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 帝都の城門を出ると、石畳が切れて土の道へと変わったらしい。途端に馬車の揺れと車の音が、一段柔らかいものになる。
 それが心なしかの安堵を招くのだろう、深く腰を下ろした青年の顔には、さすがに疲れの色が見えた。
「……大声を出すのも少し疲れますねぇ。」
 気づかうようなエルンストの視線に気付いたのか、グレイグはごまかすように小さく呟いて軽く目を瞑った。が、幾分青ざめたその表情は相変わらず渋いままだ。
「でも……、アイリスさまの親戚筋だなんて、よくそんなでまかせを……。」
 未だ馬車の中に満ちる張詰めた空気に耐えかねて、エルンストは口を開いた。どうにか形になった声は、ひどく乾いて掠れていた。まだ背中にはひやりとした感覚が残り、握ったままの掌はじっとりと湿る。
「でまかせ、ねぇ……。」
 少年の言葉を繰り返し、グレイグは大儀そうにまぶたを持ち上げた。その口元に、苦笑とも含み笑いともつかない曖昧な笑みが浮ぶ。
「方便、と言って欲しいですねぇ。」
「……グレイグって何者なの?」
 とぼけるように呟いた青年をじっと見詰め、エルンストはずっと聞き損ねていた疑問を口にしていた。この騒動では、本当にこの青年に助けられていることは間違いない。
 けれど、どうしてこんなに事情にも通じていて、ここまで自分たちのためにしてくれるのだろう。彼にこんな危険を冒す理由があるとも思えない。帝都で今まで通りに小さな店を営んでいれば、何も困ることなどなかったろうに。
「前にも言いませんでしたか? 僕は歴史学者で錬金術師、ですが。」
「こんな時にふざけないで。」
 青年の人を喰ったような返答に、エルンストは思わず眉を寄せた。
「では、あなたはどんな答えを僕から引き出したら満足するのですか?」
「え……?」
 思いもかけず冷たい声と眼差しが返ってきて、エルンストは一瞬、言葉を失った。
「あ、いえ……。ごめんなさい、忘れて下さい。ただ、ふざけているつもりはないと言いたかっただけですよ。」
 グレイグはすぐにいつもの顔つきに戻り、軽く目を伏せて柔らかい声で詫びを入れると、そのまま小窓の外へと視線を逃がしてしまった。
「……。」
 エルンストはかける言葉も見つからず、隣のエマをちらりと伺った。エマは相変わらず、否、今まで以上に青ざめた顔をして、固く唇を噛み、拳を握っていた。
 グレイグも、そしてこの幼馴染みのエマも、自分の知らないことを知っている。そう悟ると、きゅ、と胸が苦しくなった。それをそのままぶちまけたい衝動にかられ、けれど再びエマの表情を見てその思いを握りつぶす。
 自分はルッツやグレイグだけでなく、この少女にまで守られていたのだ。いつだって、何も知らない人間の方が知っている人間より辛い思いをしているとは限らない。
「……エマ。」
 胸の動悸を抑え込みながら、エルンストは少女の小さな手にそっと手を伸ばした。色を失って冷たくなるくらい握られたその拳を、ゆっくりと開いてやる。中からは、はからずも彼女の兄の形見となってしまった銀の耳飾りが姿を現した。その金具が食い込んだのだろう、エマの白い掌に、じんわりと血が滲んでいる。
 手当てをしようと、エルンストが自分の衣服の袖を引き裂こうとすると、いつの間にか視線を戻していたグレイグがそれを制した。傍らの荷物の中から傷口とガーゼを取り出し、無言のまま手際よく少女の手当てをする。
「……。」
 エマはただされるがままに、白いガーゼの巻かれた自分の手をぼんやりと眺めているようだった。その大きな榛(はしばみ)色の瞳に、じんわりと涙が浮ぶ。
「エマ……。辛い思いをさせて、ごめん。」
 エルンストが小声で言うと、透明の雫がひと粒、ふた粒、少女の頬を転がった。少年が黙って少女を抱き寄せると、エマはエルンストの胸に顔を押し付け、押し殺した泣き声をあげた。
 よっぽど気が張詰めていたのだろう。途切れ途切れの嗚咽も、やがて小さな寝息に変わる。そっと少女の背を撫でていたエルンストは、安堵の息をついた。
「エマは眠ったようですね……。よかったです。かなり気が張っていたみたいですから……。」
 黙って見守っていたグレイグも、ほっとしたように笑みを覗かせた。
「帝都さえ出てしまえば、リオルとエスラントの国境なんてあってないようなものです。向こうに着くまではもう大丈夫でしょう。あなたも休んで下さいね。」
 青年は柔らかな口調でそう告げたが、言っている本人自身に気の休まった様子はみられない。これも、少年を安心させるための方便なのだろう。
「うん……。有難う。僕は大丈夫。」
 エルンストは小さく頷いて微笑んだ。その顔をじっと見詰めて、グレイグがおもむろに口を開く。
「今回の騒動……。皇帝陛下に『何か』あったことだけは確実だと思います。」
 外にもれないように、小さな声で告げられた言葉に、エルンストはただ青年の顔を見返すだけだった。
「陛下はスラム狩りなど許される方ではありません。それに、先程の門番が出した名前も陛下ではなく、セレス皇太子でした。ただ、僕にだって、全部がわかっているわけではないのです。それ以上のことは想像するしかないのが現実です。むしろ、その想像も追い付いていないのが正直なところです。」
 少年の反応を伺うかのようにその視線をまっすぐにエルンストの顔に据えて、グレイグは一度言葉を切った。
「ですが……。ルッツがあなたに渡した木箱が何であるかは、知っています。」
 御者に気取られないよう、その声は低く押さえられていたが、グレイグの表情はいつになく苦いものだった。
「グレイグ……。」
「でも。」
 口を開きかけた少年を制するかのように、グレイグは強い口調で言葉を継いだ。
「それを知ってしまえば……、たぶん、もう、引き返せなくなってしまいます。あなたにとって、それくらい重要なことです。充分考えて下さい、と言いたいところなのですが……。この通り、あまりゆっくりしていられる時間がありません。酷なようですが、王都エスランティアに着くまでに、どちらにするか決めて下さい。あなたが知りたいと望むなら、僕の知っている限りのことを話しましょう。もし、あなたが望まないのなら、その箱は僕が預かって、この口を閉ざしましょう。……もっとも、あなたがどちらを選んでも、僕はあなたとエマが安全に暮らせるよう、できるかぎりのことをすると約束します。」
 だから、よく考えて下さいね。そう繰り返して、グレイグは小さく息をついた。
「……。」
 静かな口調ながらも、青年の言葉に込められた重みに、エルンストは固唾を呑んで頷くしかなかった。がらがらと車の響く音が、不意に大きくなったように思えた。行き場のなくなった視線を小窓の外に向けると、傾き始めた太陽が目に入る。長かった一日が、ようやく暮れる気配を見せようとしていた。  

第一章 了

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