って軽く目礼をする彼女に、グレイグは慌てて首を振った。
「とんでもありません。もともと無理を申し上げたのは僕たちの方です。お手数をおかけして申し訳ありませんでした。」
 深々と頭を下げる青年の横で、つい周囲を見回していたエマとエルンストも、恐縮しきりといった面持ちで慌ててぺこぺこと頭を下げた。
「いや、お誘いしたのはこちらだ。そんなに気を遣わないでもらいたい。」
 苦笑をもらしたアイリスに、3人はようやく頭を上げた。そろそろと顔を戻したエマが、あ、と小さな声を漏らす。少し離れたところで山鳥の羽をむしっている彼女の部下達の姿が目に入ったのだ。
「あ、あたし、手伝います。」
 言うが早いが、少女はさっさと小走りで駆け寄り、2人の脇にぶら下げられている山鳥に手を伸ばす。
「あ、僕も……。」
 置いていかれたエルンストも慌ててその後を追う。
 ローベルトの馬に弓矢が乗っているところからすると、どうやらこの山鳥はここに来るまでに彼が射落としたものらしかった。まだ温かみのある大きな鳥の羽をむしりながら、エルンストは感心の声を漏らさずにはいられなかった。
 街道を走りながらこんなに大きな鳥を何羽も射落とすなど、よっぽどの腕の持ち主なのだろう。
 以前、ルッツと2人で手製の弓を持って森に入った時には、1日走り回ってもさっぱりだった。自分だけならともかく、ルッツも一羽も落とせなかったのだから、弓で鳥を射落とすのはよっぽど難しいのだろう。「やっぱ網だ、網!」と負け惜しみを言っていた彼の声と表情が蘇ってくると、目の奥がじわりと熱くなったように思えて、エルンストは慌てて羽をむしる手の方へと意識を集中させた。
「……貴殿は弟子にあんなことまでさせておられるのか?」
 黙々と山鳥の羽をむしる2人を呆然と眺めていたアイリスが、ようやく、といった面持ちで口を開く。
「……あなたの部下も同じことをなさってますが……。」
 同じくぽかんとした顔をしていた青年も、間抜けな声で返事を返す。
「いや、狩りに行った時にはよくその場で食べるから……。でもそうか、よそもそんなものか。なら、これからは父に隠れてする必要もあるまいな。」
 数度瞬きを繰り返し、アイリスは独り合点したように頷いた。よそといっても、直属の部下に鳥の羽をむしらせるのをみっともないとする階級など、ほんの一握りの者たちに限られていることにまでは、考えが及ばないのだろう。
「それにしても……、本当にお手数をおかけして申し訳ありません。」
 彼女の独り合点に水を差すのを思いとどまり、グレイグは再び頭を下げた。あの山鳥は宿に差し出すためのものに間違いないだろう。宿側が急な客人に出す食事に困らないように。
「だから、そう気を遣われるな。いつもやっていることだから……。おや、終わったようだな。我らも行こう。」
 令嬢の言葉に顔を上げれば、すっかり丸裸になった鳥を両手にぶらさげた双子が宿へと入って行くところだった。アイリスとグレイグが宿の正面まで来ると、ちょうど再び双子が出て来たところだった。歩み寄った主人に、彼らは一言二言、小声で何か報告した。アイリスは数度それに頷くと、グレイグの方に向き直る。
「薬師殿、我らはこれからもう一駆けしてくるから、先に部屋で休まれよ。」
「一駆け? 今からですか?」
 唐突な彼女の言葉に、グレイグは目を丸くした。朝からずっと馬を走らせていて、もう日も沈もうというのに、これからまだ一駆けしようというのだ。
「こいつがな、まだ走り足りないようでな。いつもならエスラントまで夜通し走って一昼夜なものだからな。」
 苦笑を浮かべてこともなげに言いながら、宿の前に留めていた愛馬を引き寄せてその鼻筋を撫でるアイリスの様子に、グレイグは細い目を見開いた。
「一昼夜? この道のりをですか?」
「いや、普段は街道など通らぬものだから……。ここの街道は曲がりくねっていて遠回りだろう?」
 が、アイリスの方はそれに構う様子もなく、真顔のままで言葉を継いだ。
「はぁ……。」
 返す言葉も失って、グレイグは間の抜けた声を漏らした。
 確かに、リオル、エスラント間の森を抜ける街道は曲がりくねっているが、それは何も不必要に遠回りをしているわけではない。当然、急な窪みや沼、毒草の群生地などを避けてのことなのだが、それを口にするのもせんのないことにしか思えなかった。
「わたしたちは折り詰めにしてもらったから、先に食事もとって、お疲れだろうから休まれると良い。無愛想で済まないが、よろしく頼む。」
「はい……。ではお言葉に甘えさせて頂きます。お気をつけて。」
「ああ、ありがとう。」
 からりと微笑むと、アイリスは愛馬に飛び乗り、部下の双子と共に森の中へと消えて行った。
「……これじゃあ、アルトナー将軍も大変でしょうねぇ。」
 3人の背中を見送ったグレイグは、ぽつりと小声で呟くと、エルンストとエマを促して宿へと入った。  

 

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