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5、哀しみの皇妃

「母上!」
 自室に戻ったセレスは、扉も閉めずに奥の間へと続くカーテンを跳ね開けた。部屋中に敷き詰められた花の香がむっとするほど匂うのにも構う様子はなく、その真中に座る深紅のドレスの女に嬉々として話し掛ける。
「ほら、見て下さい、母上! 私は皇帝の椅子を手に入れたのだ!」
 セレスがどこか甘えたような、弾んだ声で続けるのにも、女はまったく無言のままだった。
「母上はあんなにこの日を待っておられたではないか。喜んで下さい。」
 哀願の色さえ帯びたはしゃぎ声で再び呼び掛けても、女は返事さえしない。
「……なぜ。」
 セレスははしゃぐのやめ、じっと母親を見詰めた。
「なぜだ、母上! なぜあなたは私を見て下さらない! あの子が死んだあの時からずっとずっとずっと……!」
 ついにかんしゃくを起こして、セレスは大声をあげた。
「私はあの男から、あなたの憎むあの男から全て奪って見せたというのに! なぜあなたは喜んで下さらない! 私を見て笑って下さらない! なぜ! ……あなたを悩ませたあの女の息子の死体を持ってくれば、あなたは喜んで下さるのか?」
「陛下!」
 セレスの叫び声を聞き付け、慌ててジークムントが飛び込んで来る。
「どうか、なさいましたか?」
 すぐに状況を察したジークムントは、穏やかな声でセレスの背中に問いかけた。
「母上が、喜んで下さらない。」
 ぶっきらぼうな声で答え、セレスはゆっくりと振り向いた。そのオリーブグリーンの瞳は、抑え目ながらもぎらぎらと怒りの色に燃えていた。
「……陛下。」
 ジークムントは軽く目を閉じて、息をついた。
「アイーダさまは、もうお亡くなりです。」
 静かな、けれど厳然とした口調で、短く続ける。
「死んだ? あの母上が? あれだけ皇位にこだわっていた母上が、私を皇帝にする前に死んだと?」
 ジークムントの言葉に、セレスは嘲笑で応えた。けれど、その瞳には狂気の色は見られない。少年が決して正気を失っていないことは、皇帝が昨日死を遂げたことが明白に物語っている。
 しかし、狂っていないがゆえにやり場のない怒りは、哀しみの色さえたたえて、らんらんと輝いた。
「陛下……。もう母上を許して差し上げて下さい。死者を苛む法は、リオルにもカッセーレにもありません。」
「苛む? 母上が苦しんでいるというのか? あれほど私の即位を望んで……。」
「陛下。」
 静かに、ジークムントはセレスの言葉を遮った。灰色の隻眼は、まっすぐにこの若い皇帝に向けられたままで。
 少年は言葉を失って、半開きの唇を大きく歪めた。頬が数度震えて、泣き顔にも近い、怒りの表情を形作る。
「くっ……。勝手にしろ!」
 苦々しげに言い捨てると、セレスは乱暴に踵を返した。
「……ありがとうございます。」
 ジークムントの言葉を背中で聞くと、足音も荒くカーテンを跳ね開け、部屋の外へと出て行った。ちょうどその前を通りがかった若い侍女が、驚いて立ちすくむ。
「棺を手配してもらえないか?」
 気配を察して奥の間から出てきたジークムントの言葉に、彼女はさらに目を丸くした。
「アイーダさまが亡くなられた。」
 ジークムントが短く告げると、侍女はますます困惑の色を濃いものにする。
「え、あの、でも……。」
「特別なものでなくとも良い。できるだけ早く手配してくれ。後のことは全て私がする。カッセーレ式の密葬を行うと皆には伝えてくれ。」
 なかなか要領を得ない侍女に内心いらだちながらも、ジークムントは淡々と続けた。
「は、はい、かしこまりました、ハウゼン将軍。」
 侍女は明らかに安堵の表情を浮かべると、ジークムントに一礼して慌ただしく去って行った。その背中を苦々しく見送ると、ジークムントは再び奥の間に戻る。
「……王女さま。」
 遣り切れない溜息を吐いて、低く呟く。
 椅子に座らされた皇妃の亡骸は、ところどころ乾き始めていたが、生前の美貌をそのまま残していた。穏やかに目を閉じ、苛烈な表情が残っていないのが、救いといえば救いだろうか。
 敵国の皇帝とのこの結婚は、気位の高い彼女にとっては屈辱以外の何ものでもなかったろう。付き従った侍女の数も少なかったし、従者として同行したジークムントも、本来なら王女に拝謁できる身分にはなかったのだから。
 さらに、皇帝ゲルハルトこそ彼女や従者たちにそれなりの敬意をもって接したが、他の人間は皇宮の中でさえあからさまに冷たい視線を向け、陰で売女だの魔女だのと罵った。
 この生活に耐えられなくなった侍女たちが逃げ出してしまっても、アイーダはあくまで王女として振るまい、胸を張って皇宮を歩いた。ジークムントに対しても下級貴族としての扱いを崩さなかったし、時には皇帝と議論をしてやりこめることさえあった。カッセーレの王女としての矜持のみが、彼女を支えていたのだろう。
 だがそれも、その数年後に起こった政変によって崩れてしまった。決して言葉や行動に出すことはなかったが、それでも父王が斃(たお)れ、王女としての地位を失った彼女は、目に見えて憔悴していった。
 もはや、彼女に残されていたのは2人の子どもだけだった。次期皇帝と皇女である双子を守り育て、このような事態を招いた夫に憎しみを向けることだけが、彼女の全てだった。
 けれど、その一方で、自分でそうと認められなくても彼女が夫に惹かれていたのも事実だった。冷たくなった幼子を抱いて錯乱した彼女は、何度も何度も、幼子と、そして夫に対する謝罪を繰り返し口走っていたのだから。
 あたかも憎しみと慕情とに引き裂かれるように、この頃から彼女の心は徐々に徐々に壊れていったのかもしれない。
「王女さま、あなたもさぞかし辛い思いをなさったのですね……。」
 ジークムントは軽く瞳を伏せると、それでも、と胸の中だけで低く呟いた。
 先程のセレスの、怒りに燃えた顔を思い出す。自分を皇位継承者としてしか見ない母親への怒りを呑み込んで、全て父親への恨みと変えていた、若い皇帝の顔。
 セレスもまた、母親以上に苦しんでいるのだ。そして、それをいかんともしがたい自分がいる。
「私の力が足りず、申し訳ありません……。今は、ただ、安らかにお眠り下さい。」
 ジークムントは皇妃の前に跪いて祈ると、その亡骸を丁寧に白いシーツにくるんだ。
「けれど、あなたのお子様は、私が、力の限りお守り致します。」
 最後にアイーダの顔をそっと覆いながら呟くと、遠慮がちに部屋の扉が叩かれた。棺の手配が整ったのだろう。ジークムントは軽く目を閉じて息をつくと、ゆっくりと立ち上がった。

第二章 了

 

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