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「皇太子殿下。」
 廊下を歩くセレスの姿を認め、リヒターはうやうやしく声をかけた。振り向いたセレスに、リヒターの隣にいた副官と思しき青年は、慌てて頭を下げる。
「スラムの掃討は無事に終わりました。」
 続けられたリヒターの言葉に、副官は思わず口を開こうとしたが、将軍に目で制され、口をつぐんだ。
「そうか。で、盗まれたものは見つけたのか。」
 リヒターの報告にも、セレスは無感動に答え、冷淡に尋ねた。
「いえ、まだ……。ですが、間もなく見つかるかと。」
「では、引き続き探せ。」
 冷ややかに言いおき、皇太子はさっさと2人に背を向けた。
「はい。仰せのままに。」
 その背中に再びうやうやしく頭を下げたリヒターの横で、副官の男は口をつぐんだままだった。
「どうした、フロイス。」
 セレスの後ろ姿が完全に見えなくなってから、リヒターは訝るような視線を部下へと向けた。
「いえ……。子どもが2人逃げたという報告を受けています。まだ捕まえたという話も聞きません。無事終了とはいえないのではないかと……。」
 20を少し過ぎたくらいの若い青年は、苦りきった声で、ぼつぼつと答える。
「何を言い出すかと思えばそんな小さなことを。お前は若いくせに融通がきかないな。」
 だが、その部下の言葉を、リヒターは一笑に付した。
「……。」
 フロイスは喉の奥で声をつまらせると、唇を噛んで黙り込む。
 元々、スラム掃討など、全く彼には気が進まなかったのだ。確かに、スラムの人間が皇宮に入り込んで盗みを働いたことは、断じて許されることではない。けれど、スラムにだって無関係な人間はいくらでもいよう。病に臥せって起きあがれない老人、乳呑み児を抱えた女、年端もいかぬ子ども。そういった人間をひとくくりに見ようなどと、乱暴なことこの上ないではないか。第一、盗まれたものを捜索するのに、こんな野蛮ともいえることをしていては、見つかるものも見つからない。
 そんな不満を「命令だから」と抑え込んで遂行してみれば、「そんな小さなことを」ときたものだ。
「まさかお前、本当にスラムの人間が皇宮で盗みをしたなどと思っていないだろうな。」
「え?」
 唐突な上司の言葉に思わずフロイスが目を丸くすると、リヒターはさもおかしそうに笑った。
「バカか、お前は。少し考えればわかるだろうが。スラムの人間が皇宮に入れるものか。」
「では……、なぜ……。」
 胸の奥からわき上がって来る怒りを何とか抑え、フロイスは声を殺した。リヒターは面白いものでも見るように琥珀色の瞳を細め、フロイスの顔を覗き込む。
「あんなのはただの血祭りさ。皇帝が代わる時に必要な、生け贄さ。成功しましたと報告しておけばそれで良い。変に細かいことを報告して心証を下げる必要などどこにある。お前は頭が固すぎる。」
 薄い唇の端に歪んだ笑みを浮かべ、リヒターはフロイスの肩を軽く叩いた。2、3歩よろけて立ち尽くした部下を置き去りに、笑いながら廊下を歩いて行く。
 その遠ざかる背中を見詰め、フロイスはきつく唇を噛んだ。

 皇帝の間を辞し、扉の外の兵士から預けておいた自分の剣を受け取っても、ジークムントは足を止めなかった。あたかもアルトナーがついてくることを確信しているかのような足取りで、後ろを振り向くこともなく、無言で足を進める。
 わずかな疑念を抱きながらも、小さく嘆息して、アルトナーはその背を追った。銅の甲冑に身を包んだ大きな背は、歴戦の老将軍から見てさえ壁のように分厚く、短く刈り込んだ灰色の頭は見上げるような位置にある。30も半ばにさしかかったその後ろ姿には、既に「青年」の持つ脆さや甘さをぬぐい去った風格が備わっていた。
 柔らかな絨毯を踏み締め、2人は階下へと降りていく。1階についたジ−クムントは大広間の脇を通り、地下へ続く階段へと足を進めた。アルトナーも黙ってそれに続く。
 階段に足を踏み入れた途端、じっとりとした闇色の湿気が立ち上り、2人を包んだ。両脇に設けられたくぼみで、燭台の炎がちろちろと怪しく揺れる。
 金属の足音はもちろん、鎧のきしむ音も、2人の息を吐く音さえもが、狭い階段に響き、渾沌と混じりあう。
 やがてぽっかりと開いた広間が2人を迎えた。いくつもの燭台の揺らめく炎が、石の床と壁、そしてその壁にたてかけられた剣や槍を照らし出す。普段、兵士たちの訓練場として使われているこの部屋には、誰の姿も見えず、無気味にも思える静寂が満ちていた。
 広間の中程へと進み、ジークムントはようやく足を止めた。しばし躊躇うように立ち尽くした後、ゆっくりとアルトナーの方を振り返る。
「……。」
 そのまましばらく、2人は無言で身じろぎ一つせずに向かい合っていた。ほんのわずかでも動こうものならたちまち身が切れそうな程の鋭い殺気と緊張が、細く細く張り詰める。
「……これは、誰の意向か?」
 先に口を開いたのは、アルトナーの方だった。
「……。」
 ジークムントは唇を結んだまま、揺らめく灯りの映る灰色の瞳を、わずかにずらした。
「私に何も事情を知らないまま死ねと言うのか?」
 アルトナーが厳しい口調で重ねて問えば、ジークムントは軽く眉をよせ、瞳を閉じた。よく焼けた褐色の頬を、蝋燭の炎がまだらに染める。
「……私の、意思です。」
 ジークムントは瞳を閉じたままで、短く答えた。じりじりと蝋燭の燃える音さえ聞こえてくるような静寂が、再び場を満たした。
「……なぜ?」
 老将が短い問いで沈黙を破れば、彼が娘婿にと望んだ男は静かに息をつき、ゆっくりとまぶたを持ち上げた。
「あなたは、陛下の血縁にあたられる……。皇位継承権をお持ちだからです。」
「私が野心を持って皇太子殿下に刃を向けるとでも?」
「いいえ。」
「……。」
 短く即答して、ジークムントは再び黙り込んだ。何度目の沈黙だろうか。ジークムントもアルトナーも、ただ黙って相手の目を見詰めていた。
 

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